翌日は朝からどんよりした曇り空で、昼近くなってようやく薄日が射してきた。
篠田伯爵夫人が一条家を訪れたのは午後一時を過ぎた頃だった。
数時間前に訪問の旨を告げる電話があり、玄関脇の応接間を整えておいた。
彩りがほしいと思い、水切りした水仙を生け直して窓辺に飾った。
年末に洗濯したレースのカーテン越しに、澄んだ冬の陽射しが薄黄色の花びらを静かに浮き立たせている。
「お嬢様、篠田様が来られましたので、応接間にお通しいたしました」
佐和の知らせに頷き、澄乃は作業を切り上げた。
頼まれたものは去年のうちに仕上げたので、今は注文品ではない小さな刺繍絵に取り組んでいる。
自ら描いた下絵を絹地に写し、針と糸を使って絵を描いていく。
洋書の挿絵で見るような、うねる長い髪に花や星を散りばめた流麗な曲線を試してみたかった。
さっと身繕いをして応接間へ入ると、篠田伯爵夫人が天鵞絨張りのソファから品よく立ち上がってお辞儀をした。
「このたびはおめでとう存じます。お婿さんを迎えられたそうで。澄乃さんたら何も仰らないから、驚いてしまいましたわ」
「申し訳ございません。なにぶん急に決まった話で、お知らせも行き届かず、失礼いたしました」
澄乃は返礼すると、手振りで夫人に座るよう勧めた。
夫人は鳩羽鼠の小紋に白茶の繻子帯を合わせ、黒の長羽織をさらりと掛けている。
羽織紐には小さな珊瑚玉があしらわれ、袖口から覗く羽裏は淡い小花柄だ。
艶やかな黒髪を高く結い上げ、鼈甲の笄を品よく挿していた。
澄乃は一瞬、ソファの天鵞絨がだいぶ色あせていることが気になった。
手入れして大事に使っていても、古びていることは否めない。
夫人は傍らに置いていた薄紫の風呂敷包みを応接卓へ載せ、結び目を解いた。
中から出てきたのは熨斗紙の掛かった菓子折りの桐箱と、金銀の水引を掛け、『御祝』と書かれた金封だった。
「ほんの心ばかりですけれど、お納めくださいな」
「ご丁寧に、ありがとう存じます」
頭を下げると、ちょうど佐和が盆に茶器を載せて運んできた。
茶碗を応接卓へ並べ終えた佐和に、澄乃は桐箱を軽く押しいただいてから差し出した。
「篠田様からのいただきものよ。お仏壇に上げてちょうだい」
「かしこまりました」
佐和はうやうやしく桐箱を盆に載せ、引き下がった。
夫人は茶碗の蓋をとり、一口含んで茶托に戻した。
「澄乃さん、もうどちらかの初釜にはいらして?」
「いいえ、まだ」
澄乃は曖昧に微笑んだ。
お茶の稽古にはもうずっと顔を出していない。
数年前から初釜の招待状も来なくなった。
篠田夫人はその点を突つくつもりはないようで、お愛想に頷いただけだった。
「澄乃さんに刺繍をお願いした訪問着、ね。裾におめでたい南天模様を今様な図案で繍っていただいた……。わたくし、初釜にあれを着て参りましたのよ」
「まぁ、そうでしたか」
「皆様に褒められましたわ。豪華な染めもいいですけれど、刺繍だと絹糸に光沢があるでしょう。澄乃さんの図案がまた素晴らしくて。それに、袖の松の刺繍とうまく調和して、まるで一幅の絵画のよう……なんて言われて。わたくし鼻が高うございましたわ」
「それはようございました」
澄乃はほっとした。
夫人に気に入ってもらえたのはもちろんのこと、それを見た人にも褒められたと聞けば素直に嬉しくなる。
ところが夫人は急に肩を落として嘆息した。
「それで終わればよかったのですけど……」
「何か不備でもございましたか」
不安になって身を乗り出すと、夫人は苦笑して手を振った。
「とんでもない。澄乃さんの刺繍は完璧ですわ。初釜の後、何人かのお友達と新橋の千疋屋に行きましたの。そうしたら、ちょうどそこに知り合いの奥様がいらしてね。その方が舶来物のレースの手巾を、澄まして取り出したものだから、皆様すっかり目を奪われてしまわれて……」
篠田夫人はやるせなさそうに眉尻を垂れた。
「縁取りは仏蘭西の最高級レースで、全体に薔薇が刺繍してありましたわ。蔓薔薇っていうのかしら。緑の枝がうねうねしていて、桃色の薔薇がたくさんついているの」
夫人はお茶を一口飲んで、また嘆息した。
「そりゃあ、確かに素敵でしたわよ。それを認めないほど、わたくし野暮ではございません」
「……舶来品は人気がありますから」
澄乃は控え目に言った。
夫人の気持ちはわかる。
訪問着を褒められて鼻高々だったのが、舶来品の手巾ふぜいに話題をさらわれておもしろくないのだろう。
「舶来というだけでありがたがってもてはやすのはどうかと思いますわ。皆様お着物なのに、レースをあんなにひらひらさせた手巾なんか膝に広げて……。なんだかちぐはぐですわ」
「さようでございますね」
なだめるように同意しながら、別にかまわないのではと澄乃自身は感じていた。
どんな手巾だったのか知らないが、篠田夫人が憤っているのは礼儀作法の問題ではないのだろう。
注目や称賛をさらわれたのが気に食わないのだ。
彼女は悪い人ではないのだけれど、だいぶ見栄っ張りなところがある。
「ですけれど、伝統的な古典柄をそのまま使っても今の時代にはねぇ。南天の刺繍は、とてもよかったのよ。でも裾だから、テーブル席で椅子に座ると全然目につかないし……。そこでわたくし、いいことを思いつきましたの」
夫人が目を爛々とさせて身を乗り出したものだから、澄乃は気圧されそうになった。
「な、なんでしょう……」
「十五日に帝劇の初春興行へ参りますの。いつもの方々と連れ立って。そのときの半襟と、幕間や終演後のお茶の席で使える手巾を、揃いで作っていただけないかしら」
「揃いで……ですか?」
「ええ、そう。さりげなく目立つものがいいわ。派手すぎず、地味すぎず、ちょうどいい具合に目立って、人様があまりお召しでないもの。澄乃さんならお出来になりますわよね」
篠田夫人の並べ立てるわがままな注文を、澄乃は呆気にとられて聞いていた。
今日は六日だ。
十五日と言ったらもう十日もない。
「あの……。帝劇へは、どのようなお召し物でいらっしゃるおつもりなのでしょうか」
「あら、それも今決めないとだめ?」
「お着物と帯に、色や図案を合わせませんと。それぞれではどんなに素敵に見えても、お召し物に合っていなければ、それこそちぐはぐになってしまいます」
篠田伯爵夫人が一条家を訪れたのは午後一時を過ぎた頃だった。
数時間前に訪問の旨を告げる電話があり、玄関脇の応接間を整えておいた。
彩りがほしいと思い、水切りした水仙を生け直して窓辺に飾った。
年末に洗濯したレースのカーテン越しに、澄んだ冬の陽射しが薄黄色の花びらを静かに浮き立たせている。
「お嬢様、篠田様が来られましたので、応接間にお通しいたしました」
佐和の知らせに頷き、澄乃は作業を切り上げた。
頼まれたものは去年のうちに仕上げたので、今は注文品ではない小さな刺繍絵に取り組んでいる。
自ら描いた下絵を絹地に写し、針と糸を使って絵を描いていく。
洋書の挿絵で見るような、うねる長い髪に花や星を散りばめた流麗な曲線を試してみたかった。
さっと身繕いをして応接間へ入ると、篠田伯爵夫人が天鵞絨張りのソファから品よく立ち上がってお辞儀をした。
「このたびはおめでとう存じます。お婿さんを迎えられたそうで。澄乃さんたら何も仰らないから、驚いてしまいましたわ」
「申し訳ございません。なにぶん急に決まった話で、お知らせも行き届かず、失礼いたしました」
澄乃は返礼すると、手振りで夫人に座るよう勧めた。
夫人は鳩羽鼠の小紋に白茶の繻子帯を合わせ、黒の長羽織をさらりと掛けている。
羽織紐には小さな珊瑚玉があしらわれ、袖口から覗く羽裏は淡い小花柄だ。
艶やかな黒髪を高く結い上げ、鼈甲の笄を品よく挿していた。
澄乃は一瞬、ソファの天鵞絨がだいぶ色あせていることが気になった。
手入れして大事に使っていても、古びていることは否めない。
夫人は傍らに置いていた薄紫の風呂敷包みを応接卓へ載せ、結び目を解いた。
中から出てきたのは熨斗紙の掛かった菓子折りの桐箱と、金銀の水引を掛け、『御祝』と書かれた金封だった。
「ほんの心ばかりですけれど、お納めくださいな」
「ご丁寧に、ありがとう存じます」
頭を下げると、ちょうど佐和が盆に茶器を載せて運んできた。
茶碗を応接卓へ並べ終えた佐和に、澄乃は桐箱を軽く押しいただいてから差し出した。
「篠田様からのいただきものよ。お仏壇に上げてちょうだい」
「かしこまりました」
佐和はうやうやしく桐箱を盆に載せ、引き下がった。
夫人は茶碗の蓋をとり、一口含んで茶托に戻した。
「澄乃さん、もうどちらかの初釜にはいらして?」
「いいえ、まだ」
澄乃は曖昧に微笑んだ。
お茶の稽古にはもうずっと顔を出していない。
数年前から初釜の招待状も来なくなった。
篠田夫人はその点を突つくつもりはないようで、お愛想に頷いただけだった。
「澄乃さんに刺繍をお願いした訪問着、ね。裾におめでたい南天模様を今様な図案で繍っていただいた……。わたくし、初釜にあれを着て参りましたのよ」
「まぁ、そうでしたか」
「皆様に褒められましたわ。豪華な染めもいいですけれど、刺繍だと絹糸に光沢があるでしょう。澄乃さんの図案がまた素晴らしくて。それに、袖の松の刺繍とうまく調和して、まるで一幅の絵画のよう……なんて言われて。わたくし鼻が高うございましたわ」
「それはようございました」
澄乃はほっとした。
夫人に気に入ってもらえたのはもちろんのこと、それを見た人にも褒められたと聞けば素直に嬉しくなる。
ところが夫人は急に肩を落として嘆息した。
「それで終わればよかったのですけど……」
「何か不備でもございましたか」
不安になって身を乗り出すと、夫人は苦笑して手を振った。
「とんでもない。澄乃さんの刺繍は完璧ですわ。初釜の後、何人かのお友達と新橋の千疋屋に行きましたの。そうしたら、ちょうどそこに知り合いの奥様がいらしてね。その方が舶来物のレースの手巾を、澄まして取り出したものだから、皆様すっかり目を奪われてしまわれて……」
篠田夫人はやるせなさそうに眉尻を垂れた。
「縁取りは仏蘭西の最高級レースで、全体に薔薇が刺繍してありましたわ。蔓薔薇っていうのかしら。緑の枝がうねうねしていて、桃色の薔薇がたくさんついているの」
夫人はお茶を一口飲んで、また嘆息した。
「そりゃあ、確かに素敵でしたわよ。それを認めないほど、わたくし野暮ではございません」
「……舶来品は人気がありますから」
澄乃は控え目に言った。
夫人の気持ちはわかる。
訪問着を褒められて鼻高々だったのが、舶来品の手巾ふぜいに話題をさらわれておもしろくないのだろう。
「舶来というだけでありがたがってもてはやすのはどうかと思いますわ。皆様お着物なのに、レースをあんなにひらひらさせた手巾なんか膝に広げて……。なんだかちぐはぐですわ」
「さようでございますね」
なだめるように同意しながら、別にかまわないのではと澄乃自身は感じていた。
どんな手巾だったのか知らないが、篠田夫人が憤っているのは礼儀作法の問題ではないのだろう。
注目や称賛をさらわれたのが気に食わないのだ。
彼女は悪い人ではないのだけれど、だいぶ見栄っ張りなところがある。
「ですけれど、伝統的な古典柄をそのまま使っても今の時代にはねぇ。南天の刺繍は、とてもよかったのよ。でも裾だから、テーブル席で椅子に座ると全然目につかないし……。そこでわたくし、いいことを思いつきましたの」
夫人が目を爛々とさせて身を乗り出したものだから、澄乃は気圧されそうになった。
「な、なんでしょう……」
「十五日に帝劇の初春興行へ参りますの。いつもの方々と連れ立って。そのときの半襟と、幕間や終演後のお茶の席で使える手巾を、揃いで作っていただけないかしら」
「揃いで……ですか?」
「ええ、そう。さりげなく目立つものがいいわ。派手すぎず、地味すぎず、ちょうどいい具合に目立って、人様があまりお召しでないもの。澄乃さんならお出来になりますわよね」
篠田夫人の並べ立てるわがままな注文を、澄乃は呆気にとられて聞いていた。
今日は六日だ。
十五日と言ったらもう十日もない。
「あの……。帝劇へは、どのようなお召し物でいらっしゃるおつもりなのでしょうか」
「あら、それも今決めないとだめ?」
「お着物と帯に、色や図案を合わせませんと。それぞれではどんなに素敵に見えても、お召し物に合っていなければ、それこそちぐはぐになってしまいます」
