有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 澄乃はハッとして朔也の横顔を盗み見た。

 初めて彼が一条家を訪れた際、玄関先に停まっていた黒塗りの車が思い浮かぶ。

 やけに立派な車だと思ったら、父親からの昇進祝いだったのか。

「父上がおまえをどんなに誇らしく思っておいでか、わからんはずはあるまい。それなのにおまえときたら、我々に何の相談もなく、た──」

「兄さん」

 朔也が目を細め、冷ややかに兄を遮る。

 言葉を詰まらせた修治郎は、不貞腐れたようにぼそりと言った。

「……あんな良い話を勝手に断りおって」

 カツレツを食べ終えた朔也は、ナフキンで軽く口許をぬぐってグラスに残った赤葡萄酒を飲み干すと、底光りする瞳で兄を見据えた。

「父上の意に背いたことは自覚しています。お腹立ちが収まらぬのなら、自動車はお返ししましょう」

「そういうことではない!」

 思わず修治郎は声を荒らげ、聡子にそっと制止された。彼は憮然と咳払いをした。

「おまえは橘の家にとって重要なことを独り決めして、父上に恥をかかせたのだぞ」

「……わかっています」

 朔也の口調が少しばかり沈鬱な響きをおびた。

 気まずい空気が室内に流れる中、デザートと珈琲が運ばれてきて、なんとはなしにホッとする。

 デザートは脚付きの銀器に盛られたバニラアイスクリームだった。

 蜜漬けの桜桃(さくらんぼ)とウエハースが添えられている。

 口論は中途半端に立ち消えとなった。

 修治郎もこれ以上続ける気はないようで、黙々とアイスクリームを食べている。

 澄乃もまた銀の匙で掬ったアイスクリームを舌の上で溶かしながらぼんやり考えた。

 先ほど修治郎は何を言いかけたのだろう。

『あんな良い話を勝手に断りおって』

 彼が憤然と口にした言葉に、祝言の宵に漏れ聞いた朔也と村瀬の会話が重なる。

『──高宮(たかみや)家のほうは、どうなさるおつもりで』

『知ったことか。届け出は済んでいる』

 それだけ聞けば容易に見当はつく。

 朔也には縁談があったのだ。

 橘家と高宮家の間で合意されたであろう縁組が。

 高宮家というのが澄乃の想像どおりであれば、それは橘家にとって、この上ない良縁だったはず。

 それを、何故。

 珈琲を飲んでいた修治郎は、静かにカップを置くとまっすぐに澄乃を見た。

「申し訳なかった。朔也の顔を久しぶりに見たものだから、つい口が滑りました。ご不快な思いをさせたことをお詫びいたします」

「とんでもないことでございます」

「私どもは、一条伯爵家とご縁を結べたことを光栄に思っています。ただ、正直に申し上げますと……父には別の思惑があった。それがうまくいかなかったので、少しばかり、えぇ、へそを曲げておるのです。しかし、婿養子となった朔也はいずれ一条伯爵を継ぐことになる。そのことが胸に落ちれば、すぐにもご挨拶に窺うはずですので、今日のところはどうぞご容赦願いたい」

 澄乃は黙って頭を下げた。

 爵位など、澄乃の実感では空疎な敬称にすぎないのに。

 持たざる人から見れば、何か崇高なものに見えるのだろうか。

 それほど欲しいのなら、持っていけばいい。

 どうせ澄乃自身では継げないものなのだから。

 そんな捨て鉢な気分になっていると、朔也が厳粛な面持ちで言い出した。

「兄さん。誤解があるようなのではっきり言っておきますが、私は伯爵になりたくて一条家へ婿養子に入ったわけではありません」

「……なんだと?」

「私が一条家へ婿入りしたのは、ただ単に澄乃さんと結婚したかったからです。養子縁組は一条伯爵のご要望でした。澄乃さんとの婚姻を望むなら養子になって爵位を継げと言われたので、従ったまで」

 澄乃は仰天した。

 そんな話は聞いていない。

 確かに父は言った。

『橘少佐はおまえを見初めたのだよ』

 と。

 それを自分は全否定した。

 会ったこともない人に見初められるなんてありえない。

 そんな、平安時代でもあるまいし……。

 修治郎は毒気を抜かれた風情で黙り込んだ。

 聡子のほうは目をきらきらさせ、なんだかうっとりしているように見える。

 それきり誰も大きな話題を口にしなかった。

 香ばしい珈琲の香りが、気まずい空気を幾分やわらげてくれた。

 当然という顔つきで修治郎が会計を済ませ、それぞれに外套や道行を着て店の外に出る。

 聡子が改めて澄乃に礼を述べた。

「いただいた半襟は、大切に使わせていただきますわ。今度ぜひ、宅にいらしてくださいましね」

「ありがとうございます」

 修治郎は中折帽のふちをちょっと持ち上げて会釈した。

「本日はありがとうございました。失礼な物言いをして申し訳ない」

「いいえ。お目にかかれて嬉しゅうございました」

 店の前には黒塗りの自動車が二台停まっている。

 前方の大きな車は修治郎たちが乗ってきたもので、後ろのやや小さめなのが朔也の車だ。

 かつて橘家の当主が使い、朔也が少佐に昇進したことを祝って譲った車。

 それを聞いただけで、朔也が橘家で確固たる存在感を示していたこと、父親に期待されていたことがわかる。

 もう一度お辞儀をして聡子が後部座席に乗り込み、修治郎が続く。

 助手席のドアーを開けて、道明が明るく言った。

「それでは、義姉さん。おやすみなさい」

 澄乃は微笑んで会釈した。

「おやすみなさい」

 発進する自動車を見送っていると、後ろに控えていた車がゆっくりと前進した。

 朔也がドアーを開けてくれて、澄乃は乗り込んだ。

 隣に朔也が腰を下ろすと運転席の村瀬が尋ねた。

「お屋敷でよろしいですか」

「ああ」

 朔也が頷く。

 車は銀座の通りを山の手へ向かって走り出した。

 車内は静かだった。

 やがてぽつりと朔也が詫びた。

「兄が失礼なことを言いました。謝ります」

「かまいません」

 しばらく間を置いて、澄乃は呟いた。

「……わたしとの結婚は、橘家にとってご迷惑だったのですね」

「迷惑をかけたのは私です」

 穏やかに朔也は答えた。

「父や兄が腹を立てているのは私に対してであって、あなたが引け目を感じる必要はない」

「でも……もっと良いご縁が、おありだったのですよね……?」

「父の希望と私の望みは相いれなかった。それだけです」

 澄乃はそれ以上尋ねなかった。

 街灯がぽつぽつと灯る坂道を、発動機(エンジン)音を響かせて車が上ってゆく。

 暗い車内で、隣の座席の朔也は近いようで遠い。

 彼の望みとは、なんだったのだろう。

 今まで澄乃は、朔也が伯爵位を得るために一条家へ入り込んだのだと思っていた。

 澄乃の問いに対し、そのように答えたはずだ。

 だが、先ほど彼はきっぱりと断言した。

 養子縁組は澄乃と結婚するためだったと。

 なだめるような父の言葉がふたたび思い浮かぶ。

『少佐はおまえを見初めたのだよ』

 不本意にも頬が熱くなった。

 車内が暗くて助かったと、つくづく澄乃は安堵した。