大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「はい」

「その仕事──刺繍の仕事は、どのように受けているのですか。馴染みの呉服店からの紹介ですか」

「それもありますが、大抵は以前からお付き合いのあるご家庭の奥様や、お嬢様がたからのご依頼です」

「仕事というからには、当然代金は受け取られていますね?」

「もちろんです」

「いかほど」

 澄乃は少し言葉に詰まった。

「……使用した材料の実費と、手間賃を少し」

「少し、ですか」

「皆様、昔からよくしてくださる方々ばかりですので……」

 橘少佐は何か言いたそうに眉根を寄せたが、結局呟くように「そうですか」と口にしただけだった。

 父が、こほんと咳払いをする。

「他に聞きたいことはあるかね?」

「いえ、これで十分です」

 彼はきっぱりと答えた。

 父の目線を受け、澄乃は黙ってかぶりを振る。

「それでは、今日はこれで。すぐに返済手続きに入ります。年内には式を挙げたい。ごく内々のものでかまいません」

「……え?」

 立ち上がった少佐を、唖然と澄乃は見上げた。

 年内に挙式? 今日はもう──十二月の二十日なのだけど……!?

 橘少佐は無造作に頷いた。

「慌ただしいことで申し訳ないが、早ければ早いほど安心なので」

 いったい何が安心なのかと問う暇もなく、少佐はぴしりと一礼して大股に出ていった。

 澄乃と篤之は呆気にとられ、送り出すことも忘れて座り込んだままでいた。

 玄関扉の開く音に、我に返って澄乃は慌てて玄関ホールへ向かった。

 すでに少佐の姿はなく、深々と佐和がお辞儀しているだけだった。

 一昨日と同じように自動車の発動機(エンジン)音が唸りを上げ、遠ざかってゆく。

 父がステッキを付きながら玄関ホールまで出てきて、苦笑まじりに呟いた。

「婿入りする側に挙式を急かされるとはな。……まぁ、やむをえんか」

 扉を閉めた佐和が、心配そうに篤之を窺う。

 父はなんでもないと手を振った。

「しかし澄乃。本当によかったのかね?」

 澄乃は閉まった玄関扉を見つめ、父に向き直ると頷いた。

「決めましたから」

「……ならば、よいが」

 父が不憫げに、しかしどこか肩の荷が下りたような顔つきで澄乃を見る。

 澄乃は意識して口角を持ち上げた。

 これでよかったのだ。

 後悔はない。

 不満もなかった。

 これからも刺繍を仕事として続けられるのだから、不満などあるはずもない。

 父の背に手を添えて廊下を歩きながら、澄乃はぼんやりと考えた。

 南天の刺繍を早く終わらせないと。

 本当に年内に挙式するなら、なおのこと──。