驚いた拍子に草履が滑って、澄乃は後ろへひっくり返りそうになった。
誰かが慌てて腕を差し伸べ、背中を抱き留める。
慎重に身体を起こされ、澄乃は目をぱちくりさせた。
目の前に立っていたのは、十二歳くらいの少年だった。
鉄紺の着物に細縞の袴、上等な羽織を着ている。
ただ、髪はずいぶんと短く刈られていた。
切れ長の瞳は利発というよりも、その年頃の少年にしてはずいぶん鋭く見えた。
しゃんと伸びた背筋。
すごく姿勢がいい。
服装からして良家の子弟のようだが、まったく見覚えはない。
「ごめんなさい。驚かせた」
伏目がちに少年が詫びる。
澄乃は目を瞬くと、急いで首を振った。
「だ、大丈夫です」
「何を、見ているのかと思って……」
呟いた少年は、石灯籠の足元に咲く菫に気付いて、「ああ」という顔をした。
「菫が好きなんだ」
「好き……ですけど、写生をしようかと、思って」
「写生?」
首を傾げる少年に、澄乃は手に持ったままだった端裂を示した。
「これ。なんだか変でしょう?」
少年は眉をひそめた。
ずいぶんと大人びたしぐさに思える。
「変……には見えないけど。この刺繍は、きみが?」
なんだか急に恥ずかしくなってうつむいた澄乃は、少年が掌の端を擦り剥いていることに気付いた。
「怪我してる!」
「……ああ、そこの灯籠でこすったんだな。たいしたことない」
少年が背後に隠そうとした手を、反射的に澄乃は掴んだ。
そしてうっすらと血のにじんだ擦り傷に、一瞬のためらいもなく端裂を押しつけた。
仰天したのは少年だった。
「やめろ、汚れる」
「いいの。ただの練習だし……下手だから」
ぎゅっ、と端裂を押しつける。
白い絹地に血が吸われていく。
少年は申し訳なさそうに眉尻を垂れた。
「こんな、綺麗なものを」
「綺麗じゃないわ。全然だめだもの」
「洗って返す」
「差し上げます。捨ててください」
少しだけ語気を強めて言い切ると、少年はかすかに目を瞠った。
そこへ、佐和の声が座敷のほうから響いてきた。
「澄乃様、どこにおられますか。奥様がお呼びでございますよ」
「はーい。いま参ります」
澄乃は伸び上がるようにして返事をすると、少年にぺこりと頭を下げてそそくさとその場を離れた。
なんだかとても照れくさかった。
*
少年は、小走りに去ってゆく少女の後ろ姿を黙って見つめた。
掌から端裂が滑り落ちそうになるのを、慌てて押さえる。
「……どこが、下手なんだ?」
少年は眉根を寄せて呟いた。
じゅうぶん上手じゃないか。
あんな年の女の子が刺したとは到底思えない。
それを、ためらいもなく擦り傷に押しつけて。
練習だから、捨てていい……なんて。
すみのさま──と誰かが呼んでいた。
たぶん、ここの主の娘なのだろう。
かわいらしく上品な着物と帯が、とても似合っていた。
少年の心の中で、「すみの」という名の少女と、可憐な菫の花が、自然と重なった。
「──朔也。お暇するぞ。おーい、どこにいるんだ」
父の声が呼んでいる。
少年は端裂をきちんとたたみ、丁寧に懐にしまうと無言で踵を返した。
誰かが慌てて腕を差し伸べ、背中を抱き留める。
慎重に身体を起こされ、澄乃は目をぱちくりさせた。
目の前に立っていたのは、十二歳くらいの少年だった。
鉄紺の着物に細縞の袴、上等な羽織を着ている。
ただ、髪はずいぶんと短く刈られていた。
切れ長の瞳は利発というよりも、その年頃の少年にしてはずいぶん鋭く見えた。
しゃんと伸びた背筋。
すごく姿勢がいい。
服装からして良家の子弟のようだが、まったく見覚えはない。
「ごめんなさい。驚かせた」
伏目がちに少年が詫びる。
澄乃は目を瞬くと、急いで首を振った。
「だ、大丈夫です」
「何を、見ているのかと思って……」
呟いた少年は、石灯籠の足元に咲く菫に気付いて、「ああ」という顔をした。
「菫が好きなんだ」
「好き……ですけど、写生をしようかと、思って」
「写生?」
首を傾げる少年に、澄乃は手に持ったままだった端裂を示した。
「これ。なんだか変でしょう?」
少年は眉をひそめた。
ずいぶんと大人びたしぐさに思える。
「変……には見えないけど。この刺繍は、きみが?」
なんだか急に恥ずかしくなってうつむいた澄乃は、少年が掌の端を擦り剥いていることに気付いた。
「怪我してる!」
「……ああ、そこの灯籠でこすったんだな。たいしたことない」
少年が背後に隠そうとした手を、反射的に澄乃は掴んだ。
そしてうっすらと血のにじんだ擦り傷に、一瞬のためらいもなく端裂を押しつけた。
仰天したのは少年だった。
「やめろ、汚れる」
「いいの。ただの練習だし……下手だから」
ぎゅっ、と端裂を押しつける。
白い絹地に血が吸われていく。
少年は申し訳なさそうに眉尻を垂れた。
「こんな、綺麗なものを」
「綺麗じゃないわ。全然だめだもの」
「洗って返す」
「差し上げます。捨ててください」
少しだけ語気を強めて言い切ると、少年はかすかに目を瞠った。
そこへ、佐和の声が座敷のほうから響いてきた。
「澄乃様、どこにおられますか。奥様がお呼びでございますよ」
「はーい。いま参ります」
澄乃は伸び上がるようにして返事をすると、少年にぺこりと頭を下げてそそくさとその場を離れた。
なんだかとても照れくさかった。
*
少年は、小走りに去ってゆく少女の後ろ姿を黙って見つめた。
掌から端裂が滑り落ちそうになるのを、慌てて押さえる。
「……どこが、下手なんだ?」
少年は眉根を寄せて呟いた。
じゅうぶん上手じゃないか。
あんな年の女の子が刺したとは到底思えない。
それを、ためらいもなく擦り傷に押しつけて。
練習だから、捨てていい……なんて。
すみのさま──と誰かが呼んでいた。
たぶん、ここの主の娘なのだろう。
かわいらしく上品な着物と帯が、とても似合っていた。
少年の心の中で、「すみの」という名の少女と、可憐な菫の花が、自然と重なった。
「──朔也。お暇するぞ。おーい、どこにいるんだ」
父の声が呼んでいる。
少年は端裂をきちんとたたみ、丁寧に懐にしまうと無言で踵を返した。
