十二月も半ばを過ぎ、日の光は一段と儚くなった。
午後三時。北向きの部屋は早くも薄闇に沈み始めている。
手許が暗くなり、澄乃は窓際に貼りつくように身を寄せた。長方形の大きな刺繍台にピンと張った深緑の絹地がいくらか明るくなった。もうしばらくは洋燈を点けなくても大丈夫そうだ。
澄乃が刺繍を施しているのは、篠田伯爵夫人から預かった正月用の訪問着だった。袖と裾に華やぎのあるおめでたい柄を刺繍してほしいと頼まれた。母と旧交のあった女性で、母が亡くなると澄乃に頼むようになった。
とても素敵で、人様とけっしてかぶらないものを繍ってくださるから……と上品な口調で言うけれど、いつからか澄乃はそれを素直な褒め言葉と受け取れなくなっていた。
呉服店や本職の刺繍職人に頼めば、当然かなりの出費を覚悟しなければならない。そんな一品ものの刺繍でも、没落した華族の娘になら昔からのよしみもあって気軽に頼める。それも格安で。
おっとり育った澄乃には、そもそも値段交渉という考えがない。実際に使った材料費と手間賃を払うだけで済む。もちろんその手間賃は、本職に頼む場合の半額以下だ。手間賃が安く済む分、贅沢な金糸・銀糸にお金をかけられる。
さすがに材料費だけは最初から実費を請求していたが、手間賃のほうは値上げを言い出しづらかった。多少手際がよくても所詮は素人なのだし、お金のことをあれこれ言うのはなんだか浅ましいような気がしてしまう。
繍うのは好きだから苦にはならない。家が昔と同じ状況であれば、わずかな手間賃でも、なんなら実費だけでもかまわなかっただろう。
だけど、今は──。
ふと溜め息を洩らし、澄乃は我に返って背筋を伸ばした。
とにかく、早くこれを終わらせないと。
慣れた手つきで絹地に針を刺す。裏側で受けて糸を引き、絹地の上で整えて針を表に返す。
絹地は四角い刺繍台に強く張り、〈馬〉に載せてある。片手で針を刺す西洋刺繍と違って日本刺繍は両手を使う。表から刺した針を裏で受け、指先で糸を整えながら繍ってゆく。
澄乃は絨毯の上に薄い座蒲団を敷き、正座して刺繍をしていた。小物類ならテーブルに小さな刺繍台をたてかけて、椅子に座ってできるが、着物に大きな柄を入れるとなればそうはいかない。
袖にはすでに松の図案を入れた。古典的な文様をそのまま使うのではなく、少しだけ洋風な趣を加えてみた。裾には赤い実の南天を刺繍して、流線型を取り入れて動きを出そうと思う。
日本古来の文様に西洋風の動きを取り入れるのが、最近の澄乃の趣味だ。それが上流夫人たちにはたいそうモダンで華麗に見えるらしい。
篠田伯爵夫人がこれを見れば、はしゃいだ歓声を上げるだろう。
『まぁ、なんて素敵!』
だけど、対価を聞けば少しだけ眉をひそめるに違いない。それに対して澄乃は急いで弁解する。
『刺繍糸に高価な品を使いましたので……』
夫人は鷹揚に頷いて、財布から取り出した何枚かの札を懐紙に包んで差し出す。澄乃の要求する材料費が本当に実費だけだと知っているから。
彼女は美しいものが好きだけれど、美しさ以上に誰かとかぶらないことが重要だ。でも、そのために大枚をはたくのは気が進まない。だから澄乃に頼む。そういう人は、彼女だけではなかった。
少し目が痛んだので、澄乃は針を置いて立ち上がった。
部屋の隅にある書き物机に歩み寄り、立てかけてあった帳面を手にとる。女学校時代に使っていた帳面の余った部分に、鉛筆で書き込みがしてあった。
篠田伯爵夫人。訪問着。袖、裾。年内。
北川夫人。半襟に梅と青海波。二枚。
伊勢屋から。帯留め用の小裂。桐、菊、南天の文様。
水野夫人。半襟に雪輪──。
訪問着の刺繍が出来上がれば、年内にまとまったお金が入る。それほどの額ではないにせよ、今の一条家にはどうしても必要なお金だ。
半襟の仕事は、単価はそれほどでなくても数をこなせる。白無地では物足りないが着物を新しく誂えるほどではない──そういう人たちに、西洋風の趣を取り入れた澄乃の刺繍は人気があった。
襟元に少し覗かせるだけで着物の印象を変えられる。出費も少なくて済み、しまっておくのに場所も取らない。
慣れているから小さな模様なら数時間で仕上げられる。帯留と並んで一年中依頼の絶えない手仕事だ。
澄乃は帳面を戻し、今度は糸箱を開けた。絹糸の束がきちんと並べられている。母が使っていたものもまだ少し残っていた。けれど、これから繍う予定の文様に使う色糸の残りがかなり心細かった。
「……困ったわ」
糸を買わないと仕上げられない。仕上がらないとお金が入らない。だが、手持ちのお金は、使うのが少々ためらわれるくらいしか残っていない。
いつもの堂々巡りが始まって、澄乃はなるべく押さえつつも溜め息を洩らさずにいられなかった。
馴染みの問屋に頼んで、必要なぶんだけ小分けにして売ってもらおう。
糸箱の蓋を閉めようとして、澄乃はふと手を止めた。蓋の裏に挟んであった小さな紙片が目に留まる。先月、佐和と買い物へ出たときに通りがかった百貨店の前で配られていたチラシだった。
色刷りの紙に、洋傘を差した着物姿の女性が描かれている。手には刺繍と思われる花模様の入った小さな手巾。舶来品の小物の宣伝だ。
わたしだって、これくらい……と胸の内がざわめいた。
いいえ。わたしなら、もっと素敵に繍えるわ、きっと。洋風の蝶々だって、薔薇だって。
澄乃は軽く頭を振り、チラシを折り畳んで元に戻した。こんなもの捨てたっていいのに、何故だか捨てられない。
座蒲団に座り直し、ふたたび針を取る。暗くなる前に、もう少し進めておきたかった。
何針か繍って、澄乃はふと手を止めた。
扉の向こうから足音が聞こえた。誰かが廊下を歩いてくる。その足音は明らかに不規則で、誰なのかすぐにわかった。
午後三時。北向きの部屋は早くも薄闇に沈み始めている。
手許が暗くなり、澄乃は窓際に貼りつくように身を寄せた。長方形の大きな刺繍台にピンと張った深緑の絹地がいくらか明るくなった。もうしばらくは洋燈を点けなくても大丈夫そうだ。
澄乃が刺繍を施しているのは、篠田伯爵夫人から預かった正月用の訪問着だった。袖と裾に華やぎのあるおめでたい柄を刺繍してほしいと頼まれた。母と旧交のあった女性で、母が亡くなると澄乃に頼むようになった。
とても素敵で、人様とけっしてかぶらないものを繍ってくださるから……と上品な口調で言うけれど、いつからか澄乃はそれを素直な褒め言葉と受け取れなくなっていた。
呉服店や本職の刺繍職人に頼めば、当然かなりの出費を覚悟しなければならない。そんな一品ものの刺繍でも、没落した華族の娘になら昔からのよしみもあって気軽に頼める。それも格安で。
おっとり育った澄乃には、そもそも値段交渉という考えがない。実際に使った材料費と手間賃を払うだけで済む。もちろんその手間賃は、本職に頼む場合の半額以下だ。手間賃が安く済む分、贅沢な金糸・銀糸にお金をかけられる。
さすがに材料費だけは最初から実費を請求していたが、手間賃のほうは値上げを言い出しづらかった。多少手際がよくても所詮は素人なのだし、お金のことをあれこれ言うのはなんだか浅ましいような気がしてしまう。
繍うのは好きだから苦にはならない。家が昔と同じ状況であれば、わずかな手間賃でも、なんなら実費だけでもかまわなかっただろう。
だけど、今は──。
ふと溜め息を洩らし、澄乃は我に返って背筋を伸ばした。
とにかく、早くこれを終わらせないと。
慣れた手つきで絹地に針を刺す。裏側で受けて糸を引き、絹地の上で整えて針を表に返す。
絹地は四角い刺繍台に強く張り、〈馬〉に載せてある。片手で針を刺す西洋刺繍と違って日本刺繍は両手を使う。表から刺した針を裏で受け、指先で糸を整えながら繍ってゆく。
澄乃は絨毯の上に薄い座蒲団を敷き、正座して刺繍をしていた。小物類ならテーブルに小さな刺繍台をたてかけて、椅子に座ってできるが、着物に大きな柄を入れるとなればそうはいかない。
袖にはすでに松の図案を入れた。古典的な文様をそのまま使うのではなく、少しだけ洋風な趣を加えてみた。裾には赤い実の南天を刺繍して、流線型を取り入れて動きを出そうと思う。
日本古来の文様に西洋風の動きを取り入れるのが、最近の澄乃の趣味だ。それが上流夫人たちにはたいそうモダンで華麗に見えるらしい。
篠田伯爵夫人がこれを見れば、はしゃいだ歓声を上げるだろう。
『まぁ、なんて素敵!』
だけど、対価を聞けば少しだけ眉をひそめるに違いない。それに対して澄乃は急いで弁解する。
『刺繍糸に高価な品を使いましたので……』
夫人は鷹揚に頷いて、財布から取り出した何枚かの札を懐紙に包んで差し出す。澄乃の要求する材料費が本当に実費だけだと知っているから。
彼女は美しいものが好きだけれど、美しさ以上に誰かとかぶらないことが重要だ。でも、そのために大枚をはたくのは気が進まない。だから澄乃に頼む。そういう人は、彼女だけではなかった。
少し目が痛んだので、澄乃は針を置いて立ち上がった。
部屋の隅にある書き物机に歩み寄り、立てかけてあった帳面を手にとる。女学校時代に使っていた帳面の余った部分に、鉛筆で書き込みがしてあった。
篠田伯爵夫人。訪問着。袖、裾。年内。
北川夫人。半襟に梅と青海波。二枚。
伊勢屋から。帯留め用の小裂。桐、菊、南天の文様。
水野夫人。半襟に雪輪──。
訪問着の刺繍が出来上がれば、年内にまとまったお金が入る。それほどの額ではないにせよ、今の一条家にはどうしても必要なお金だ。
半襟の仕事は、単価はそれほどでなくても数をこなせる。白無地では物足りないが着物を新しく誂えるほどではない──そういう人たちに、西洋風の趣を取り入れた澄乃の刺繍は人気があった。
襟元に少し覗かせるだけで着物の印象を変えられる。出費も少なくて済み、しまっておくのに場所も取らない。
慣れているから小さな模様なら数時間で仕上げられる。帯留と並んで一年中依頼の絶えない手仕事だ。
澄乃は帳面を戻し、今度は糸箱を開けた。絹糸の束がきちんと並べられている。母が使っていたものもまだ少し残っていた。けれど、これから繍う予定の文様に使う色糸の残りがかなり心細かった。
「……困ったわ」
糸を買わないと仕上げられない。仕上がらないとお金が入らない。だが、手持ちのお金は、使うのが少々ためらわれるくらいしか残っていない。
いつもの堂々巡りが始まって、澄乃はなるべく押さえつつも溜め息を洩らさずにいられなかった。
馴染みの問屋に頼んで、必要なぶんだけ小分けにして売ってもらおう。
糸箱の蓋を閉めようとして、澄乃はふと手を止めた。蓋の裏に挟んであった小さな紙片が目に留まる。先月、佐和と買い物へ出たときに通りがかった百貨店の前で配られていたチラシだった。
色刷りの紙に、洋傘を差した着物姿の女性が描かれている。手には刺繍と思われる花模様の入った小さな手巾。舶来品の小物の宣伝だ。
わたしだって、これくらい……と胸の内がざわめいた。
いいえ。わたしなら、もっと素敵に繍えるわ、きっと。洋風の蝶々だって、薔薇だって。
澄乃は軽く頭を振り、チラシを折り畳んで元に戻した。こんなもの捨てたっていいのに、何故だか捨てられない。
座蒲団に座り直し、ふたたび針を取る。暗くなる前に、もう少し進めておきたかった。
何針か繍って、澄乃はふと手を止めた。
扉の向こうから足音が聞こえた。誰かが廊下を歩いてくる。その足音は明らかに不規則で、誰なのかすぐにわかった。
