有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 日が落ちても銀座はたいそう賑わっていた。

 今日は五日の金曜日だが、松の内とあって街にはまだ正月気分が濃い。

 橙色の街灯に照らされた舗道を、晴れ着姿の婦人やインバネスの紳士たちがそぞろ歩いている。

 銀狐の襟巻きをまきつけ、颯爽と闊歩する洋装の女性たちの姿もあった。

 街路は着飾った男女であふれ、黒光りする自動車が行き交う。

 提灯を揺らしながら走る人力車。

 店の硝子窓から洩れる電灯が、舗道に幾筋もの光を落とす。

「──ここですね」

 朔也の声に足を止めた澄乃は、〈銀星軒〉と金の飾り文字で書かれた看板を見上げた。

 白い漆喰壁に大きな硝子窓。

 店内には真っ白なクロスをかけたテーブルが並んでいる。

 入口の脇には葉牡丹が植えられ、ぴかぴかに磨かれた真鍮の把手が街灯を反射していた。

 正月休暇が終わって陸軍省に出勤した朔也は、帰宅を出迎えた澄乃に憮然とした顔で告げた。

 明日、兄夫婦が銀座で会食したいと言っている、と。

 朔也の勤める部署に電話がかかってきたそうだ。

 すでに店を予約したからと、時間を告げて一方的に切られてしまったという。

 行きたくなければ断ります、と言われ、澄乃は急いで首を振った。

 祝言では弟の道明にしか会っていないし、話もほとんどできなかった。

 この急な婿入りを橘家はどう受け止めているのか、確かめておくべきだ。

「……どうかしましたか」

 低い声が頭の上から降ってくる。

 朔也がわずかに眉根を寄せてじっと澄乃を見ていた。

 中折帽をかぶり、黒羅紗の外套の下は濃紺の三つ揃いにネクタイという洋装だ。

 軍服を着慣れているので、背広姿もさまになっている。

 ここまで来る間、すれ違う女性たちの何人もが朔也に見とれていた。

 それに気付いた澄乃はなんだか落ち着かない気分になった。

 澄乃はいつものように着物を選んだ。

 (ひわ)色の訪問着に、亀甲花菱(きっこうはなびし)を刺繍した半襟。

 帯は淡い金糸で若松と霞を織り出し、ところどころに銀糸の白梅を入れた白茶地の丸帯だ。

 その上から深川鼠(ふかがわねず)の道行を着た。

 髪はふくらみの控え目な束髪に結い、真珠のついた銀の髪飾りを挿した。

 母が婚約時代に洋行帰りの父から贈られたものだと聞いている。

 洋装のほうがよかったかしら……と考え、ドレスは家計が傾き始めた頃、真っ先に売ってしまったのだったと思い出した。

 父が買ってくれた素敵な洋服だから手放したくはなかったが、母の残した着物を売るくらいなら……と思い切った。

「──なんでもありません」

 微笑んでかぶりを振る。

 朔也はまたかすかに眉を寄せ、真鍮の把手に手をかけた。

「では、参りましょう」

「はい」

 澄乃は気を取り直して頷いた。

 中へ入ると、暖かな空気とともにバターと香草の香りが鼻先をふわりとかすめた。

「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか」

 制服の給仕に尋ねられ、朔也は頷いた。

「一条だ。予約は橘の名で入っている」

 そう言うと給仕はうやうやしくお辞儀した。

「承っております。こちらへどうぞ」

 澄乃は案内に従いながら朔也の横顔を窺った。

 彼は迷うことなく『一条』と名乗った。

 席を予約したのは橘でも、自分はもう一条なのだと澄乃に向けて宣言しているつもりだろうか。

 いや、考えすぎだろう。

 単に彼は事実を伝えただけ……。

 澄乃は軽く頭を振り、二階へ続く階段を上り始めた。

 扉の前には同じ制服の給仕が控えており、彼に外套と道行を預けた。

 案内係の給仕が扉を(たた)き、『一条様がお見えでございます』と告げる。

 朔也に続いて部屋に入ると、並んで席に着いていた三人が一斉に顔を上げた。

 男性ふたりに挟まれて女性がひとり座っている。

 三人は椅子から立ち上がり、澄乃たちとテーブルを挟んで向き合うと、最も年長の男性に倣ってお辞儀した。

「このたびは急なことで、ご挨拶が後になりましたことをお詫びします」

「こちらこそ、ご無礼いたしました」

 澄乃が返すと、年長の男は会釈した。

「朔也の兄、橘修治郎(しゅうじろう)と申します。一六八(いろは)銀行東京支店で次長をしております」

「お初にお目にかかります。一条澄乃でございます」

 修治郎は朔也より線が細く、いくぶん神経質そうな面差しの男だった。

 昨夜見直した身上書によれば、年齢は三十四歳。

 きっちり仕立てた三つ揃い姿で、地位の高さを反映してか堂に入った物腰だ。

 切れ長の目もとが朔也に似ている。

 修治郎は返礼すると、隣の女性を手で示した。

「妻の聡子(さとこ)です」

「聡子と申します」

 なよやかに頭を下げて微笑んだ聡子は、年齢は三十歳ほど。

 薄香色の訪問着で、七宝文様を金糸で織り出した青丹の帯を締めている。

 いかにも良家の奥様然としているが気取ったところはなく、向けられるまなざしには親しみのこもった温かみが感じられた。

「道明はもうご存じですね」

 兄に名を呼ばれた道明は、急いで頭を下げた。

「改めまして、おめでとうございます!」

「繰り返す必要はない」

 にべもなく朔也が言うと、道明は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。

「違いますよ、新年のご挨拶です」

 兄の冷然とした物言いには慣れているようで、けろっとしている。

 修治郎はたしなめるように末弟をひと睨みして言葉を次いだ。

「本来ならば一条様のお屋敷へご挨拶に伺うべきところですが、まずは顔合わせを兼ねて気軽な場でお目にかかれればと思いまして」

「こちらこそ、ご挨拶が行き届かず失礼いたしました」

 澄乃が丁寧に頭を下げると、聡子が穏やかな口調で気づかった。

「新年早々お呼び出しいたしまして、恐縮でございます。親しくお話しさせていただければと思っていたので、来てくださって嬉しいわ」

 聡子の声音には皮肉めいた響きは感じられない。

 一同が席につくと、控えていた給仕が進み出た。

「本日はご予約の献立にてご用意しております。しばしお待ちくださいませ」

 給仕が出て行くと、澄乃は膝脇に置いた小さな手提げから袱紗に包んだ桐の小箱を取り出した。

「あの。これ、聡子様へご挨拶のしるしにと思いまして。お気に召していただけるとよいのですけれど……」

 朔也が受け取り、小箱を向かいの道明に渡した。

 道明から受け取った箱を開けて、聡子は小さな歓声を上げた。

「まぁ! 綺麗な半襟だこと」

 淡い藤鼠の絹地に薄緑の蔦唐草を這わせ、白糸と銀鼠で陰影をつけて白梅を()ったものだ。

 隣から覗き込んだ道明が、無邪気にお愛想を言う。

「いいですねえ。義姉(ねえ)さんが着ければすごく映えますよ」