大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「本日は、お時間を取っていただきありがとうございます」

 非の打ち所のない所作で橘少佐が礼を返す。

「座りなさい」

 二脚並んだひとり掛けのソファにかけていた父が隣を示す。

 澄乃が座ると、向かいに座るよう父は少佐に勧めた。

 彼は横長のソファの真ん中に腰を下ろし、改めて一礼した。

「本日は、お返事をいただきたく参上しました」

「はい」

 緊張のせいか、少し声がかすれてしまった。

 なんだか悔しくなる。

 そこへ、扉の向こうから『失礼します』と佐和の声がした。

 茶托に乗せた蓋付き茶碗を三つ、それぞれの前に出すと、佐和は深々と一礼して退出した。

 橘少佐は篤之に勧められて一口茶を飲み、静かに茶碗を戻すと姿勢を正した。

「お返事を伺ってもよろしいでしょうか」

 澄乃は唇の裏をきゅっと噛むと、伏せていた顔を上げた。

 目が合った。

 感情の読めない黒瞳が、まっすぐに澄乃に向けられている。

「──橘様のお申し出、お受けいたします」

 篤之は軽く目を瞠り、小さく息を洩らした。

 安堵とも悔恨ともつかぬ吐息だった。

「感謝します」

 橘朔也は澄乃をじっと見つめ、一礼した。

 顔を上げるまで、少し間があった。

 ふたたび澄乃を見つめたとき、彼の瞳は相変わらず冷静沈着そのものだったが、石のような冷たい無機質さがいくぶんかやわらいだように見えた。

 何故だかうろたえそうになって、指を握り込む。

 爪が掌に食い込む痛みで自分を奮い立たせるようにして、澄乃は毅然と言葉を継いだ。

「ただし、ひとつだけ条件がございます」

「なんでしょうか」

「わたくしは、仕事として刺繍をいたしております。手(すさ)びではございません。対価をいただいて、お引き受けしております。結婚してもその仕事をこれまでどおり続けたく存じます」

 橘少佐は目を瞬いた。

「それは、私が許可する筋合いではないと思いますが」

「……はい?」

「あなたの仕事は、あなた自身が決めること。あれこれ指図するつもりはありません」

 澄乃は面食らって少佐を眺めた。

 彼はしごく真面目な顔つきだ。

 澄乃の機嫌を取っているわけではないらしい。

 彼はもう一口茶を飲んで、澄乃に目を戻した。

「他にご要望は。若輩の身ですが、できる限りのことはいたします」

「……いえ、それだけです」

 気を呑まれた態で澄乃は答えた。

 少し間が空いた。

 息苦しさを覚える寸前、少佐が考え深げな声音で尋ねた。

「失礼を承知で、ひとつ伺ってもよろしいか」