有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 澄乃の紹介に、朔也は頭を下げた。

「朔也と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「朔也様は軍人さんだそうですわね」

「はい。帝国陸軍少佐を拝命しております」

「まぁ! お若いのにすごいわぁ。おいくつでいらっしゃるの」

「数えで三十です」

 澄乃はかすかに眉をひそめた。

 間違ってはいない。

 けれど、身上書の生年月日からすれば、満年齢では先月二十八になったばかりではないか。

 若いと言われるのが、そんなに厭なのだろうか。

「素敵ねぇ。澄乃様、立派なお婿さんをおもらいになって本当によろしゅうございましたわ」

「ありがとうございます」

 馴れ馴れしい夫人のお愛想に、澄乃は伏目がちに礼を述べた。

「朔也様のご実家……橘家、でしたわね? 銀行家だそうで。本当に、よいご縁を結ばれましたこと」

 ホホホと松原夫人は軽やかな笑い声を上げたが、その目ははっきりと値踏みする目つきだった。

 三十そこそこで少佐といったら、かなり早い昇進だと素人目にも察しがつく。

 そのうえ誰から見ても異論は出ないであろう美丈夫で、身内は銀行家。

 一条家が婿を取ったというより、婿に来てもらったのだと、そう思われても無理はない。

 実際はどちらも違うのだけれど。

 まさか借金を肩代わりするから婿にしろと迫ったなんて、誰も想像できまい。

 澄乃は「恐れ入ります」と答えて頭を下げた。

 蔑みと羨望の入り交じる目つきが不快でたまらなかった。

 松原夫人が引き上げると、今度は一条家の分家筋にあたる老夫妻が現れた。

 こちらも、暮れも押し詰まってからいきなり届いた祝言の事後報告に好奇心を押さえかねたのだろう。

 例年、松の内が終わる頃になっておしるし程度に顔を出すだけなのに、今年に限って新年早々やって来た。

 松原夫人と同じような遣り取りがあり、老翁はにこやかに頷いた。

「一条家も、これでひと安心ですな」

 親身な口調だったが、それが真意でないことはわかっていた。

 母が亡くなって数年経った頃、この老人が自分の甥を養子にして一条伯爵を継がせてはどうかと勧めてきたことがある。

 父はけんもほろろに撥ねつけた。

 その甥というのが、実は老人が外にもうけた子で、その事情を伏せたまま一条家に押し込もうとしたことを父は知っていたのだ。

「良い婿が来てくれたからな」

 父の皮肉っぽい口調が気になり、澄乃は素早く言葉を添えた。

「お気遣い、痛み入ります」

 頭を下げると、父の憮然とした鼻息が聞こえた。

 茶を出した佐和が、廊下に端然と控える。

 養子うんぬんの話を知った佐和がひどく腹を立てたことを、澄乃は覚えている。

 綾子の子でない者が一条家を継ぐなど、彼女にとっては天地がひっくり返ってもありえないことなのだ。

 穏やかならぬ空気を察して、夫人が取りなすように言った。

「澄乃様も、さぞお心強いことでしょう。もうご苦労なさらずに済みますもの、ね」

 無言で頭を下げる。

 夫人は何気なく言葉を次いだ。

「お得意の刺繍も、これからは高雅なご趣味として楽しめますわね。意に沿わぬ頼まれ仕事なんて、もうする必要ありませんもの」

 澄乃は、身体がこわばるのを感じた。

 高雅なご趣味。

 意に沿わぬ頼まれ仕事。

 (はた)からは、そのように見えていたのか。

 婿取りのおかげで逼迫する家計から解放された伯爵令嬢が、今後は暇潰しとして刺繍をする。

 一針一針、丁寧に、丹精込めて仕上げた刺繍も、結局は上流階級の『ご趣味』でしかないのか。

 否定したくても言葉が出て来ない。

 そもそも否定なんてできるの?

 自分自身で、所詮は素人仕事と卑下していながら──。

「──澄乃さんの刺繍は、単なる趣味ではありません」

 静かな声が、凛と座敷に響いた。

 澄乃は胸を衝かれて傍らの朔也を見た。

 彼は端然と座し、怜悧なまなざしを客に向けていた。

 まごつく夫人に瞳を据え、彼は穏やかな声音で続けた。

「澄乃さんの刺繍は義母上(ははうえ)から受け継いだ確かな技術です。手遊(てすさ)びではありません。澄乃さん自身の大切な仕事なのです」

 老夫人は怯んだように目を瞬き、引き攣り気味の笑顔を取り繕った。

「まぁ……。朔也様は澄乃様をずいぶんとお大事になさっていますのね。ご新婚ですもの、当然ですけれど」

 後半の科白は、真綿にくるんだ棘のように聞こえた。

 言外に、婿が家付き娘を持ち上げるのは当然と言っている。

 朔也は冷ややかに答えた。

「事実を申し上げたまでです」

 朔也の口調は端的だった。

 澄乃は呆気にとられて彼を眺めた。

 もしかして、褒められた……?

 口ごもる夫人に代わって、夫の老翁がいささかわざとらしく声を張り上げる。

「しかし、すでに少佐という責任ある御立場で、婿に入られるというのは、大きなご決断でしたでしょうな。いや、そうでもないか。

養子になられたからにはいずれ一条伯爵家を継ぐわけだし、ご実家にとっても悪い話ではございますまい」

 老翁は含み笑いをした。

 一瞬、その温厚そうな顔の下に卑しげな表情が透けて見えた。

 朔也は冷然と切り返した。

「私は一条家に入った身です。義父上のお許しをいただき、澄乃さんの承諾を得て婿になりました。それだけです」

 篤之は気難しげな顔で口を引き結んでいたが、その目は満足げな色を湛えていた。

 朔也があくまで一条家を立て、当然のように一歩引いた言動を取ることが、澄乃にはやはり不思議だった。

 それからも挨拶回りの客が数人来て、やがて日が落ちた。

 澄乃は台所で佐和を手伝っていたが、もういいですよと言われて割烹着を外しながら廊下に出ると、ちょうど朔也が向こうから歩いてきた。

「義父上は書斎におられます」

「はい」

 頷いた澄乃はふと思いついて尋ねた。

「お部屋に行かれるのでしたら、お茶をお持ちしましょうか。夕餉はもう少し後になります」

「ありがとう。では、お願いします」

 会釈して台所に戻ろうとすると、呼び止められた。

「澄乃さん」

 振り向くと、朔也は底光りする黒い瞳で、じっと澄乃を見つめていた。

「私は、誰かに認められたくて一条家に来たのではありません」

「え……?」

「だから、誰が何を言おうと私は気にしない。あなたも、傷つく必要などありませんよ」

 そう言うと彼はかすかに口角を上げ、静かに階段を上っていった。

 誰かに認められたくて来たのではない。

 だったら──何のために来たの?

 澄乃は階段の踊り場を過ぎて見えなくなった朔也の足音に耳を澄ませた。

 あなたは何故、ここへ来たの?

 何故、わたしたちに手をさしのべたの……?

 澄乃は無意識に枝橘文の半襟を指先でたどった。

 あなたのこと、わたしは何も知らない──。