有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 澄乃は鏡台の前に座り、帯締めの位置を整えた。

 着物は母が若い頃によく着ていたという淡い(とき)色の訪問着だ。

 肩から袖にかけて霞が流れ、裾には白梅と若松が描かれている。

 ずっと地味なものしか着なかったせいか、少し派手すぎるように思えて躊躇したが、正月だからと佐和に押し切られた。

 帯は黒地に梅を金銀で織り出した丸帯で、ずっと箪笥の奥にしまってあったものを久しぶりに出した。

 澄乃は落ち着かない気分で着物の襟を摘まんで引っ張った。

 半襟は枝橘文(えだたちばなもん)を刺繍したものだ。

 単に縁起のいい柄がいいだろうと選んだのだが、後になって『橘』に引っかかった。

(……ただのおめでたい文様よ)

 神経質に着物の襟を調節しながら、澄乃は自分に言い聞かせた。

 ただの模様。

 それ以上の意味なんてない。

 誰も目を留めやしないわ。

 ……そう、誰も。

 年が明け、正月二日の朝は元旦に続いて清々しい青空だった。

 きれいに掃き清められた一条家の玄関には、数年ぶりの門松が立てられている。

 二階から下りた澄乃は、玄関ホールの窓越しに門松を横目で見ながら座敷へ向かった。

 座敷にはすでに篤之の姿があった。

 羽織袴姿で座布団に腰を据え、小さな扇をもてあそんでいる。

 澄乃は廊下に座して三つ指をついた。

「おはようございます、お父様」

「うむ、おはよう」

 父は鷹揚に頷いた。

 座敷の床の間には祝言で用いた若松と千両を別の花器に移し、水仙に代わってほころび始めた早咲きの白梅が生けてあった。

 その横には立派な鏡餅もある。

 正月を迎える支度をきちんと整えられたことが、とても嬉しい。

 下男に暇を出してからは餅つきができなくなって、やむなく餅屋で小さめの鏡餅を購入していた。

 今年は朔也が申し出て、自前で用意できた。

 自分がやるという村瀬に『おまえは屋根の補修をしろ』と命じ、朔也は自ら杵を振るった。

 橘家では年の暮れに餅を搗く習いがあったそうで、実に慣れた手つきだ。

 餅を返す手返しは佐和が務めた。

 昔を思い出したのか、佐和は張り切って準備をした。

 その後、つきたての餅にきな粉や大根おろしを絡めて皆で食べた。

 離れの縁側に朔也と並んで腰掛けて餅をいただきながら、隣に座っている男性は自分の夫なのだと考えると、なんだか急にどぎまぎした気分になってしまった。

 朔也は相変わらず寡黙だが、篤之に話しかけられれば礼儀正しく受け答えする。

 強引で一方的な婿入りに憮然としていた父も、礼節を保った朔也の言動を間近で見ているうちに、気に入り始めたらしい。

 むしろ、妻となった澄乃のほうが、まだぎくしゃくしている。

 自分のことをどのように見做しているのか確信が持てなくて、どう接するべきか未だにわからない。

 彼にとって澄乃は『妻』なのか、単に『一条家の娘』にすぎないのか。

 祝言の夜、一度は突き放されたように感じた。

 だが、その後の風呂の順番では、気づかわれたように思えて、ますますわからなくなった。

 黙々と力仕事をこなす彼を見ると、婿に入ったばかりの人にさせてよいものかと気後れしてしまい、ぎこちなく礼を述べた。

 彼は「必要なことをしているだけです」と淡々と答えただけで、その後も手際よく雑事を片づけていった。

 その姿を眺めているうちに、彼がここにいることがさほど気にならなくなっていた。

「着物、よく似合っているぞ」

 上機嫌に言われて澄乃はかすかに頬を染めた。

「ありがとうございます。──お父様、本当に座敷でよろしいの?」

「年賀の挨拶は、やはり座敷で受けないとな。大丈夫、さっき薬も飲んだ」

 ホッとして澄乃は頷いた。

 かかりつけの医院が正月休みに入る前に薬をもらえてよかった。

 これも朔也の手配りのおかげだ。

 彼が一条家の人間をけっして粗略に扱わないことについては、すでに信用している。

「無理はなさらないでくださいね」

「心配するな」

 苦笑する父のかたわらには火鉢があり、小さな鉄瓶の口から湯気がたちのぼっていた。

 部屋は充分暖まっている。

 炭や薪の残りを気にしないで済むのは本当にありがたい。

「台所を見てまいります」

 頭を下げ、澄乃は立ち上がった。

 玄関ホールを横切っていくと、ちょうど階段を下りてきた朔也と行き会った。

 細縞の御召に袴、黒羽織というきちんとした装いだ。

 彼は澄乃をじっと見つめたかと思うと、穏やかに尋ねた。

「年賀の客が来ると聞きました」

「はい。ほんの二組ですけれど」

 それすら去年までは絶えていたことを思えば、彼らが何を目当てにやって来るのかおのずと知れよう。

 朔也とてそれは承知しているだろうに、そんなことはまるでおくびにも出さない。

「私は義父上(ちちうえ)のお側に控えていましょう」

 そう言うと、朔也は目礼して座敷へ向かった。

 羽織の背には一条家の丸に三つ柏紋が入っている。

 きっと父の言いつけで佐和が用意したのだろう。

 澄乃は枝橘文を刺繍した半襟をそっと撫でた。

 やっぱり気付かれなかった。

 そのことに、ホッとすると同時に少しがっかりしていた。

 澄乃は台所へ行って客のもてなしについて佐和に確認し、また座敷へ戻った。

 それから父と朔也とともにおせちをいただいた。

 しばらくすると、最初の客が訪れた。

 松原夫人という五十代の女性で、母の遠い親戚だ。

 生家が断絶してしまった綾子にとってほとんど唯一の親戚だったらしい。

 折々訪ねてきては、母が刺繍を施した半襟や手巾(ハンケチ)などを大喜びでもらっていった。

 母が亡くなると訪問は間遠になり、父の落馬事故の後は一度見舞いに来たきりだった。

 一条家が傾き始めると訪問はぱったりと途絶えた。

 それが、どういう風の吹き回しか、正月の挨拶に伺うと連絡を寄越したのだ。

 薄緑の色留袖に松葉模様を金糸で散らした帯を締めた夫人は、当主の篤之に懇ろな挨拶を済ませると、袱紗から御年賀を取り出した。

 佐和が慇懃に受け取って朱塗りの盆に載せる。

 夫人は澄乃たちに向き直って深々と頭を下げ、満面の笑みを浮かべて顔を上げた。

「まぁまぁまぁ、澄乃様! このたびは本当におめでとう存じます。あまりに急でしたので、もうわたくし、びっくりしてしまって……。皆様も驚いていらして、とにもかくにもお祝いを申し上げねばと、こうしてまかり越した次第でございますの」

「ご丁寧にありがとうございます。……こちらが、このたび一条の家にお入りいただいた、朔也さんです」