有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 食事が済み、篤之が席を立つ。

 見送ったふたりは、なんとなく食卓で向かい合っていた。

 何か話しかけるべき、いや、話しかけたいと思うのだが、やはり(いとぐち)が見つからない。

 気を利かせたのか、佐和が茶を出してきた。

 普通の湯飲みで、ほうじ茶だった。

 片づけの手伝いをしようと思いついて顔を上げると、佐和にじっと見つめられた。

 その目は『手伝い無用』ときっぱり告げていた。

 結局、ふたりは無言でほうじ茶を飲み、連れ立って食堂を出た。

「部屋まで送りましょう」

 朔也の声音がぶっきらぼうに聞こえて、澄乃は少しばかり萎縮した。

 やはり何か言うべきだった。

 そう……礼を述べるべきだったかもしれない。

 彼のおかげで窮状を脱したことは間違いないのだから。

「あ──」

「澄乃さん」

 口を開いたのは完全に同時だった。

 朔也が眉をひそめる。

 澄乃は慌てて尋ねた。

「なんでしょうか」

「……祝言を急かしたことは、悪かったと思っています」

 やや憮然とした態で朔也は言った。

「はい」

「ですので、これ以上急かすつもりはありません」

「……はい」

 澄乃は曖昧な相槌を打った。

 そのとたん、彼が何を言いたいのかを理解して澄乃は目を瞬いた。

 心が一瞬波立ち、すぐに凪いだ。

 そういう、こと。

 やはりこの人にとって、わたしは名目上の妻にすぎないのだ。

 気遣いは、あるだろう。

 おそらくはそれなりの敬意だって。

 でもそれは、一条家の婿養子となることで目的が達せられたから──。

「あなたが望まないことは、決してしません」

 黙っている澄乃に対し、朔也はややむきになったような口調で付け加えた。

「──わかりました」

 澄乃は静かに頭を垂れた。

「おやすみなさいませ」

 返事を聞く前に、澄乃は自室に滑り込んで扉を閉ざした。

 扉にもたれかかって息を凝らしていると、扉越しに囁くような彼の声が聞こえた。

「おやすみなさい、澄乃さん」

 妙に規則正しいスリッパの足音が廊下を遠ざかっていく。

 その音が聞こえなくなって、ようやく澄乃は詰めていた息を解いた。

『澄乃さん』

 丁重で、距離のある呼びかけ。

 ふと、疑問が頭をかすめた。

 今まであの人が自分の名前を呼んだことはあっただろうか。

 思い出せない。

 どうして自分がこんなに傷ついているのかも、澄乃にはわからなかった。


 *


 二階の洋間に戻った朔也は、鞄から書類綴じを取り出すと机に向かい、今年中に提出すべき報告書の下書きを始めた。

 軍規に触れるような書類ではない。

 兵舎で用いる寝具や燃料、雑品の調達について、年内にまとめておくべき報告書の控えだ。

 年末年始も軍は完全に休みにはならない。

 本来なら今日も勤務日だったが、祝言のため特に願い出て休暇をもらったのだ。

 確認のため年内にあと一度は出仕しなければならないだろう。

 しばらく仕事に没頭していると、扉を(たた)く音が聞こえてきた。

「どうぞ」

 声をかけると、佐和が慇懃に顔を出した。

「橘様。どうぞお湯をお使いくださいませ」

「ああ、風呂ですか。澄乃さんは、もう済まされましたか」

 尋ねると、佐和は驚いたようにかぶりを振った。

「いいえ。先ほど旦那様が上がられましたので……」

「それなら澄乃さんを先に。疲れているでしょうから、早く休んだほうがいい。私はもう少し仕事をします」

「……かしこまりました」

 佐和はお辞儀をして引き下がった。

 またしばらくして扉が遠慮がちに敲かれた。

 返事をすると、扉の隙間から澄乃の細い声が聞こえてきた。

「お先に、いただきました。ありがとうございます」

「暖かくして休んでください」

「はい。あの、お風呂を、どうぞ。冷めないうちに……」

「そうします」

「……では、おやすみなさいませ」

 扉が静かに閉まる。

 おやすみなさい、と答え、さっきも言ったなと朔也は小さく苦笑した。

 机の上を片づけ、出したものはすべて鞄にしまった。

 ちょっと伸びをして羽織を脱ぎ、襦袢の襟をゆるめると、首からかけていた紐に指が触れた。

 引き出して眺める。

 細い組紐に繋がっているのは古いお守り袋だった。

 海松藍(みるあい)の布地に、麻の葉文様が織り出されている。

 朔也は慎重に中身を取り出した。

 それは御札ではなく、小さく折り畳まれた布地だった。

 白絹の端裂だ。

 広げるとちょうど掌ほどの大きさで、三輪の菫が刺繍されていた。

 色合いの異なる薄紫の花びら。

 緑の葉と茎。

 十五年以上経っても、大事にしまっていたので糸の色は褪せていない。

 ただ、端裂の一部には薄茶色の古いしみがあった。

 暖炉の側に行って、しばし黙って端裂を眺めた。

 薪の爆ぜる音がぱちぱちと響く。

 村瀬に言って薪と炭をたっぷり補充しておいた。

 佐和にしっかり頼んでおいたから、澄乃や篤之の部屋も暖炉で暖まっているはずだ。

 朔也は端裂を丁寧にたたみ直すと、お守り袋に戻してしっかりと口を縛った。

 着物の上から佐和が用意してくれた厚手の丹前を着込み、浴衣を腕にかける。

 扉を開けて冷えた廊下に出た瞬間、かすかな石鹸の香りが、ふっと鼻先をかすめた。