有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました




 そろそろ夕餉も間近という時刻、玄関ホールから低い人声が聞こえてきた。

 冬の日はすでに落ち、外は宵闇に沈んでいる。

 朔也の声らしいと気づき、夕餉の支度を手伝っていた澄乃は佐和に断りを入れて玄関へ向かった。

 また、外出するのだろうか。

 こんな時間に。

 お見送りしないと……と漠然とした義務感を覚えて出て行くと、玄関ホールでは朔也と村瀬が話し込んでいた。

 朔也は礼装の羽織袴を解き、藍鼠の御召に仙斎茶の羽織という普段着姿だ。

 村瀬のほうは黒っぽい外套ですっぽり身体を覆っている。

 古びたハンチングをかぶると、村瀬は気がかりそうに朔也を見た。

「──高宮(たかみや)家のほうは、どうなさるおつもりで」

「すでに連絡済みだ」

「お怒りなのでは……」

 村瀬が呟くと、朔也は軽く鼻を鳴らした。

「知ったことか。もう届出は済んでいる」

 低く、きっぱりとした声音だった。

 言葉を継ごうとした村瀬は、ホールの角に佇む澄乃に気付いてハッとした。

 朔也は肩ごしにちらと視線を投げ、すぐに村瀬に向き直った。

「ご苦労だった。気をつけて帰れ」

「明日の朝、また参ります」

 村瀬は澄乃にも丁寧にお辞儀をし、出ていった。

 自動車の音は聞こえない。

 車は置いて帰るらしい。

「……お夕飯を召し上がっていけばよろしいのに」

 歩み寄ってゆくと、扉の鍵を閉めた朔也がかすかに口角を上げた。

「仕出しの余りを包んでもらいましたから」

「あの。高宮家というのは、もしかして高宮侯爵家のことでしょうか」

 じっと見返されて澄乃はきまりが悪くなった。

「立ち聞きするつもりはなかったのですが、つい、耳に入りまして……」

「なんでもありません」

 肯定も否定もしない言い方だが、口調は穏やかだった。

「そう、ですか」

 澄乃は目を伏せた。

 それ以上尋ねてはいけない気がした。

 拒絶されたと感じたわけではなく、踏み込むにはまだ朔也のことを知らなすぎる。

 会話の(いとぐち)が掴めないまま向き合っていると、佐和が遠慮がちに呼びかけた。

「夕餉の支度が整いました」

 朔也が頷いて澄乃を促した。

「行きましょう」

 澄乃はほっとした心持ちで頷き返した。

 食堂には久しぶりに天井の電気がついていた。

 擦り硝子越しに、やわらかな電灯が白いテーブルクロスをかけた食卓を照らしている。

 上座を挟んで左右の席に食器が整えられている。

 これまでは父の左手側に座っていたが、夫を迎えた今はどうするべきなのか。

 逡巡していると、篤之がステッキをついて食堂に入ってきた。

「待たせたか、すまんな」

 篤之は朔也に、左手側の席に着くよう手振りで示した。

 佐和が椅子を引き、悠然と篤之が上座に収まる。

 ほっとして右手側の席へ向かうと、朔也が無言で歩み寄り、ごく自然に椅子を引いた。

 一瞬、気後れしたが、会釈して腰を下ろした。

「ありがとうございます」

 朔也は軽く返礼すると自分の席に着いた。

 あまりに自然な動作だったので、かえってびっくりしてしまった。

 将校として、洋式の席にも慣れているのだろう。

 外地にいたこともあると聞いている。

 篤之は満足げに朔也を見やり、佐和に頷きかけた。

 控えていた佐和が給仕を始める。

 お櫃から布巾を外し、炊きたての御飯をよそい、各自の前に置いた。

「いただきます」

 篤之の言葉にふたりも唱和する。

 黒塗りの吸物椀の蓋を取ると、澄んだ出汁に浮いた手鞠麩(てまりふ)と三つ葉の香りがふわりと立ち上った。

 菊花かぶらの酢の物。

 こんがりと焼いて大根おろしを添えた(ぶり)の切り身。

 箸を入れるとほろりとほぐれ、脂の甘味が口中に広がった。

 旬のものはやはり美味しい。

 ここ数年は食費も切り詰めていたので、器は立派でも上に載っている魚は手頃な(さば)の切り身や(いわし)の丸干し、(あじ)の干物などが多かった。

 乏しい家計の中から佐和が懸命に遣り繰りしてくれたのだ。

 美味しそうに鰤を食べている父を見て澄乃は嬉しくなった。

 朔也への当惑はまだ消えていないけれど、この食卓を父に用意できたことだけは素直に感謝しなければ。

 向かいの朔也に目を向けると、彼は端正に箸を進めていた。

 祝言の時にも思ったが、元は武士だった旧家の出身だけあって、何をするにも折り目正しく所作が整っている。

 旧家の出というだけでなく、性格的なものなのだろう。

 軍人という職業も関係しているのかもしれない。

 佐和におかわりを頼む朔也を、篤之は好もしそうに眺めた。

 ねぎらいの口調で朔也に話しかける。

「今日は、いろいろと忙しかったろう。任せきりで申し訳ない」

「いえ」

 佐和から受け取った茶碗を置き、朔也は礼儀正しく篤之に目礼した。

「できる限りのことはしたいと思っております。どうぞ、お気になさらず」

 朔也は出された料理をきれいに平らげ、「ごちそうさまでした」と合掌した。

 佐和はなんだか嬉しそうだ。

 これからは、父とふたりきりではなく朔也が食卓に加わるのだと、澄乃は改めて考えてみた。

 厭ではない、と思った。

 厭ではないと感じられたことに、まず安堵した。

 これから生活を共にする相手なのだ。

 食事の仕方が癇に触るようではとてもやっていけそうにない。

 椅子を引いてくれた動作もごく自然で、押しつけがましさはなかった。

 あれだけ強引に、一方的に婿入りしてきたというのに、節度のある態度をけっして崩さない。

 変に武張(ぶば)ったところもなく、泰然としている。

 ふとしたことに気付くたび、不思議な人だと思う。

 だがその『不思議』の意味は、少しずつ変化しているようだった。