大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 澄乃もまた庭を眺めたまま、かすかに眉を寄せる。

「知っていたの」

「旦那様から、お伺いしました。婿入りの、ご縁談だと」

 澄乃は溜め息をついた。

 息が白い。

「佐和は、どう思った? あの、橘少佐という方を」

「少なくとも、横柄ではございませんでした」

 佐和はまじめくさった口調で答えた。

「お引き取りになるとき、玄関先で外套を着せて差し上げると、わたくしに向き直ってきびきびと礼を言われましたから。お育ちの良い方とお見受けいたしました」

「栃木のほうの名家で、元は武家だったらしいわ」

「それで納得いたしました」

 佐和は頷いた。

 澄乃は庭をぐるりと見回し、振り向いて座敷を眺めた。

「わたし、この家が好きよ。たくさんの楽しい思い出がある。それを失いたくない」

「はい」

「だから──仕方がないのかしら」

「仕方がない、とは思いません」

 きっぱり言われ、澄乃は目を瞠った。

「思い出は、形のないものでございます。たとえば、奥様の優しいお声のように。確かに()()()は必要でしょう。ですが、それほど大きなものである必要はないと、わたくしは思います」

 澄乃は意外な心持ちで、老女中をまじまじと見つめた。

 佐和は気恥ずかしげに苦笑した。

「お嬢様、わたくし冷えてしまいました。そろそろ母屋へ戻りませんか」

「ええ、そうね。ごめんなさい」

 澄乃は急いで身を起こした。

「雨戸はもう少し開けておきましょう。後で閉めに参ります」

 佐和の言葉に頷き、澄乃は離れの戸口へ向かった。

 渡り廊下から見えた地面では、霜柱が朝陽に溶け始めていた。

「そうそう、矮鶏(ちゃぼ)が卵を産んでいましたよ」

「いいわね。お父様に目玉焼きを出してさしあげて。お好きだから」

「かしこまりました」

 佐和を従えて渡り廊下を歩きながら、澄乃は射し込む朝の光に目を細めた。

 ふと、橘少佐が別れ際に残した言葉が耳をよぎる。

『また、参ります』

 底知れぬ黒瞳で澄乃を見つめ、濁りのない深い声音であの男はそう告げた。

 いつ来るつもりなのだろう。

 いつまでに決めなくてはならないのだろう。

 胸の底がひりつくような焦燥に、澄乃は唇をきゅっと引き結んだ。