有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 年末でもあり、客は長居することなく帰っていった。

 玄関先に並んで送り出すと、その足で全員篤之の書斎へ移る。

 いつかのように小卓を挟んで腰を下ろすと、後ろに控えていた村瀬が何枚かの書類を卓上に並べた。

 朔也はそれを、篤之と澄乃に向け直して告げた。

「婚姻届と、養子縁組の書類です。こちらにご署名を」

 証人欄には、すでに須藤中佐夫妻の名と印がある。

 村瀬から万年筆を受け取った朔也は、キャップを後ろに嵌め直して篤之に差し出した。

 篤之は黙って受け取り、何も言わずに養子縁組の書類に署名した。

 佐和が机から持ってきた印鑑を押す。

 必要以上に力がこもった捺印に思えた。

 父から渡された万年筆は、予想よりずっしりしていた。

 普段使っている筆や鉛筆とはまるで異なる感触に緊張する。

 澄乃は婚姻届の妻の欄に慎重に署名した。

 万年筆を朔也に返し、書類を彼に向けて置き直す。

 朔也はまず婚姻届に、ついで養子縁組届に署名した。

 身上書と同じ、端正な筆跡だ。

 がっしりした武骨な手からすると意外なようでいて、案外似合っている字体だと澄乃は思った。

 捺印を済ませると、彼はしげしげと書類を眺めた。

 単にインクが乾くのを待っていただけなのだろうが、もしかしたら橘の名が消えることに感慨を抱いているのかもしれなかった。

 朔也は丁寧にたたんだ書類を封筒に収め、篤之に一礼した。

「では、提出して参ります」

「ああ」

 彼はすっと立ち上がると澄乃に目礼し、悠然たる足どりで書斎を出ていった。

 澄乃はしばし父と並んで無言で座っていた。

 何か言いたいけれど、何を言ったらいいのかわからない。

 おそらくは、父も同じ気持ちなのだろう。

 澄乃は立ち上がって会釈した。

「わたし、着替えて参ります」

「──ああ、そうだな。疲れたろう、少し休むといい」

 微笑んで頭を下げ、澄乃は佐和を連れて自室へ戻った。

 角隠しを取り、帯がほどかれると、一気に身体が軽くなって思わず吐息が洩れた。

 用意しておいた灰桜の袷に着替え、利休茶の帯を締める。

 澄乃は椅子に腰掛け、衣桁にかけた打掛を眺めた。

「お嬢さ、ま──」

 佐和の声が不自然に途切れる。

 振り向くと、佐和はまごついたような顔をしていた。

「どうしたの?」

「いえ……。あの、お茶を、お淹れしましょうか……」

「……そうね。お願い」

 佐和は、襦袢類をまとめると、一礼して出ていった。

 澄乃はふたたび打掛に目を遣った。

 ついさっきまであれを着ていたことが、なんだか信じられなかった。



 夕方近くなって、玄関先から自動車の音が聞こえてきた。

 階段を下りて行くと、朔也のインバネスを佐和が受け取っているところだった。

 澄乃は階段下で一瞬立ちすくんでしまったが、静かに歩み寄って「お帰りなさいませ」と頭を下げた。

 朔也は頷き、静かな声音で告げた。

「無事に受理されました。婚姻届も、養子縁組届も」

「──そうですか」

 他にどう言えばいいのか、わからない。

 朔也は澄乃を見つめた。

 深い黒瞳はやはり感情が読み取れなかったが、出かけたときよりも目もとがやわらいでいるようにも思えた。

 きっと、年内に届け出を済ませられて安堵したのだろう。

 何をそんなに急いでいたのか、今でもわからないけれど。

「お部屋にご案内いたします」

 後ろから佐和の声がした。

 その声はなんだかよそよそしい響きをおびていた。

 澄乃が訝しげな視線を向けると、はぐらかすように佐和は頭を下げた。

「旦那様のお言いつけで、橘様には今後二階の洋間をお使いいただくことになりました」

 二階の洋間と聞いてハッとした澄乃は、佐和の口調がかたくなな理由も同時に理解した。

『二階の洋間』といえば、父と母が使っていた最も広い寝室を指す。

 母が亡くなった後も私物はそのままになっていたが、父が落馬事故で脚を悪くして生活の拠点を一階に移した際、母の私物も整理した。

 今は完全に空き部屋だ。

 二階で一番広くて立派な部屋なのに、ここ五年ほどは時々空気を入れ替えたり掃除をするだけになっている。

 そこを婿に使わせるようにと、当主の篤之が指示した。

 佐和の不満はわかる。

 押しかけるように婿入りしてきた男が、祝言を挙げたその日から主寝室を使うなど、納得できない。

 それは朔也個人への印象とは別のこだわりなのだろう。

 彼を『橘様』と呼んだのは、抵抗感の表明なのかもしれない。

 驚きはしたが、澄乃は父の決定に不満を覚えはしなかった。

 複雑ではあっても、不満ではない。

 道理で考えれば、むしろ当然のことなのだ。

 朔也はただ澄乃の婿になっただけではなく、父と養子縁組をした。

 つまり、父が亡くなれば彼が一条家の家督を継ぐことになる。

 佐和とてそれはわかっている。

 だが、古風な忠勤者の彼女には、当主が進んで私室を明け渡したことが悔しいのだろう。

 そして、今更ながらに澄乃は気づいた。

 祝言を済ませた以上、本来なら今夜は──()()()()夜ではないか?

 なのに、そのことを誰も口にしなかった。

 誰も触れないから、澄乃もまるで思い至らなかった。

 部屋を移る話は一度も出ず、祝言が終われば当然子どもの頃から住み慣れた私室にひとりで戻るのだと思い込んでいた。

 思い込むというより、意識にも上らなかった。

 佐和は、朔也に客間を用意していたのだろう。

 おそらくは、澄乃の部屋から一番遠い部屋を。

 あまりに急で強引な婿入りに対する、無言の抗議のように。

 それに気付いた篤之が、自分のかつての私室を使わせるよう指示したのだ。

 澄乃はなんだか可笑しくなった。

 ふたりとも気を遣いすぎだ。

 罪悪感か、憐憫か、わからないけれど。

 どちらにしたって無用なのに。

 自分で考え、決めたこと。

 この結婚を受け入れたのは、自らの意志なのだから。

 玄関ホールに流れた微妙な空気を察したのだろう。

 朔也が穏やかに言った。

「私は客間でかまいませんが」

「旦那様のお言いつけです」

 佐和は切り口上で繰り返した。

 いやいやながらというのではなく、この家に入ったからには当主の意向に従ってもらうという強い意志が感じられた。

「そうですか」

 朔也は気分を害した様子もなく頷くと、かすかに微笑らしきものを浮かべて澄乃に会釈した。

「それでは、また後で」

 黙って頭を下げる。

 朔也は、肩をそびやかすような所作で案内する佐和の後から静かに階段を上っていった。

 その姿を、玄関ホールに立ったまま澄乃は見送った。

 彼の存在が、ひどくあやふやだった。

 夫なのか、他人なのか。

 どちらでもあり、どちらでもないような気もする。

 書類に記された「橘朔也」の三文字が、ふと頭をよぎった。

 戸籍の上では彼はもう橘朔也ではなく、一条朔也だ。

 そう思うとなんとも不思議だが、皮肉にもそれだけが今の澄乃にとってはたったひとつの確かなことだった。