十二月二十八日の朝は、雲ひとつない青空だった。
まったく憎らしいくらいに晴れ渡っている。
鏡台の前で佐和に髪を結ってもらいながら、澄乃は鏡越しに映る窓から目を背けた。
婚礼衣装は赤地に金糸銀糸で鶴と松竹梅が刺繍された豪華な打ち掛けだ。
母が輿入れのときに着たもので、刺繍はすべて母自身が繍った。
二十年以上の歳月を経て金糸の輝きも鈍り、縁の綿入れ部分は少し黄ばみ始めている。
それでも着付けてもらえば驚くほどに華やかだった。
鏡に映る自分の姿を、見知らぬ人であるかのように無言で眺める。
「重いでしょう」
佐和は少し詰まった声でしんみりと囁き、角隠しを整えた。
「……そうでもないわ」
嘘をついた。
佐和の手が、指先が、時折もの言いたげに震えていることに気付いてしまったから。
絢爛たる花嫁衣装に身を包みながら、澄乃は喜びや高揚感を感じられずにいた。
少しくらい華やいだ気分になってもいいのに……と、我知らず自嘲の笑みが浮かぶ。
やがて頃合いとなり、澄乃は佐和にかしずかれて離れへ向かった。
離れの座敷は清々しく整えられていた。
床の間には鶴亀を描いた古い掛軸が掛かり、若松と千両、白い水仙が端正に生けられている。
古い金地の屏風は縁が少し傷んでいたが、村瀬が器用に補修してくれた。
盃台の上に大中小の朱塗りの盃が重なり、四隅に置かれた火鉢では炭が赤々と熾こっている。
座敷の入り口まで来ると、媒酌人の須藤中佐夫人がさっと席を立ち、澄乃に歩み寄って会釈した。
上品な藤鼠の色留袖をすっきりと着こなしている。
「こちらへ」
優しく促され、澄乃は裾を引いて床の間の前に進んだ。
夫人の介添えで座蒲団に正座する。
佐和が後ろから打ち掛けの裾を整えてすぐに下がり、中佐夫人も席に戻った。
橘朔也は羽織袴姿だった。
丸に橘紋の黒羽織、仙台平の袴。
軍服の威圧感とは異なる端正さだ。
指が長く、がっしりした手が膝の上できちんと揃えられている。
この人の素手は初めて見たわ……と澄乃は逃避のようにぼんやり考えた。
それぞれの側の出席者が左右に分かれて座っている。
どちらも人数は極端に少ない。
橘家の側には、まず朔也の直属上司である須藤中佐夫妻が並んでいる。
中佐は立派な口髭を蓄えた実直そうな初老の紳士で、羽織袴がたいそう板についていた。
奥方を挟んで下手には二十代半ばの青年がしゃちほこばって座っていた。
朔也の弟の道明だ。
千駄木の東都医学専門学校に通っていると聞いた。
面差しは似ているものの、軍人である兄とはかなり印象が異なる。
立派な黒紋付だが着慣れていない様子で、居心地悪そうだ。
道明と同居しているという長兄の修治郎は来ていなかった。
両親の姿もない。
急だった上に年末の忙しい時期だから来られなかっただけかもしれないが、橘家がこの婿入りに賛成していないことを表明しているようにも思えてしまう。
一条家側にいるのは篤之の他には菩提寺の住職だけだった。
家運が傾いた今でも変わらず親しくしている数少ない人物のひとりで、今日の立会人でもある。
佐和が銚子を手に新郎新婦の前にかしこまると、須藤中佐が重々しく咳払いした。
「それではこれより一条家と橘家の祝言を執り行います」
佐和が膝を進め、三々九度が始まった。
最初に一番小さな杯に長柄銚子で酒を注ぎ、中、大と盃を替えながら、朔也と澄乃は三口ずつ酒を受けた。
佐和は気を利かせて澄乃の杯に注ぐ量はほんの少しにしてくれた。
三つの盃それぞれで三回ずつ繰り返すので、そのたびに飲んでいたら酔ってしまう。
もとよりなみなみ注ぐものではないが、三々九度が済んでも朔也の顔色はまったく変わらなかった。
そういえば、軍人にしては色白ね……などと、どうでもいいことが頭に浮かんだのは少し酔ったせいかもしれない。
続いて須藤中佐が『高砂』を謡った。
「高砂や この浦舟に帆を上げて──」
響きの良い声だが、澄乃が知っているものとは節回しが少し違う。
父も若い頃から謡を習っているが、流派が異なるのだろう。
怪我をしてから父はあまり謡わなくなった。
そっと窺うと父は目を閉じて、じっと謡に聞き入っている様子だった。
「──早や住の江に着きにけり。……このたびはおめでとうございます」
中佐が新郎新婦に向かって深々と一礼し、澄乃は朔也とともに返礼した。
儀式的なことが終わると、早速祝膳が出された。
佐和と村瀬が水屋からてきぱきと膳を運んでくる。
小鯛の尾頭付きに紅白なます、口取り、吸い物、赤飯、香の物。
きちんと体裁が整っていることに安堵した。
引き出物の菓子折は、紅白饅頭と松竹梅をかたどった干菓子の詰め合わせで、朔也が出した支度金の中から佐和が手配した。
一条家が賑やかだった頃、季節の生菓子をよく取り寄せていた老舗だ。
道明はもっぱら箸を動かすことに専念していた。
中佐の奥方が気をつかって話しかければ応えはするものの、会話は長続きしない。
朔也も弟に何か促すでもなく、ただ料理や盃を静かに口に運んでいる。
なんとなく、この兄弟はあまり親しくなさそうだなと思った。
まったく憎らしいくらいに晴れ渡っている。
鏡台の前で佐和に髪を結ってもらいながら、澄乃は鏡越しに映る窓から目を背けた。
婚礼衣装は赤地に金糸銀糸で鶴と松竹梅が刺繍された豪華な打ち掛けだ。
母が輿入れのときに着たもので、刺繍はすべて母自身が繍った。
二十年以上の歳月を経て金糸の輝きも鈍り、縁の綿入れ部分は少し黄ばみ始めている。
それでも着付けてもらえば驚くほどに華やかだった。
鏡に映る自分の姿を、見知らぬ人であるかのように無言で眺める。
「重いでしょう」
佐和は少し詰まった声でしんみりと囁き、角隠しを整えた。
「……そうでもないわ」
嘘をついた。
佐和の手が、指先が、時折もの言いたげに震えていることに気付いてしまったから。
絢爛たる花嫁衣装に身を包みながら、澄乃は喜びや高揚感を感じられずにいた。
少しくらい華やいだ気分になってもいいのに……と、我知らず自嘲の笑みが浮かぶ。
やがて頃合いとなり、澄乃は佐和にかしずかれて離れへ向かった。
離れの座敷は清々しく整えられていた。
床の間には鶴亀を描いた古い掛軸が掛かり、若松と千両、白い水仙が端正に生けられている。
古い金地の屏風は縁が少し傷んでいたが、村瀬が器用に補修してくれた。
盃台の上に大中小の朱塗りの盃が重なり、四隅に置かれた火鉢では炭が赤々と熾こっている。
座敷の入り口まで来ると、媒酌人の須藤中佐夫人がさっと席を立ち、澄乃に歩み寄って会釈した。
上品な藤鼠の色留袖をすっきりと着こなしている。
「こちらへ」
優しく促され、澄乃は裾を引いて床の間の前に進んだ。
夫人の介添えで座蒲団に正座する。
佐和が後ろから打ち掛けの裾を整えてすぐに下がり、中佐夫人も席に戻った。
橘朔也は羽織袴姿だった。
丸に橘紋の黒羽織、仙台平の袴。
軍服の威圧感とは異なる端正さだ。
指が長く、がっしりした手が膝の上できちんと揃えられている。
この人の素手は初めて見たわ……と澄乃は逃避のようにぼんやり考えた。
それぞれの側の出席者が左右に分かれて座っている。
どちらも人数は極端に少ない。
橘家の側には、まず朔也の直属上司である須藤中佐夫妻が並んでいる。
中佐は立派な口髭を蓄えた実直そうな初老の紳士で、羽織袴がたいそう板についていた。
奥方を挟んで下手には二十代半ばの青年がしゃちほこばって座っていた。
朔也の弟の道明だ。
千駄木の東都医学専門学校に通っていると聞いた。
面差しは似ているものの、軍人である兄とはかなり印象が異なる。
立派な黒紋付だが着慣れていない様子で、居心地悪そうだ。
道明と同居しているという長兄の修治郎は来ていなかった。
両親の姿もない。
急だった上に年末の忙しい時期だから来られなかっただけかもしれないが、橘家がこの婿入りに賛成していないことを表明しているようにも思えてしまう。
一条家側にいるのは篤之の他には菩提寺の住職だけだった。
家運が傾いた今でも変わらず親しくしている数少ない人物のひとりで、今日の立会人でもある。
佐和が銚子を手に新郎新婦の前にかしこまると、須藤中佐が重々しく咳払いした。
「それではこれより一条家と橘家の祝言を執り行います」
佐和が膝を進め、三々九度が始まった。
最初に一番小さな杯に長柄銚子で酒を注ぎ、中、大と盃を替えながら、朔也と澄乃は三口ずつ酒を受けた。
佐和は気を利かせて澄乃の杯に注ぐ量はほんの少しにしてくれた。
三つの盃それぞれで三回ずつ繰り返すので、そのたびに飲んでいたら酔ってしまう。
もとよりなみなみ注ぐものではないが、三々九度が済んでも朔也の顔色はまったく変わらなかった。
そういえば、軍人にしては色白ね……などと、どうでもいいことが頭に浮かんだのは少し酔ったせいかもしれない。
続いて須藤中佐が『高砂』を謡った。
「高砂や この浦舟に帆を上げて──」
響きの良い声だが、澄乃が知っているものとは節回しが少し違う。
父も若い頃から謡を習っているが、流派が異なるのだろう。
怪我をしてから父はあまり謡わなくなった。
そっと窺うと父は目を閉じて、じっと謡に聞き入っている様子だった。
「──早や住の江に着きにけり。……このたびはおめでとうございます」
中佐が新郎新婦に向かって深々と一礼し、澄乃は朔也とともに返礼した。
儀式的なことが終わると、早速祝膳が出された。
佐和と村瀬が水屋からてきぱきと膳を運んでくる。
小鯛の尾頭付きに紅白なます、口取り、吸い物、赤飯、香の物。
きちんと体裁が整っていることに安堵した。
引き出物の菓子折は、紅白饅頭と松竹梅をかたどった干菓子の詰め合わせで、朔也が出した支度金の中から佐和が手配した。
一条家が賑やかだった頃、季節の生菓子をよく取り寄せていた老舗だ。
道明はもっぱら箸を動かすことに専念していた。
中佐の奥方が気をつかって話しかければ応えはするものの、会話は長続きしない。
朔也も弟に何か促すでもなく、ただ料理や盃を静かに口に運んでいる。
なんとなく、この兄弟はあまり親しくなさそうだなと思った。
