大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 生真面目な顔で取りなすように言われ、澄乃は眉を吊り上げた。

「何を仰るの!? あの方とお会いしたことなどありません!」

「おまえは覚えていなくても、向こうとしては忘れられないということもあるだろうさ」

「……そんな、こと。大体、あの方は仰ったではありませんか。一条の名が欲しいのだと」

「欲しいとは言わなかったと思うがね。話をしていて、悪い男ではないと感じた。そうでなければ、おまえと引き合わせたりするものか」

 しばらく黙って考えを巡らせ、澄乃は父に問うた。

「お父様は、このお話に乗り気なのですね」

 篤之はすぐには答えず、書き物机の洋燈(らんぷ)に目を遣った。

「無理強いするつもりはない。だが、澄乃。一条家を残すためにはおまえが婿を取ることが必要なのは事実だ」

「わかっています」

「こんな形で婿取りの話などしたくはなかった」

 父は低く呟いた。ステッキの握りに置かれた指が、白くこわばっている。

「……おまえはどう思った? あの橘朔也という男を」

「わかりません」

 本当にわからなかった。

 借金の肩代わりは、決して楽ではないはずだ。銀行株を持っていると言ったって、そこまでの資産家ではない。

 爵位が欲しいようにも思えなかった。もともと旧家の出で、あの若さですでに少佐なのだ。軍の中でも出世頭に違いない。爵位で箔をつける必要はないだろう。

 彼の意図など知らない。だが、これが一条家に取ってどれほど好条件の申し出であるかは、いやというほど理解できた。

 澄乃は書類を丁寧に折り畳んで封筒に戻し、小卓の上に置いた。

「少し考えさせていただけますか」

「もちろんだ。どうしても厭なら断っても──」

「そろそろお夕食にいたしましょう」

 言葉を遮って立ち上がると、父は気圧されたように目を瞬いた。

「……ああ、そうだな」

「支度が整いましたらお呼びいたします」

 頷く父に一礼して、澄乃は足早に書斎を出た。これ以上父と顔を付き合わせていたら、感情の昂りを抑えられる自信がなかった。