大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

「それでしたらお風呂を早めに焚きましょうか?」

「いえ──」

「身体をよく温めたほうが、いいですよ」

 やわらかな口調で朔也が勧める。澄乃は気まずさを感じながら頷いた。

 佐和は朔也の前に湯呑みを置いた。

「かしこまりました。すぐに焚きつけますので、よろしければお茶はお部屋で」

「ありがとう」

 澄乃は盆を受け取り、朔也に会釈をして食堂を出た。佐和が朔也に話しかけている声が聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。



 しばらく部屋でぼんやりしていると、湯が沸いたと佐和が呼びに来た。浴衣と丹前を用意して部屋を出る。結局、お茶はほとんど飲まないまま冷めてしまった。

 湯に身を沈めると手足の先がじんと痺れた。思ったより冷えていたようだ。

 薄暗がりで、澄乃は顎まで湯に浸かって目を閉じた。湯殿には灯がない。脱衣所の電灯が、引き戸の擦り硝子越しに湯気でぼんやりとにじんでいた。

 たゆたう水面のように思考が彷徨い出し、いつしか澄乃は帰途の車中で朔也と交わした会話の記憶を辿っていた。

『あの曲を聞きながら、私は初めて考えたのです。自分には、本当に帰りたい場所があるのだろうか。自分の帰るべき場所は、いったいどこなのだろうか、と』

 すぐ隣にいる朔也の声が、何故かあのときひどく遠かった。

『確かに帰れる場所はあった。しかしそこは自分が本当に帰るべき場所なのか。そもそもそんな場所があるのかどうかさえも、あの頃の私には……よくわからなかったのです』

 雪が降りしきる中、帰還の船を待つ異国の兵たちが奏でていた旋律。「新世界より(イズ・ノーヴァヴァ・スヴェータ)」の第二楽章。

 遠い場所から風に運ばれてきたような、深く静かな主題──。

 それを聴いて初めて、自らの帰る場所について考えたと朔也は言った。あの頃は、よくわからなかったのだと。

 あの頃は。

 だったら、今は……?

 澄乃は目を開き、湯の中で身じろぎした。膝を抱え、ふたたび思いを巡らせる。

 忘れてしまいたいのに執拗に蘇る、冴子の嘲り。

『橘様が毎日お屋敷へお帰りになるのは、単にご自分が引き受けた家へ戻ってくるだけかもしれなくてよ』

 この家に朔也が帰ってくるのは、結婚したのだから当然だと思っていた。

 けれど冴子にそう囁かれてから、当たり前の挨拶を勘繰る気持ちが芽生えてしまった。