車が一条邸の門を入ると、橙色の玄関灯があたたかく迎えた。
すぐに佐和が現れ、『お帰りなさいませ』と頭を下げる。急ぎ足で出てきた千夏は佐和の後ろでしゃちこばって馬鹿丁寧なお辞儀をした。
「ただいま戻りました」
朔也が穏やかに告げる。いつもどおりの口調で。
道行を脱ぎながら、澄乃の頭にまたもや同じ疑問が浮かんだ。
彼の声は、どこへ向けられているのだろう。
この屋敷なのか。それとも出迎えた者に対してなのか──。
「お嬢様、すぐにお夕食にしてもよろしいでしょうか」
佐和に問われ、ハッとして朔也を見る。彼は無言でかすかな笑みを浮かべた。
「そうしてちょうだい。わたしたちは着替えてから参ります」
澄乃はやや急いた足どりで二階へ向かった。後からゆっくりと朔也が階段を上ってくる。追いつかないように調整しているのだろう。そんな考えに思わず唇を噛む。
反対方向へ遠ざかってゆく足音に耳をふさぐように、澄乃は急いで自室の扉を閉めた。
扉に背中を預けて溜め息をつくと、ややあって廊下の向こうから、主寝室の扉が静かに閉まる音が聞こえてきた。自己嫌悪を振り払うように頭を振り、いささか乱暴に帯を解く。
外出用の小紋から家着の袷に着替え、厚手の羽織をまとう。部屋を出ようとして、思わず扉に耳を寄せた。自分の鼓動の音に混じって、やがて朔也の足音が聞こえてくる。
その足音が階段を下りていくのを確かめ、もう一度溜め息をついて澄乃は扉を開けた。何をそんなにびくびくしているのか……自分でも少し呆れていた。
夕食は、父が演奏会の感想を尋ねてくれて、ぎこちなさを意識せずに済んだ。朔也があの曲の一節をシベリアで聴いた体験については、彼が口にしなかったので澄乃も黙っていた。
つらい記憶ではないと彼は言ったけれど、楽しい思い出とは言えまい。浦塩斯徳の冬は、日本とは比べ物にならないくらい寒いはずだ。
夕食が済んで父が書斎に引き取ってすぐ、澄乃もまたそわそわと立ち上がった。ほうじ茶を運んできた佐和に詫びる。
「ごめんなさい。少し疲れたので部屋で休むわ」
