大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 イズ・ノーヴァヴァ・スヴェータ。

 不思議な響きの言葉だ。

「どういう意味なのですか? その……イズ・ノーヴァヴァ・スヴェータ、というのは」

「演目に書かれているとおりですよ。『新世界より』、または『新しい世界から』。英語で言うと、フロム・ザ・ニューワールド、ですね。なぜそういう題名なのかはわからなかったが、強く印象に残りました。あの旋律と、『イズ・ノーヴァヴァ・スヴェータ』という曲名の響きが」

 車が緩やかに角を曲がり、街路灯の光が車内を横切る。一瞬だけ朔也の顔が闇から浮かび上がり、またすぐに陰に沈んだ。

「……おつらい記憶なのですね」

 呟くと、意外にも朔也はかぶりを振った。

「そうでもありません。ただ、初めて考えました。帰る場所について」

「帰る場所……?」

「あのとき彼らは、無事に故郷へ戻れる保証はなかった。迎えの船は本当に来るのか、来たとしても生きて戻れるのか。さらには『故国』さえもが、出征した当時とは違っていた。彼らが戦地に出た頃、チェコスロバキアという国そのものがまだありませんでした。戦っているあいだに新しい祖国が生まれていたんです。……彼らは故郷に帰りたかった。だが、帰りたい故郷は、出てきたときと果たして同じなのだろうか。きっと不安だったでしょう。帰り着くまで、その不安は消えない。それでも彼らには帰りたい場所があった。あの曲を聞きながら、私は初めて考えたのです。自分には、本当に帰りたい場所があるのだろうか。自分の帰るべき場所は、いったいどこなのだろうか、と」

 帰るべき場所。

 その言葉に、澄乃は胸を打たれた。

 考えたこともなかった。澄乃には当たり前の存在として、それがあったから。

 朔也にだって生まれ育った場所はあった。橘家。現に存在している、文句のつけようもない立派な生家。

 それが、彼にとっては『帰るべき場所』ではなかった……?

 口に出しては訊けなかった。だが、察したように彼は小さく苦笑した。

「可笑しいですね。確かに帰れる場所はあった。しかしそこは自分が本当に帰るべき場所なのか。そもそもそんな場所があるのかどうかさえも、あの頃の私には……よくわからなかったのです」

 あの頃の私には。

 それじゃ、今はもうわかったの? それがどこで、本当にあったかどうか。

 口から飛び出しそうになった問いを、唇をきつく閉じて押さえ込む。

 問いかければ、きっと彼は誠実に答えてくれるだろう。

 その答えを聞くのが、何故だかたまらなく怖かった。