大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 露西亜。

 そうだ。彼はシベリアに出征していた。身上書に確かに書かれていた。

 朔也は自分の手に視線を落とし、やや眉根を寄せた。

「演奏会の告知ポスターを見て、似ていると思ったのです。もしかしたら……と。確信はありませんでした。第二楽章が始まるまでは」

「第二楽章で、おわかりになったの?」

「ええ。冒頭の、あの旋律でした。以前、一度だけ聴いたことがあります。あれは……大正八年の年末近くでした」

 朔也がシベリアに出征していたことは知っていても、澄乃はそれについて尋ねたことはなかった。彼が話すことも。

「演奏会が?」

「いえ、そういうものではありません。たまたま見回りをしていて、偶然耳にしたのです。……駅舎の近くで、とても寒かった。雪が積もっていて、引き込み線に貨車が何両も停まっていました。チェコスロバキア軍団の兵士たちが焚き火で暖をとっていた」

 手さぐりするように、ぽつりぽつりと言葉が紡がれる。

「彼らの多くは、もとは墺洪(オーストリア=ハンガリー)二重帝国の支配下に置かれていたチェコ人やスロヴァキア人でした。露西亜で軍団を組織し、連合国側として独逸(ドイツ)や墺洪帝国と戦っていた。ところが露西亜革命が起きて新政権が独逸と講和したため、まっすぐ西へ向かえなくなってしまった。そこで逆方向の東に向かってシベリア鉄道で浦塩斯徳(ウラジオストク)まで行き、そこから海路で欧州へ向かうことになったのです。ややこしいので詳細は省きますが……そういうわけで浦塩斯徳(ウラジオストク)の駅周辺には、帰還の船がやって来るのを待つチェコスロバキアの兵士たちが大勢いました。あそこは駅と港が隣接しているので、吹き曝しの港ではなく、寒風を避けられる駅舎の近くで休んでいたのですよ」

 一瞬遠い目つきになった朔也は、瞬きをしてふたたび語りだした。

「年末……いや、クリスマスだったか。異国の兵たちが貨車の間に集まって、焚き火の周りで楽器を奏でていました。ヴァイオリンとラッパがほんの数名ずつ。正式な軍楽隊というわけではなさそうでした」

 澄乃は黙って耳を傾けた。

 雪の降る中、貨車の隙間で焚き火を囲んで楽器を奏でる、異国の兵士たち。

 澄乃のまったく知らない世界。想像したこともない世界だ。そういう場所に、朔也はいた。そう思うと胸が締めつけられるような気持ちになる。

 朔也は口の端にかすかな笑みを浮かべた。

「とてもいい曲でした。知った顔の将校がちょうどそこにいたので、曲名を尋ねた。お互い、片言の露西亜語でね。わかったのは、それが『イズ・ノーヴァヴァ・スヴェータ』という曲で、作ったのは彼らの故郷の作曲家である『ドヴォルジャーク』という人物だということだけ」