有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 南天の赤い実が、ようやくすべて揃った。

 針を置き、刺繍台に張った絹地を眺める。

 松の枝から流れ落ちるように南天が裾を彩っている。流水めいてしなる茎、ふっくらとした赤い実、葉の裏表をいろどる陰影。

 悪くはない。たぶん、良い出来と言っていいはずだ。

 澄乃はしばし無言で刺繍を眺め、静かに糸切り(ばさみ)を手に取った。

 糸を切ると張りつめていた絹地がゆるみ、光の当たり具合が変わった。南天の赤が、さっきより少しだけ深みを増して見え、澄乃はやっと満足した。

 やはり、台から外してみないと本当の出来はわからない。

 布を丁寧に畳み、佐和を呼ぶ。

 刺繍そのものは澄乃の仕事だが、ほどいた着物をふたたび仕立てるのは佐和の役目だ。仕立物と繕い物にかけては、佐和のほうが澄乃よりずっと確かである。

 佐和は丁重に生地を受け取って引き下がった。

 すぐに次の仕事に取りかかる。残るは半襟三枚と帯留二個だ。年内に納品まで済ませるため、澄乃は朝から日が落ちるまでほとんど休まず針を動かし続けた。

 
 篠田伯爵夫人が訪問着を取りに来たのは、二十三日の昼過ぎだった。

 玄関からすぐの応接間に通された夫人は、刺繍を施された訪問着を広げるなりはしゃいだ歓声を上げた。

 袖の松のモダンな配置、裾の南天の動きのある構図を指でなぞり、満面の笑みを浮かべる。

「本当に素敵……。やっぱり澄乃さんに頼んで正解でしたわ」

 ひとしきり刺繍の出来を鑑賞すると、夫人はおもむろに財布を取り出し、紙幣を懐紙に包んで差し出した。

 澄乃は予想より軽く感じてしまったが、夫人は婉然と微笑んで秘密めかして囁いた。

「少しばかりはずんでおきましてよ」

「……ありがとうございます」

 会釈して、澄乃は謝礼を懐にしまった。

 夫人を送り出し、そっと懐紙を開いてみる。

 十円札が三枚、五円札が一枚。合わせて三十五円。

『少し、ですか』

 ふと、橘少佐の声がよみがえった。

 責める響きはなく、ただ静かな声だった。

 その声を追い払うようにかぶりを振り、台所へ行く。佐和は篤之の白いワイシャツに電気アイロンを当てていた。

「佐和、これ」

 包み直した二十円を差し出す。

 アイロンを置いた佐和は懐紙を開いて目を瞠った。

「お嬢様──」

「お給金です。三か月分」

「これでは多すぎます」

「遅くなったお詫びよ」

「そのようなお気遣い、無用にございます」

「佐和には仕立て直しをしてもらってるでしょう。わたしがいただいた手間賃には当然、佐和の分も入っているわ」

 しばし沈黙し、佐和は懐紙に包まれた紙幣を押しいただいた。

「ありがとうございます、お嬢様」

 佐和の潤んだ瞳から目を逸らすように頷いて台所を出る。

 足早に二階の自室へ行くと、机の抽斗を開けた。奥から小さな手提げ金庫を取り出す。

 入っているのは十円札が一枚と一円札が三枚。そこに、十五円分の紙幣を丁寧に重ね、ふたたび抽斗の奥にしまい込んだ。

 なんとか年が越せそう……と安堵し、年内に祝言を挙げることを思い出して苦い笑みが浮かんだ。

 あの話がなければ、年は越せても後が続かなかったのだと、いやでも思い出してしまう。

 だからといって、素直に喜ぶことはどうしてもできなかった。



 夕方、橘少佐がふたたび訪れた。

 呼ばれて書斎へ行くと、父は机の上に広げられた何枚かの書類を代わる代わる手に取っては眺めていた。

 机の脇に立っていた少佐は澄乃を見ると慇懃に会釈した。

「役所が年末休みに入る前に、届出を済ませておかねばなりません」

「届け出?」

「婚姻届です」

 そっけない口調で少佐は言った。にわかに現実が押し寄せて、黙って指を握り込む。

「祝言は、二十八日に行ないます」

 事務的な口調だった。澄乃は思わず頭の中で日付を思い浮かべた。

 今日は……二十三日よね。ということは──。

「──五日後、ですか?」

「急がせて申し訳ない」

 その言葉に嘘はないのだろうが、だからといって日取りを改めるつもりもないらしい。

 書類を置いた篤之は考え込むように呟いた。

「母屋の座敷が使えるな。襖を外せば──」

「あの。離れではいけませんか」

 思わず口をはさんでしまう。父は怪訝そうな顔になった。

「離れか」

「お母様が、お好きだった場所ですので……。できましたら」

 そう言うと、篤之は合点した様子で頷いた。

「そうだな。綾子(あやこ)も喜ぶだろう。──かまわんかね? やや手狭になるが」

 問われた朔也は表情を変えることなく頷いた。

「差し支えありません。内々の祝言ですから」

 相変わらず、婿入りしようという人とは思えない口ぶりだ。

「必要なものがあれば、こちらで手配します」

「いや、家にあるものでなんとかなる」

 父の声音は静かだが、どこか苦い響きがあった。

 下がってよいと父に言われ、澄乃は一礼して書斎を出た。

 冷え冷えとした廊下を静かに歩む。

 二十八日に祝言。

 あと、五日。

 やはり他人事みたいに思えてしまう。

 現実感は、かえって日増しに遠のいてゆくようだった。