大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 屋敷を差し押さえるという通告書だった。期限は正月明け。

「なんとか延期してもらえるよう、つてを辿って頼み込んでいるところだった」

 絶句していた澄乃は慌てて言った。

「年内に、いくらかお金が入ります。篠田様の訪問着や、いろいろな小間物で──」

「いくらかでは、だめなのだ」

 苦渋の声で父は遮った。

 こんなときでも声を荒らげない。背中や脚が痛くてたまらなくても、八つ当たりなど決してしない人だ。

「屋敷の修繕も後回しにし続けている。あちこちに雨漏りがあることくらい知っているよ。佐和の給金だって、もう三月も滞っている」

 澄乃はハッとした。

 佐和は給金について一度も口にしたことがない。

 母の乳母だった佐和は、輿入れのときに侍女として付いてきた。今では一条家の家政全般を任せられており、澄乃にとっては祖母のような存在だ。

「……橘様は、このことをご存じなのですね?」

「ああ」

「ですが……どこから我が家をお知りになったのでしょう」

一六八(いろは)銀行だろうな。明言はしなかったが」

 澄乃は書類から顔を上げて父を見た。

「一六八銀行、ですか?」

「栃木の雨岡に本店を置く、もとは国立銀行として始まった銀行だ。橘少佐の父君は、あそこの取締役を務めておられる。十年、いや十五年ほど前だったか……我が家を訪ねてきたことがあった。東京に支店を出したいと」

「そうでしたか」

「橘家は雨岡藩に仕えていた武士の家系でな。名望家として官僚や教育者を輩出していたが、銀行業に乗り出してさらに力をつけた」

 なるほど、と頷き、澄乃はふたたび書類を眺めた。

「……一六八銀行が債権者の筆頭なのですね」

「ああ。東京に支店を出す折、私が口を利いた縁があったから、良い条件で貸してくれたのだよ。しかしそれももう、限界だな……」

 父は自嘲気味に呟いた。

「昔は拝まれる側だったのが、今では拝む側、ということさ」

「返済を猶予してくれるよう、橘様がご実家に頼んでくださる……ということでしょうか」

「いや。すべての債務を彼が引き受け、今返せる分は返して、残りは株の配当と月々の俸給から返済していくそうだ。相続や分与で一六八銀行の株をかなり持っていると言っていた」

 陸軍少佐とはいえ俸給だけで背負える額ではないだろうと思ったら、銀行株の配当と将校としての定収入、そして自分の名で借財を引き受けるだけの信用があったのだ。

 それがわかったところで、不審はまだぬぐえない。

「──その条件が、一条家への婿入りということですか」

「そうだ」

「他にもあるでしょう」

 ないはずないと、語気を強めると父は肩をすくめた。

「それだけだ。彼はただ、この家の婿にしてくれればいいと言った。望みはそれだけだと」

「そんなわけ──」

「少佐は、おまえを見初めたのだよ」