大正恋刺繍 ~押しかけ婿様の寡黙な溺愛~

 澄乃は膝の上に置いた曲目次第に視線を落とした。照明は抑えられているが、曲名は見て取れる。

 ドヴォルザーク作曲、交響曲第九番『新世界より』

 朔也のつぶやきは「ドヴォルジャーク」と聞こえたが、聞き間違いだろうか。彼の視線は舞台に向けられているが、何故だか舞台ではなく、はるかに遠いどこかを見ているかのように思えた。

 もしかして、彼はこの曲を知っていたのかもしれない。今初めて聴いたのではなく、前にどこかで聞いたことがあるのかも……。

 澄乃の知らないいつか、澄乃の知らないどこかで。

 朔也が一条家を訪れる前。澄乃がまだ、彼の存在すら知らなかった頃の──。 

 舞台に視線を戻し、ふたたび音楽に聞き入ろうとしたが、胸がざわざわして集中できない。

 朔也のことを、未だ何もわかっていないのだと思い知らされた気がした。

 この人の過ごしてきた時間を、自分はほとんど何も知らない。知ろうともしなかった。

 旋律は静かに揺れ、広がり、やがてまた沈み……第二楽章が終わった。

 わずかな間を置いて、第三楽章が力強く立ち上がった。朔也の指からこわばりが失せ、肩の力がわずかに抜ける。

 帰ってきた。どこか遠い場所から、澄乃の傍らに。

 それだけで、澄乃は安堵した。

 ただ、知りたいと思った。

 先ほどの旋律を、彼はどこで、どんなふうに聴いたのか──。

 交響曲は第四楽章で高揚の頂点に達し、劇的な終焉を迎えた。

 最後の響きが空中に解け去ると同時に、会場は盛大な拍手と歓呼の声でどよめいた。

 澄乃は夢から覚めたような心持ちで、懸命に手を叩いた。隣で朔也も力強く拍手をしていた。その横顔には、どこか安らいだ満足感が漂っているように感じられた。

 席を立ち、人波に押されるようにして会場を出る。

 外はすでに宵闇に包まれていた。藍色の空に星がまたたき始めている。冷えた風に肩をすぼめると、朔也が腕を伸ばした。だが、その腕は中途半端な位置で止まってしまう。彼は気まずそうな笑みをかすかに浮かべた。

「帰りましょうか」

 無言で頷き、先ほど車を降りた場所へ戻ると、すでに村瀬が車を寄せて待っていた。

 ふたりを乗せて車が走り出す。行きと同じく、拳ふたつぶんの距離を置いて。

 澄乃は手に持ったままだった曲目次第を眺めた。車の振動で文字が揺れるさまが、まるで自分の心に生じた動揺の表れみたいに思える。

 交響曲第九番「新世界より」──ドヴォルザーク作曲。

 活字ではそう記されているが、朔也が呟いた音は少し違っていたはず。

「──あの。今夜の曲目……もしかして、前にもお聴きになったことが?」

 朔也は窓外に向けていた顔を戻し、澄乃を見た。

「曲名までは知りませんでした」

「では作曲者をご存じでしたのね。少し……違った響きのように聞こえましたけれど」

「……ああ、ドヴォルジャークと言うのは露西亜(ロシア)語の発音です。最初にあの曲を聞いたのが浦塩斯徳(ウラジオストク)だったので」