「はい。元気のよい娘ですね」
「佐和。せっかくだから、よく躾けてあげなさい。いずれどこかへ嫁に行くときに役立つだろう」
「かしこまりました」
佐和がうやうやしくお辞儀する。父は満足そうに頷いて食事に戻った。
夕餉が済んで父が書斎へ引き上げると、佐和が食後の茶を淹れて食卓に置いた。篤之には別途お茶を持っていく。書斎で食後のお茶をひとりでゆっくり楽しむのが父の習慣だ。
以前は佐和と世間話などして過ごしていたが、結婚後は朔也との語らいの時間になった。お互いに今日一日の出来事をつらつらと話すだけだが、ほとんど家で過ごす澄乃にとっては楽しいひとときだった。
ところがそれもまた、苦痛の時間と化してしまった。
朔也はこれまでと同じように昼間の出来事を話してくれる。もちろん具体的な軍務には触れず、差し障りのない範囲だけだ。もともと口数の多い人ではないし、淡々とした口調で語られる話題は面白おかしいものでもない。
しかし、それらの話題から朔也がどんなことに関心を持ち、どんな考え方をするのかが窺えて興味深かった。理解が及ばない事柄でも、朔也の声を聞いているだけで澄乃は幸せだった。
そう、幸せだったのだ。
このひとときを苦痛に感じるようになって初めて、以前は幸せだったのだと澄乃は気付いた。
どうしてあの時間がそのまま続かなかったのだろう。錦華屋なんか、行かなければよかった──。
後悔に苛まれていると、ふいに自分の名を呼ぶ声が聞こえて我に返る。
「澄乃さん。どうかしましたか?」
気づかわしげに朔也が見つめている。黒目がちの真摯な目が自分に注がれていることを意識すると、罪悪感がこみ上げた。
「あ……ごめんなさい」
「すみません。つまらない話で退屈させましたね」
「ち……違います……っ」
声が詰まる。彼の話を全然聞いていなかったことに、今になって気付いた。
「そうじゃないんです、わたし……あの……」
無意識に左肘の上を着物の上からさすると、朔也がさらに心配そうに眉を寄せた。
「腕が痛むのですか? どこかにぶつけ──」
「なんともありません」
慌てて立ち上がる澄乃を朔也が見上げる。
「大丈夫ですか?」
「はい。本当に、なんでもないので……。ごめんなさい、わたし、もう、下がります」
答えも聞かず、頭を下げる。視線を合わせないように急いで食堂を出ると、背後から『おやすみなさい』と声がした。
気遣いといたわりと……ほんの少し寂しさを交えたような声。よりいっそう鋭くなった罪悪感に胸を刺され、澄乃はぎゅっと着物の胸元を押さえた。
「……ごめんなさい」
吐息で洩らした声は、朔也には届くまい。
届かせようとする勇気さえないことに絶望しながら、澄乃は急ぎ足で階段を上っていった。
「佐和。せっかくだから、よく躾けてあげなさい。いずれどこかへ嫁に行くときに役立つだろう」
「かしこまりました」
佐和がうやうやしくお辞儀する。父は満足そうに頷いて食事に戻った。
夕餉が済んで父が書斎へ引き上げると、佐和が食後の茶を淹れて食卓に置いた。篤之には別途お茶を持っていく。書斎で食後のお茶をひとりでゆっくり楽しむのが父の習慣だ。
以前は佐和と世間話などして過ごしていたが、結婚後は朔也との語らいの時間になった。お互いに今日一日の出来事をつらつらと話すだけだが、ほとんど家で過ごす澄乃にとっては楽しいひとときだった。
ところがそれもまた、苦痛の時間と化してしまった。
朔也はこれまでと同じように昼間の出来事を話してくれる。もちろん具体的な軍務には触れず、差し障りのない範囲だけだ。もともと口数の多い人ではないし、淡々とした口調で語られる話題は面白おかしいものでもない。
しかし、それらの話題から朔也がどんなことに関心を持ち、どんな考え方をするのかが窺えて興味深かった。理解が及ばない事柄でも、朔也の声を聞いているだけで澄乃は幸せだった。
そう、幸せだったのだ。
このひとときを苦痛に感じるようになって初めて、以前は幸せだったのだと澄乃は気付いた。
どうしてあの時間がそのまま続かなかったのだろう。錦華屋なんか、行かなければよかった──。
後悔に苛まれていると、ふいに自分の名を呼ぶ声が聞こえて我に返る。
「澄乃さん。どうかしましたか?」
気づかわしげに朔也が見つめている。黒目がちの真摯な目が自分に注がれていることを意識すると、罪悪感がこみ上げた。
「あ……ごめんなさい」
「すみません。つまらない話で退屈させましたね」
「ち……違います……っ」
声が詰まる。彼の話を全然聞いていなかったことに、今になって気付いた。
「そうじゃないんです、わたし……あの……」
無意識に左肘の上を着物の上からさすると、朔也がさらに心配そうに眉を寄せた。
「腕が痛むのですか? どこかにぶつけ──」
「なんともありません」
慌てて立ち上がる澄乃を朔也が見上げる。
「大丈夫ですか?」
「はい。本当に、なんでもないので……。ごめんなさい、わたし、もう、下がります」
答えも聞かず、頭を下げる。視線を合わせないように急いで食堂を出ると、背後から『おやすみなさい』と声がした。
気遣いといたわりと……ほんの少し寂しさを交えたような声。よりいっそう鋭くなった罪悪感に胸を刺され、澄乃はぎゅっと着物の胸元を押さえた。
「……ごめんなさい」
吐息で洩らした声は、朔也には届くまい。
届かせようとする勇気さえないことに絶望しながら、澄乃は急ぎ足で階段を上っていった。
