玄関の扉が開閉する音に、澄乃は針を持つ手を止めた。
朔也が帰宅したのだ。
気がついたときは迎えに出るようになっていたのに、この頃どうにも腰が重い。今日も逡巡しているうちに佐和の声が聞こえてきた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
いつもどおりの、穏やかな朔也の返答。何ひとつ変わっていない。変わったのは──澄乃の心持ちだ。
「本日より新しい女中が参りました。さ、ご挨拶を」
「千夏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
朝と同じ、はきはきとした声が扉越しに幾分くぐもって聞こえる。
「ああ。よろしく。佐和の言うことをよく聞くように」
「はい!」
打てば響くような千夏の声。たぶん、朔也は頷いたのだろう。返す言葉は聞こえなかった。
足音が近づいてくる。コツコツと扉を敲く音。
「ただいま戻りました」
さっきと同じ口調が、ずっと近い距離で聞こえる。扉越しに。
「お帰りなさいませ」
佐和がかけたのと同じ言葉を返す。扉越しに。
我ながらこわばった口調だと思う。
扉の把手は動かない。開けていいかと朔也が問うこともない。
足音が、遠ざかってゆく。先ほどとまったく変わらぬ歩調に、彼の心情を窺い知るすべはない。
こんなことをされておもしろいはずがない……と澄乃は自嘲気味の溜め息をついた。
錦華屋百貨店に行った日からずっと、扉越しの挨拶が続いている。今日で十日目だ。
朔也は何も言わない。元に戻っただけと思っているのかもしれない。結婚直後、澄乃は朔也の帰宅を出迎えなかった。彼が澄乃のところに帰宅の挨拶に訪れ、それに返答するだけだった。
変わったのは、篠田夫人に椿の半襟と手巾を納品した日のことだ。一刻も早く報告したくて、玄関まで出迎えた。朔也はひどく面食らっていたが、なんだか嬉しそうにも見えた。
それからは、作業に集中しすぎて気付かなかったときを除いて、出迎えるようになった。
新しい習慣になりかけていたそれが、ぷつりと途切れた。朔也は不審を覚えただろう。そう思うとさらに後ろめたい気分になる。
だが、立ち上がろうとするたびに冴子の囁きが脳裏に蘇る。
『橘様が毎日このお屋敷へお帰りになるのは、単にご自分が引き受けた家へ戻ってくるだけかもしれなくてよ。あなたのもとへ帰ってきていると言えるかどうか、わかりませんわね』
そんなこと、考えたこともなかったのに。
朔也がここへ帰ってくること。それは結婚したからには当たり前の行動だった。
そう、あのときまでは。
彼はどこへ帰って来ているのだろう。
単に一条家の屋敷へなのか。
澄乃がいる家なのか。
もしここに澄乃がいなくなったら。
それでも彼は、同じように玄関の扉を開け、同じように穏やかな口調で告げるのだろうか。
『ただいま戻りました』
と。
朔也が帰宅したのだ。
気がついたときは迎えに出るようになっていたのに、この頃どうにも腰が重い。今日も逡巡しているうちに佐和の声が聞こえてきた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
いつもどおりの、穏やかな朔也の返答。何ひとつ変わっていない。変わったのは──澄乃の心持ちだ。
「本日より新しい女中が参りました。さ、ご挨拶を」
「千夏と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
朝と同じ、はきはきとした声が扉越しに幾分くぐもって聞こえる。
「ああ。よろしく。佐和の言うことをよく聞くように」
「はい!」
打てば響くような千夏の声。たぶん、朔也は頷いたのだろう。返す言葉は聞こえなかった。
足音が近づいてくる。コツコツと扉を敲く音。
「ただいま戻りました」
さっきと同じ口調が、ずっと近い距離で聞こえる。扉越しに。
「お帰りなさいませ」
佐和がかけたのと同じ言葉を返す。扉越しに。
我ながらこわばった口調だと思う。
扉の把手は動かない。開けていいかと朔也が問うこともない。
足音が、遠ざかってゆく。先ほどとまったく変わらぬ歩調に、彼の心情を窺い知るすべはない。
こんなことをされておもしろいはずがない……と澄乃は自嘲気味の溜め息をついた。
錦華屋百貨店に行った日からずっと、扉越しの挨拶が続いている。今日で十日目だ。
朔也は何も言わない。元に戻っただけと思っているのかもしれない。結婚直後、澄乃は朔也の帰宅を出迎えなかった。彼が澄乃のところに帰宅の挨拶に訪れ、それに返答するだけだった。
変わったのは、篠田夫人に椿の半襟と手巾を納品した日のことだ。一刻も早く報告したくて、玄関まで出迎えた。朔也はひどく面食らっていたが、なんだか嬉しそうにも見えた。
それからは、作業に集中しすぎて気付かなかったときを除いて、出迎えるようになった。
新しい習慣になりかけていたそれが、ぷつりと途切れた。朔也は不審を覚えただろう。そう思うとさらに後ろめたい気分になる。
だが、立ち上がろうとするたびに冴子の囁きが脳裏に蘇る。
『橘様が毎日このお屋敷へお帰りになるのは、単にご自分が引き受けた家へ戻ってくるだけかもしれなくてよ。あなたのもとへ帰ってきていると言えるかどうか、わかりませんわね』
そんなこと、考えたこともなかったのに。
朔也がここへ帰ってくること。それは結婚したからには当たり前の行動だった。
そう、あのときまでは。
彼はどこへ帰って来ているのだろう。
単に一条家の屋敷へなのか。
澄乃がいる家なのか。
もしここに澄乃がいなくなったら。
それでも彼は、同じように玄関の扉を開け、同じように穏やかな口調で告げるのだろうか。
『ただいま戻りました』
と。
