「一六八銀行だろうな。明言はしなかったが」
澄乃は書類から顔を上げて父を見た。
「一六八銀行、ですか?」
「栃木の雨岡に本店を置く、もとは国立銀行として始まった銀行だ。橘少佐の父君は、あそこの取締役を務めておられる。十年、いや十五年ほど前だったか……我が家を訪ねてきたことがあった。東京に支店を出したいと」
「そうでしたか」
「橘家は雨岡藩に仕えていた武士の家系でな。名望家として官僚や教育者を輩出していたが、銀行業に乗り出してさらに力をつけた」
なるほど、と頷き、澄乃はふたたび書類を眺めた。
「……一六八銀行が債権者の筆頭なのですね」
「ああ。東京に支店を出す折、私が口を利いた縁があったから、良い条件で貸してくれたのだよ。しかしそれももう、限界だな……」
父は自嘲気味に呟いた。
「昔は拝まれる側だったのが、今では拝む側、ということさ」
「返済を猶予してくれるよう、橘様がご実家に頼んでくださる……ということでしょうか」
「いや。すべての債務を彼が引き受け、今返せる分は返して、残りは株の配当と月々の俸給から返済していくそうだ。相続や分与で一六八銀行の株をかなり持っていると言っていた」
陸軍少佐とはいえ俸給だけで背負える額ではないだろうと思ったら、銀行株の配当と将校としての定収入、そして自分の名で借財を引き受けるだけの信用があったのだ。
それがわかったところで、不審はまだぬぐえない。
「──その条件が、一条家への婿入りということですか」
「そうだ」
「他にもあるでしょう」
ないはずないと、語気を強めると父は肩をすくめた。
「それだけだ。彼はただ、この家の婿にしてくれればいいと言った。望みはそれだけだと」
「そんなわけ──」
「少佐は、おまえを見初めたのだよ」
生真面目な顔で取りなすように言われ、澄乃は眉を吊り上げた。
カッと頬が熱くなる。
「何を仰るの!? あの方とお会いしたことなどありません!」
「おまえは覚えていなくても、向こうとしては忘れられないということもあるだろうさ」
「……そんな、こと。大体、あの方は仰ったではありませんか。一条の名が欲しいのだと」
「欲しいとは言わなかったと思うがね。話をしていて、悪い男ではないと感じた。そうでなければ、おまえと引き合わせたりするものか」
確かにそれはそうかもしれない。
しばらく黙って考えを巡らせ、澄乃は父に問うた。
「お父様は、このお話に乗り気なのですね」
篤之はすぐには答えず、書き物机の洋燈に目を遣った。
「無理強いするつもりはない。だが、澄乃。一条家を残すためにはおまえが婿を取ることが必要なのは事実だ」
「わかっています」
「こんな形で婿取りの話などしたくはなかった」
父は低く呟いた。
ステッキの握りに置かれた指が、白くこわばっている。
しばしの沈黙を挟み、父は静かに尋ねた。
「おまえはどう思った? あの橘朔也という男を」
「わかりません」
本当にわからなかった。
借金の肩代わりは、決して楽ではないはずだ。
銀行株を持っていると言ったって、そこまでの資産家ではない。
爵位が欲しいようにも思えなかった。
もともと旧家の出で、あの若さですでに少佐なのだ。
軍の中でも出世頭に違いない。
爵位で箔をつける必要はないだろう。
彼の意図など知らない。
だが、これが一条家に取ってどれほど好条件の申し出であるかは、いやというほど理解できた。
澄乃は書類を丁寧に折り畳んで封筒に戻し、小卓の上に置いた。
「少し考えさせていただけますか」
「もちろんだ。どうしても厭なら断っても──」
「そろそろお夕食にいたしましょう」
澄乃は父の言葉を遮って立ち上がった。
父は気圧されたように目を瞬いた。
「……ああ、そうだな」
「支度が整いましたらお呼びいたします」
頷く父に一礼して、澄乃は足早に書斎を出た。これ以上父と顔を付き合わせていたら、感情の昂りを抑えられる自信がなかった。
澄乃は書類から顔を上げて父を見た。
「一六八銀行、ですか?」
「栃木の雨岡に本店を置く、もとは国立銀行として始まった銀行だ。橘少佐の父君は、あそこの取締役を務めておられる。十年、いや十五年ほど前だったか……我が家を訪ねてきたことがあった。東京に支店を出したいと」
「そうでしたか」
「橘家は雨岡藩に仕えていた武士の家系でな。名望家として官僚や教育者を輩出していたが、銀行業に乗り出してさらに力をつけた」
なるほど、と頷き、澄乃はふたたび書類を眺めた。
「……一六八銀行が債権者の筆頭なのですね」
「ああ。東京に支店を出す折、私が口を利いた縁があったから、良い条件で貸してくれたのだよ。しかしそれももう、限界だな……」
父は自嘲気味に呟いた。
「昔は拝まれる側だったのが、今では拝む側、ということさ」
「返済を猶予してくれるよう、橘様がご実家に頼んでくださる……ということでしょうか」
「いや。すべての債務を彼が引き受け、今返せる分は返して、残りは株の配当と月々の俸給から返済していくそうだ。相続や分与で一六八銀行の株をかなり持っていると言っていた」
陸軍少佐とはいえ俸給だけで背負える額ではないだろうと思ったら、銀行株の配当と将校としての定収入、そして自分の名で借財を引き受けるだけの信用があったのだ。
それがわかったところで、不審はまだぬぐえない。
「──その条件が、一条家への婿入りということですか」
「そうだ」
「他にもあるでしょう」
ないはずないと、語気を強めると父は肩をすくめた。
「それだけだ。彼はただ、この家の婿にしてくれればいいと言った。望みはそれだけだと」
「そんなわけ──」
「少佐は、おまえを見初めたのだよ」
生真面目な顔で取りなすように言われ、澄乃は眉を吊り上げた。
カッと頬が熱くなる。
「何を仰るの!? あの方とお会いしたことなどありません!」
「おまえは覚えていなくても、向こうとしては忘れられないということもあるだろうさ」
「……そんな、こと。大体、あの方は仰ったではありませんか。一条の名が欲しいのだと」
「欲しいとは言わなかったと思うがね。話をしていて、悪い男ではないと感じた。そうでなければ、おまえと引き合わせたりするものか」
確かにそれはそうかもしれない。
しばらく黙って考えを巡らせ、澄乃は父に問うた。
「お父様は、このお話に乗り気なのですね」
篤之はすぐには答えず、書き物机の洋燈に目を遣った。
「無理強いするつもりはない。だが、澄乃。一条家を残すためにはおまえが婿を取ることが必要なのは事実だ」
「わかっています」
「こんな形で婿取りの話などしたくはなかった」
父は低く呟いた。
ステッキの握りに置かれた指が、白くこわばっている。
しばしの沈黙を挟み、父は静かに尋ねた。
「おまえはどう思った? あの橘朔也という男を」
「わかりません」
本当にわからなかった。
借金の肩代わりは、決して楽ではないはずだ。
銀行株を持っていると言ったって、そこまでの資産家ではない。
爵位が欲しいようにも思えなかった。
もともと旧家の出で、あの若さですでに少佐なのだ。
軍の中でも出世頭に違いない。
爵位で箔をつける必要はないだろう。
彼の意図など知らない。
だが、これが一条家に取ってどれほど好条件の申し出であるかは、いやというほど理解できた。
澄乃は書類を丁寧に折り畳んで封筒に戻し、小卓の上に置いた。
「少し考えさせていただけますか」
「もちろんだ。どうしても厭なら断っても──」
「そろそろお夕食にいたしましょう」
澄乃は父の言葉を遮って立ち上がった。
父は気圧されたように目を瞬いた。
「……ああ、そうだな」
「支度が整いましたらお呼びいたします」
頷く父に一礼して、澄乃は足早に書斎を出た。これ以上父と顔を付き合わせていたら、感情の昂りを抑えられる自信がなかった。
