有能すぎる押しかけ婿様に完全包囲されました

 翌日の午後三時少し前。澄乃の私室の扉を佐和が控え目に(たた)いた。

「お嬢様。橘様がお見えになりました」

 窓際に立ち、レースのカーテン越しに離れを眺めていた澄乃は、一呼吸置いて返事をした。

「……ただいま参ります」

 いよいよ、だ。

 昨日の昼過ぎ、玄関脇の電話室で電話機が鳴り響いた。

 橘少佐の部下からの電話だった。

 一条家の懐具合がよかった頃に入れた電話は今でも外していない。

 維持費はかさむが、父の容態が急に悪くなってもすぐに医者に往診を頼める。

 たまに澄乃に仕事の依頼が来ることもあるが、ほとんどは父宛だ。

 差し押さえ通告の書状を見せられて、父に時々かかってきていた電話は返済の督促だったのだと察しがついた。

 そのせいで電話の音を作業部屋で聞いたときには思わず固まってしまった。

 あとで佐和からそれが橘少佐の再訪の予告だったと聞き、澄乃はホッとすると同時に胃が重くなるような感覚に襲われた。

 返事を、しなければならない。

 姿見の前に立ち、装いを確かめる。

 あらかじめわかっていたから、今日は服装を整えておくことができた。

 澄乃が選んだのは流水地紋の薄青磁色の(あわせ)だった。

 背に母の実家の紋である丸に花菱がひとつだけ入っている。

 一条家の家紋は丸に三つ柏だが、澄乃は母から受け継いだ女紋としてこれを使っていた。

 真っ白な半襟には色味の違う白糸で唐草文様が繍ってある。

 お太鼓に締めた帯は母が遺した銀鼠の袋帯だ。

 松菱文様の金糸は少しくすんでいたが、佐和が朝から丁寧に手を入れてくれた。

 髪も佐和に結ってもらい、詰め物を入れない束髪に母の鼈甲かんざしをひとつだけ挿した。

 かんざしの角度を少し直して部屋を出ると、廊下に控えていた佐和がうやうやしくお辞儀した。

 彼女もふだんよりいい着物で、前掛けはしていない。

 澄乃は佐和の後に続いてしずしずと階段を下り、書斎へ向かった。

「お嬢様が来られました」

「入りなさい」

 佐和の呼びかけに篤之が応える。

 部屋に入ると、すぐに橘少佐の姿が目に入った。

 日の当たる窓辺に佇んでいる。

 今日も一分の隙もない軍服姿だ。

 真っ白な手袋。

 軍刀の鞘が黒々と艶光りしている。

 澄乃は静かに一礼した。

「いらっしゃいませ」

「本日は、お時間を取っていただきありがとうございます」

 非の打ち所のない所作で橘少佐が礼を返す。

「座りなさい」

 二脚並んだひとり掛けのソファにかけていた父が隣を示す。

 澄乃が座ると、向かいに座るよう父は少佐に勧めた。

 彼は横長のソファの真ん中に腰を下ろし、改めて一礼した。

「本日は、お返事をいただきたく参上しました」

「はい」

 緊張のせいか、少し声がかすれてしまった。

 なんだか悔しくなる。

 そこへ、扉の向こうから『失礼します』と佐和の声がした。

 茶托に乗せた蓋付き茶碗を三つ、それぞれの前に出すと、佐和は深々と一礼して退出した。

 橘少佐は篤之に勧められて一口茶を飲み、静かに茶碗を戻すと姿勢を正した。

「お返事を伺ってもよろしいでしょうか」

 澄乃は唇の裏をきゅっと噛むと、伏せていた顔を上げた。

 目が合った。

 感情の読めない黒瞳が、まっすぐに澄乃に向けられている。

「──橘様のお申し出、お受けいたします」

 篤之は軽く目を瞠り、小さく息を洩らした。

 安堵とも悔恨ともつかぬ吐息だった。

「感謝します」

 橘朔也は澄乃をじっと見つめ、一礼した。

 顔を上げるまで、少し間があった。

 ふたたび澄乃を見つめたとき、彼の瞳は相変わらず冷静沈着そのものだったが、石のような冷たい無機質さがいくぶんかやわらいだように見えた。

 何故だかうろたえそうになって、指を握り込む。

 爪が掌に食い込む痛みで自分を奮い立たせるようにして、澄乃は毅然と言葉を継いだ。

「ただし、ひとつだけ条件がございます」

「なんでしょうか」

「わたくしは、仕事として刺繍をいたしております。手(すさ)びではございません。対価をいただいて、お引き受けしております。結婚してもその仕事をこれまでどおり続けたく存じます」

 橘少佐は目を瞬いた。

「それは、私が許可する筋合いではないと思いますが」

「……はい?」

「あなたの仕事は、あなた自身が決めること。あれこれ指図するつもりはありません」

 澄乃は面食らって少佐を眺めた。

 彼はしごく真面目な顔つきだ。

 澄乃の機嫌を取っているわけではないらしい。

 彼はもう一口茶を飲んで、澄乃に目を戻した。

「他にご要望は。若輩の身ですが、できる限りのことはいたします」

「……いえ、それだけです」

 気を呑まれた態で澄乃は答えた。

 少し間が空いた。

 息苦しさを覚える寸前、少佐が考え深げな声音で尋ねた。

「失礼を承知で、ひとつ伺ってもよろしいか」

「はい」

「その仕事──刺繍の仕事は、どのように受けているのですか。馴染みの呉服店からの紹介ですか」

「それもありますが、大抵は以前からお付き合いのあるご家庭の奥様や、お嬢様がたからのご依頼です」

「仕事というからには、当然代金は受け取られていますね?」

「もちろんです」

「いかほど」

 澄乃は少し言葉に詰まった。

「……使用した材料の実費と、手間賃を少し」

「少し、ですか」

「皆様、昔からよくしてくださる方々ばかりですので……」

 橘少佐は何か言いたそうに眉根を寄せたが、結局呟くように「そうですか」と口にしただけだった。

 父が、こほんと咳払いをする。

「他に聞きたいことはあるかね?」

「いえ、これで十分です」

 彼はきっぱりと答えた。

 父の目線を受け、澄乃は黙ってかぶりを振る。

「それでは、今日はこれで。すぐに返済手続きに入ります。年内には式を挙げたい。ごく内々のものでかまいません」

「……え?」

 立ち上がった少佐を、唖然と澄乃は見上げた。

 年内に挙式? 今日はもう──十二月の二十日なのだけど……!?

 橘少佐は無造作に頷いた。

「慌ただしいことで申し訳ないが、早ければ早いほど安心なので」

 いったい何が安心なのかと問う暇もなく、少佐はぴしりと一礼して大股に出ていった。

 澄乃と篤之は呆気にとられ、送り出すことも忘れて座り込んだままでいた。

 玄関扉の開く音に、我に返って澄乃は慌てて玄関ホールへ向かった。

 すでに少佐の姿はなく、深々と佐和がお辞儀しているだけだった。

 一昨日と同じように自動車の発動機(エンジン)音が唸りを上げ、遠ざかってゆく。

 父がステッキを付きながら玄関ホールまで出てきて、苦笑まじりに呟いた。

「婿入りする側に挙式を急かされるとはな。……まぁ、やむをえんか」

 扉を閉めた佐和が、心配そうに篤之を窺う。

 父はなんでもないと手を振った。

「しかし澄乃。本当によかったのかね?」

 澄乃は閉まった玄関扉を見つめ、父に向き直ると頷いた。

「決めましたから」

「……ならば、よいが」

 父が不憫げに、しかしどこか肩の荷が下りたような顔つきで澄乃を見る。

 澄乃は意識して口角を持ち上げた。

 これでよかったのだ。

 後悔はない。

 不満もなかった。

 これからも刺繍を仕事として続けられるのだから、不満などあるはずもない。

 父の背に手を添えて廊下を歩きながら、澄乃はぼんやりと考えた。

 南天の刺繍を早く終わらせないと。

 本当に年内に挙式するなら、なおのこと──。