降り注ぐ五月の光が、縁側を明るく照らしていた。
そこへ着物姿の少女が座敷から出て来て、小さな手に持った手巾ほどの大きさの布を光にかざした。白い正絹の端裂で、三輪の菫が刺繍されている。
薄紫の花びらと緑の葉、茎。それぞれに色調の異なる糸で濃淡を表した。今までで一番いい出来だ。お母様も佐和も、きっと褒めてくれる。佐和なんかニコニコしながらこんなふうに言うはずだ。
『澄乃様はまだ六つなのに、なんてお上手なんでしょうねぇ』
べた褒めされたら胸を張ってこう言い返そう。
『まぁ、ばあやったら。わたし、もうすぐ七つよ』
想像しただけで笑みがこぼれ、ますます上機嫌になる。
近頃は西洋から伝わった刺繍が手軽でハイカラなお稽古ごととして流行り始めているらしい。けれど澄乃が母から教わっているのは、刺繍台に布を張って両手で針を刺す昔ながらの日本刺繍だ。
まだ幼い澄乃は小さな布を張れる台を作ってもらい、そこに伝統的な文様を刺して熱心に練習していた。そんなとき、ふと庭先でひっそり咲いていた菫に目が留まり、これを刺してみようと思いついた。
勢いのままに刺した菫はなかなか良い出来に見えた。端をかがってお出かけ用の手巾にしたら、すごく素敵じゃない?
満足げだった澄乃の微笑みが、ふと曇る。刺繍台にピンと張っていたときには完璧に思えた花の輪郭が、こうして手で持ってみると何故だかぎこちなく見えた。
布地を目の前に持ってきて左見右見すると、澄乃は唇を尖らせた。
何か気に入らない。何が気に入らないのかわからないが、ともかく気に入らなかった。
「……もっとよく、見てみましょう」
澄乃は独りごちると、沓脱石に置かれた小さな草履を突っかけて庭に出た。
菫は石灯籠の陰に群落を作って咲いていた。着物の裾を押さえてしゃがみ、顔を近づけてしげしげと観察する。花びらの形や重なり具合、葉っぱのつき方。
細かく観察してみると、自分が刺していたのはこうして実際に咲いている花ではなく、ただ頭の中で漠然と思い描いた『菫らしき花』にすぎなかったのだと合点がいった。
紙を持ってきて写生しようと、立ち上がりかけたところで、ふと人影が目に入った。家の庭に、知らない人がいる。驚いた拍子に草履が滑って、澄乃は後ろへひっくり返りそうになった。
誰かが慌てて腕を差し伸べ、背中を抱き留める。慎重に身体を起こされ、澄乃は目をぱちくりさせた。目の前に立っていたのは、十二歳くらいの少年だった。
鉄紺の着物に細縞の袴、上等な羽織を着ている。ただ、髪はずいぶんと短く刈られていた。切れ長の瞳は利発というよりも、その年頃の少年にしてはずいぶん鋭く見えた。しゃんと伸びた背筋。すごく姿勢がいい。
服装からして良家の子弟のようだが、まったく見覚えはない。
「ごめんなさい。驚かせた」
伏目がちに少年が詫びる。澄乃は目を瞬くと、急いで首を振った。
「だ、大丈夫です」
「何を、見ているのかと思って……」
呟いた少年は、石灯籠の足元に咲く菫に気付いて、「ああ」という顔をした。
「菫が好きなんだ」
「好き……ですけど、写生をしようかと、思って」
「写生?」
首を傾げる少年に、澄乃は手に持ったままだった端裂を示した。
「これ。なんだか変でしょう?」
少年は眉をひそめた。ずいぶんと大人びたしぐさに思える。
「変……には見えないけど。この刺繍は、きみが?」
なんだか急に恥ずかしくなってうつむいた澄乃は、少年が掌の端を擦り剥いていることに気付いた。
「怪我してる!」
「……ああ、そこの灯籠でこすったんだな。たいしたことない」
少年が背後に隠そうとした手を、反射的に澄乃は掴んだ。そしてうっすらと血のにじんだ擦り傷に、一瞬のためらいもなく端裂を押しつけた。
仰天したのは少年だった。
「やめろ、汚れる」
「いいの。ただの練習だし……下手だから」
ぎゅっ、と端裂を押しつける。白い絹地に血が吸われていく。少年は申し訳なさそうに眉尻を垂れた。
「こんな、綺麗なものを」
「綺麗じゃないわ。全然だめだもの」
「洗って返す」
「差し上げます。捨ててください」
少しだけ語気を強めて言い切ると、少年はかすかに目を瞠った。そこへ、佐和の声が座敷のほうから響いてきた。
「澄乃様、どこにおられますか。奥様がお呼びでございますよ」
「はーい。いま参ります」
澄乃は伸び上がるようにして返事をすると、少年にぺこりと頭を下げてそそくさとその場を離れた。なんだかとても照れくさかった。
*
少年は、小走りに去ってゆく少女の後ろ姿を黙って見つめた。掌から端裂が滑り落ちそうになるのを、慌てて押さえる。
「……どこが、下手なんだ?」
少年は眉根を寄せて呟いた。
じゅうぶん上手じゃないか。あんな年の女の子が刺したとは到底思えない。それを、ためらいもなく擦り傷に押しつけて。練習だから、捨てていい……なんて。
すみのさま──と誰かが呼んでいた。たぶん、ここの主の娘なのだろう。かわいらしく上品な着物と帯が、とても似合っていた。
少年の心の中で、「すみの」という名の少女と、可憐な菫の花が、自然と重なった。
「──朔也。お暇するぞ。おーい、どこにいるんだ」
父の声が呼んでいる。少年は端裂をきちんとたたみ、丁寧に懐にしまうと無言で踵を返した。
そこへ着物姿の少女が座敷から出て来て、小さな手に持った手巾ほどの大きさの布を光にかざした。白い正絹の端裂で、三輪の菫が刺繍されている。
薄紫の花びらと緑の葉、茎。それぞれに色調の異なる糸で濃淡を表した。今までで一番いい出来だ。お母様も佐和も、きっと褒めてくれる。佐和なんかニコニコしながらこんなふうに言うはずだ。
『澄乃様はまだ六つなのに、なんてお上手なんでしょうねぇ』
べた褒めされたら胸を張ってこう言い返そう。
『まぁ、ばあやったら。わたし、もうすぐ七つよ』
想像しただけで笑みがこぼれ、ますます上機嫌になる。
近頃は西洋から伝わった刺繍が手軽でハイカラなお稽古ごととして流行り始めているらしい。けれど澄乃が母から教わっているのは、刺繍台に布を張って両手で針を刺す昔ながらの日本刺繍だ。
まだ幼い澄乃は小さな布を張れる台を作ってもらい、そこに伝統的な文様を刺して熱心に練習していた。そんなとき、ふと庭先でひっそり咲いていた菫に目が留まり、これを刺してみようと思いついた。
勢いのままに刺した菫はなかなか良い出来に見えた。端をかがってお出かけ用の手巾にしたら、すごく素敵じゃない?
満足げだった澄乃の微笑みが、ふと曇る。刺繍台にピンと張っていたときには完璧に思えた花の輪郭が、こうして手で持ってみると何故だかぎこちなく見えた。
布地を目の前に持ってきて左見右見すると、澄乃は唇を尖らせた。
何か気に入らない。何が気に入らないのかわからないが、ともかく気に入らなかった。
「……もっとよく、見てみましょう」
澄乃は独りごちると、沓脱石に置かれた小さな草履を突っかけて庭に出た。
菫は石灯籠の陰に群落を作って咲いていた。着物の裾を押さえてしゃがみ、顔を近づけてしげしげと観察する。花びらの形や重なり具合、葉っぱのつき方。
細かく観察してみると、自分が刺していたのはこうして実際に咲いている花ではなく、ただ頭の中で漠然と思い描いた『菫らしき花』にすぎなかったのだと合点がいった。
紙を持ってきて写生しようと、立ち上がりかけたところで、ふと人影が目に入った。家の庭に、知らない人がいる。驚いた拍子に草履が滑って、澄乃は後ろへひっくり返りそうになった。
誰かが慌てて腕を差し伸べ、背中を抱き留める。慎重に身体を起こされ、澄乃は目をぱちくりさせた。目の前に立っていたのは、十二歳くらいの少年だった。
鉄紺の着物に細縞の袴、上等な羽織を着ている。ただ、髪はずいぶんと短く刈られていた。切れ長の瞳は利発というよりも、その年頃の少年にしてはずいぶん鋭く見えた。しゃんと伸びた背筋。すごく姿勢がいい。
服装からして良家の子弟のようだが、まったく見覚えはない。
「ごめんなさい。驚かせた」
伏目がちに少年が詫びる。澄乃は目を瞬くと、急いで首を振った。
「だ、大丈夫です」
「何を、見ているのかと思って……」
呟いた少年は、石灯籠の足元に咲く菫に気付いて、「ああ」という顔をした。
「菫が好きなんだ」
「好き……ですけど、写生をしようかと、思って」
「写生?」
首を傾げる少年に、澄乃は手に持ったままだった端裂を示した。
「これ。なんだか変でしょう?」
少年は眉をひそめた。ずいぶんと大人びたしぐさに思える。
「変……には見えないけど。この刺繍は、きみが?」
なんだか急に恥ずかしくなってうつむいた澄乃は、少年が掌の端を擦り剥いていることに気付いた。
「怪我してる!」
「……ああ、そこの灯籠でこすったんだな。たいしたことない」
少年が背後に隠そうとした手を、反射的に澄乃は掴んだ。そしてうっすらと血のにじんだ擦り傷に、一瞬のためらいもなく端裂を押しつけた。
仰天したのは少年だった。
「やめろ、汚れる」
「いいの。ただの練習だし……下手だから」
ぎゅっ、と端裂を押しつける。白い絹地に血が吸われていく。少年は申し訳なさそうに眉尻を垂れた。
「こんな、綺麗なものを」
「綺麗じゃないわ。全然だめだもの」
「洗って返す」
「差し上げます。捨ててください」
少しだけ語気を強めて言い切ると、少年はかすかに目を瞠った。そこへ、佐和の声が座敷のほうから響いてきた。
「澄乃様、どこにおられますか。奥様がお呼びでございますよ」
「はーい。いま参ります」
澄乃は伸び上がるようにして返事をすると、少年にぺこりと頭を下げてそそくさとその場を離れた。なんだかとても照れくさかった。
*
少年は、小走りに去ってゆく少女の後ろ姿を黙って見つめた。掌から端裂が滑り落ちそうになるのを、慌てて押さえる。
「……どこが、下手なんだ?」
少年は眉根を寄せて呟いた。
じゅうぶん上手じゃないか。あんな年の女の子が刺したとは到底思えない。それを、ためらいもなく擦り傷に押しつけて。練習だから、捨てていい……なんて。
すみのさま──と誰かが呼んでいた。たぶん、ここの主の娘なのだろう。かわいらしく上品な着物と帯が、とても似合っていた。
少年の心の中で、「すみの」という名の少女と、可憐な菫の花が、自然と重なった。
「──朔也。お暇するぞ。おーい、どこにいるんだ」
父の声が呼んでいる。少年は端裂をきちんとたたみ、丁寧に懐にしまうと無言で踵を返した。
