「好きだ、付き合ってくれ!」
夕陽に照らし出された、ひとけのない文芸部の部室。
目の前の男からド直球で発された言葉に、俺は無意識のうちに、心の中の赤鉛筆を握りしめた。
待て。
まず、落ち着け。
これは現実だ。
BL漫画の冒頭じゃない。
こんなとき——どんな言葉で断れば、昨今の価値基準に抵触せず、目の前の男を傷つけずに済むのだろう。
ずり落ちかけた眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、俺は必死で平静を装った。
先日も、BL好きの女子部員から聞かれたばかりだった。
「『俺は男が好きなんじゃない。お前が好きなんだ』って告白、同性愛者差別に当たると思いますか?」
そんな話題の盛大な学級会が、SNS上で勃発していたらしい。
幼い頃から、こっそり母のBLコレクションを愛読し続けている俺は、思わず「いや、実際の商業BLには、今どきそんなセリフ、ほぼ見かけなくないか? 編集者や校正者から盛大な赤字が入るだろ!」とツッコミそうになって、必死で堪えた。
周囲にBL好きであることが発覚すれば、即、同性愛者だと決めつけられる。
それを避けるためにも、絶対に内緒にしておくべきなのだ。
なのに。
「好きだ。ずっと好きだった」
目の前の市谷瑛斗は、逃げ場のないほど真剣な顔で、もう一度そう言った。
市谷が、一歩近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待て」
「悪い。でも、今、近づかないと逃げられる気がして」
伸びかけた手が、俺の肩に触れる寸前で止まる。
市谷はそこで、ぎゅっと拳を握った。
触れたい。
でも、触れたら駄目だ。
そんな葛藤が、整いすぎた顔面に思いっきり現れている。
……大型犬か。
いや、駄目だ。
ここで「わんこ攻め」などという単語を脳内に思い浮かべている場合ではない。
「了承を得てもいない相手に触るな」
「……だよな。ごめん」
市谷は素直に一歩下がった。
下がった。
下がったのだが……。
「近い」
「ごめん」
「謝るなら、もう一歩離れろ」
「……わかった」
しゅん、と肩を落とす姿に、存在しない犬耳が垂れた気がした。
「そもそも、ひとつ聞きたいのだが——俺のどこに、好きになる要素が……? 何かの罰ゲームか?」
目の前でしょんぼりと項垂れる男は、身長百八十四センチの俺よりわずかに背が高い。
しかも、三次元の男の容姿に興味がない俺でさえ名前を覚えてしまうほど、ずば抜けて顔がいい。
入学してまだ二ヶ月足らず。
それなのに、学年どころか学校中の女子から羨望を集め、あっという間に『学校一のモテ男』の座をかっさらった一年生。
市谷瑛斗。
ずり落ちたメガネを直しながら、改めてその顔を一瞥する。
……顔面が、強い。
男の容姿の大半は、体型と髪型で決まる。
スタイルがよくて髪さえそれらしければ、だいたいそれっぽく見える。
それが俺の持論だった。
なのに市谷は、その持論を真正面から殴ってくる。
雑に短く刈られた髪。
飾り気のない制服。
それでも誤魔化しようがない、目鼻立ちの整い方。
いいか。
BL好きの心に刺さる短髪男を美形に描ける絵師は、とてつもなく希少なんだ。
それを三次元で成立させるな。
反則だろ。
市谷はじっと俺を見つめると、悲しそうに眉を下げた。
「もしかして、覚えてないのか……?」
「は……?」
市谷の黒目がちな瞳が、みるみるうちに潤んでゆく。
「学童で一緒だった。——いつも俺の宿題、見てくれてただろ?」
「……学童?」
頭の中から、古い記憶を引っ張り出す。
騒がしい室内。
プリントの山。
宿題が終わらなくて、いつも最後まで残っていた、小柄な男子の姿。
「……あ」
思い出した。
文字を読むのが、ひどく苦手な子がいた。
問題文をシャーペンでなぞっているのに、途中で何度も止まる。
漢字が読めないわけじゃない。
意味がわからないわけでもない。
ただ、紙の上の文字だけが、うまく頭に入っていかないように見えた。
「俺、ずっと馬鹿なんだと思ってた」
市谷は、泣きそうな顔で笑った。
「でも、お前が言ったんだ。読めないなら、スマホに読ませればいいって」
その瞬間、記憶の中の俺が、古いスマホを机の上に置いた。
プリントを撮影して、文字に変換する。
変換した文章を、音声で読み上げさせる。
ただそれだけのことだった。
俺にとっては。
「お前のおかげで、初めて宿題ができた」
市谷の声が、少し震えた。
「初めて、俺にもできるって思えた。あのときのこと、今でもめちゃくちゃはっきり覚えてる」
まっすぐ見つめられ、目の前のモテ男と、いつも泣きべそをかいていた小柄な少年を重ね合わせようとする。
黒目がちな濡れた瞳だけは、ほんの少し、重なるようにも思える。
だけど——あまりにも印象が違いすぎて、ちょっと変な感じだ。
そもそも、俺だって、別人だよな?
きっと、全然似ていないはずだ。
あの頃は確か、俺はまだ眼鏡をかけていなかった。
「でも、お前、よく俺のこと見つけたな。苗字、知ってたのか?」
「知らなかった」
「は?」
「学童の奴らが呼んでた名前しか覚えてなくて。だから、この学校に入ってから、ずっと探してた」
「探してたって……」
「部活忙しいから、なかなか見つけられなかったんだけど。ひたすら校内探し回って。手当たり次第に、『背が高くてゆうくん』って呼ばれてる男子、知りませんかって聞いて……」
「手がかりが雑すぎるだろ」
「でも、見つけた」
市谷は、泣きそうなほど嬉しそうに笑った。
「やっと見つけた」
その笑顔が眩しすぎて、直視しているのが辛い。
だからと言って、目を逸らしたら失礼な気がして。
俺は金縛りに遭ったみたいに、ただ、その場に直立し続けるしかなかった。
「俺、あのあとすぐ、転校することになって。ずっと、お礼、言いたいのに言えないまま、遠くに引っ越して……。中二の夏休みに、ようやく小遣いが溜まって、あの学童に行ったんだ」
市谷は真剣な眼差しで俺を見つめると、一歩、大きく前に踏み出してきた。
せっかくできたプライベートスペースが、完全に侵食されてしまう。
「近い」
「あ、ごめん」
市谷は慌てて半歩下がった。
半歩。
いや、だからまだ近いって。
「それで、学童の先生に聞いた。昔一緒だった“ゆうくん”に、どうしてもお礼が言いたいって。でも、連絡先は教えてもらえなくて」
「まあ、そりゃそうだろうな」
「ただ、そのとき偶然、昔学童にいた女子と会ってさ。そいつが教えてくれたんだ。“ゆうくん”ならこの高校を受けるらしいって」
市谷は、照れくさそうに笑った。
「ああ、ここに来れば、いつか会えるかもしれないって思った」
「それで、この学校を受けたのか?」
「うん。でも、なんの理由もなく県外の学校を受けたいなんて、親に言っても無理でさ」
「ちなみに……お前、どこに引っ越したんだ?」
「福岡」
「福岡!?」
福岡から神奈川。
たかが礼を言うために、そこまで人生の進路を変えるか……?
「だから、死ぬほどサッカー頑張って、特待でこの学校に入ったんだ」
「は!? たかが礼を言うために!?」
「たかがじゃない」
市谷は、きっぱりと言った。
「あのときの俺には、それくらい大事なことだった」
その言葉に、心臓が妙な音を立てた。
「やっと見つかったのが嬉しすぎて。お礼言うつもりが、つい。好きな気持ちが溢れすぎて……」
いや。溢れるな。
そもそも——それは勘違いじゃないのか?
勝手に俺に恩を感じて。
それが拗れすぎて、愛情と勘違いしているだけじゃないのか?
「市谷」
「うん」
「お前のそれは、恋じゃなくて恩だ」
きっぱり告げると、市谷は、ぱちぱちと瞬きをした。
まつ毛、無駄に長いな。
絵師に描かせたら確実に「盛りすぎ」と言われるレベルだ。
いや、そんなことを観察してる場合じゃないんだけど。
「恩?」
「そうだ。子どもの頃に救ってくれた相手を、必要以上に美化しているだけだ。命の恩人を好きになるヒロインと同じ、もの凄くベタな錯覚だろ」
「でも、俺はヒロインじゃない」
「そこは今どうでもいい」
思わず即答してしまった。
「とにかく、お前は俺を思い出補正で盛り過ぎてる。今のお前が好きなのは、現実の俺じゃない。過去の“ゆうくん”だ」
市谷は少しだけ考え込むように黙った。
そして、真剣な顔で言った。
「じゃあ、今のゆうくんのことも、これから好きになればいい?」
夕陽に照らし出された、ひとけのない文芸部の部室。
目の前の男からド直球で発された言葉に、俺は無意識のうちに、心の中の赤鉛筆を握りしめた。
待て。
まず、落ち着け。
これは現実だ。
BL漫画の冒頭じゃない。
こんなとき——どんな言葉で断れば、昨今の価値基準に抵触せず、目の前の男を傷つけずに済むのだろう。
ずり落ちかけた眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、俺は必死で平静を装った。
先日も、BL好きの女子部員から聞かれたばかりだった。
「『俺は男が好きなんじゃない。お前が好きなんだ』って告白、同性愛者差別に当たると思いますか?」
そんな話題の盛大な学級会が、SNS上で勃発していたらしい。
幼い頃から、こっそり母のBLコレクションを愛読し続けている俺は、思わず「いや、実際の商業BLには、今どきそんなセリフ、ほぼ見かけなくないか? 編集者や校正者から盛大な赤字が入るだろ!」とツッコミそうになって、必死で堪えた。
周囲にBL好きであることが発覚すれば、即、同性愛者だと決めつけられる。
それを避けるためにも、絶対に内緒にしておくべきなのだ。
なのに。
「好きだ。ずっと好きだった」
目の前の市谷瑛斗は、逃げ場のないほど真剣な顔で、もう一度そう言った。
市谷が、一歩近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待て」
「悪い。でも、今、近づかないと逃げられる気がして」
伸びかけた手が、俺の肩に触れる寸前で止まる。
市谷はそこで、ぎゅっと拳を握った。
触れたい。
でも、触れたら駄目だ。
そんな葛藤が、整いすぎた顔面に思いっきり現れている。
……大型犬か。
いや、駄目だ。
ここで「わんこ攻め」などという単語を脳内に思い浮かべている場合ではない。
「了承を得てもいない相手に触るな」
「……だよな。ごめん」
市谷は素直に一歩下がった。
下がった。
下がったのだが……。
「近い」
「ごめん」
「謝るなら、もう一歩離れろ」
「……わかった」
しゅん、と肩を落とす姿に、存在しない犬耳が垂れた気がした。
「そもそも、ひとつ聞きたいのだが——俺のどこに、好きになる要素が……? 何かの罰ゲームか?」
目の前でしょんぼりと項垂れる男は、身長百八十四センチの俺よりわずかに背が高い。
しかも、三次元の男の容姿に興味がない俺でさえ名前を覚えてしまうほど、ずば抜けて顔がいい。
入学してまだ二ヶ月足らず。
それなのに、学年どころか学校中の女子から羨望を集め、あっという間に『学校一のモテ男』の座をかっさらった一年生。
市谷瑛斗。
ずり落ちたメガネを直しながら、改めてその顔を一瞥する。
……顔面が、強い。
男の容姿の大半は、体型と髪型で決まる。
スタイルがよくて髪さえそれらしければ、だいたいそれっぽく見える。
それが俺の持論だった。
なのに市谷は、その持論を真正面から殴ってくる。
雑に短く刈られた髪。
飾り気のない制服。
それでも誤魔化しようがない、目鼻立ちの整い方。
いいか。
BL好きの心に刺さる短髪男を美形に描ける絵師は、とてつもなく希少なんだ。
それを三次元で成立させるな。
反則だろ。
市谷はじっと俺を見つめると、悲しそうに眉を下げた。
「もしかして、覚えてないのか……?」
「は……?」
市谷の黒目がちな瞳が、みるみるうちに潤んでゆく。
「学童で一緒だった。——いつも俺の宿題、見てくれてただろ?」
「……学童?」
頭の中から、古い記憶を引っ張り出す。
騒がしい室内。
プリントの山。
宿題が終わらなくて、いつも最後まで残っていた、小柄な男子の姿。
「……あ」
思い出した。
文字を読むのが、ひどく苦手な子がいた。
問題文をシャーペンでなぞっているのに、途中で何度も止まる。
漢字が読めないわけじゃない。
意味がわからないわけでもない。
ただ、紙の上の文字だけが、うまく頭に入っていかないように見えた。
「俺、ずっと馬鹿なんだと思ってた」
市谷は、泣きそうな顔で笑った。
「でも、お前が言ったんだ。読めないなら、スマホに読ませればいいって」
その瞬間、記憶の中の俺が、古いスマホを机の上に置いた。
プリントを撮影して、文字に変換する。
変換した文章を、音声で読み上げさせる。
ただそれだけのことだった。
俺にとっては。
「お前のおかげで、初めて宿題ができた」
市谷の声が、少し震えた。
「初めて、俺にもできるって思えた。あのときのこと、今でもめちゃくちゃはっきり覚えてる」
まっすぐ見つめられ、目の前のモテ男と、いつも泣きべそをかいていた小柄な少年を重ね合わせようとする。
黒目がちな濡れた瞳だけは、ほんの少し、重なるようにも思える。
だけど——あまりにも印象が違いすぎて、ちょっと変な感じだ。
そもそも、俺だって、別人だよな?
きっと、全然似ていないはずだ。
あの頃は確か、俺はまだ眼鏡をかけていなかった。
「でも、お前、よく俺のこと見つけたな。苗字、知ってたのか?」
「知らなかった」
「は?」
「学童の奴らが呼んでた名前しか覚えてなくて。だから、この学校に入ってから、ずっと探してた」
「探してたって……」
「部活忙しいから、なかなか見つけられなかったんだけど。ひたすら校内探し回って。手当たり次第に、『背が高くてゆうくん』って呼ばれてる男子、知りませんかって聞いて……」
「手がかりが雑すぎるだろ」
「でも、見つけた」
市谷は、泣きそうなほど嬉しそうに笑った。
「やっと見つけた」
その笑顔が眩しすぎて、直視しているのが辛い。
だからと言って、目を逸らしたら失礼な気がして。
俺は金縛りに遭ったみたいに、ただ、その場に直立し続けるしかなかった。
「俺、あのあとすぐ、転校することになって。ずっと、お礼、言いたいのに言えないまま、遠くに引っ越して……。中二の夏休みに、ようやく小遣いが溜まって、あの学童に行ったんだ」
市谷は真剣な眼差しで俺を見つめると、一歩、大きく前に踏み出してきた。
せっかくできたプライベートスペースが、完全に侵食されてしまう。
「近い」
「あ、ごめん」
市谷は慌てて半歩下がった。
半歩。
いや、だからまだ近いって。
「それで、学童の先生に聞いた。昔一緒だった“ゆうくん”に、どうしてもお礼が言いたいって。でも、連絡先は教えてもらえなくて」
「まあ、そりゃそうだろうな」
「ただ、そのとき偶然、昔学童にいた女子と会ってさ。そいつが教えてくれたんだ。“ゆうくん”ならこの高校を受けるらしいって」
市谷は、照れくさそうに笑った。
「ああ、ここに来れば、いつか会えるかもしれないって思った」
「それで、この学校を受けたのか?」
「うん。でも、なんの理由もなく県外の学校を受けたいなんて、親に言っても無理でさ」
「ちなみに……お前、どこに引っ越したんだ?」
「福岡」
「福岡!?」
福岡から神奈川。
たかが礼を言うために、そこまで人生の進路を変えるか……?
「だから、死ぬほどサッカー頑張って、特待でこの学校に入ったんだ」
「は!? たかが礼を言うために!?」
「たかがじゃない」
市谷は、きっぱりと言った。
「あのときの俺には、それくらい大事なことだった」
その言葉に、心臓が妙な音を立てた。
「やっと見つかったのが嬉しすぎて。お礼言うつもりが、つい。好きな気持ちが溢れすぎて……」
いや。溢れるな。
そもそも——それは勘違いじゃないのか?
勝手に俺に恩を感じて。
それが拗れすぎて、愛情と勘違いしているだけじゃないのか?
「市谷」
「うん」
「お前のそれは、恋じゃなくて恩だ」
きっぱり告げると、市谷は、ぱちぱちと瞬きをした。
まつ毛、無駄に長いな。
絵師に描かせたら確実に「盛りすぎ」と言われるレベルだ。
いや、そんなことを観察してる場合じゃないんだけど。
「恩?」
「そうだ。子どもの頃に救ってくれた相手を、必要以上に美化しているだけだ。命の恩人を好きになるヒロインと同じ、もの凄くベタな錯覚だろ」
「でも、俺はヒロインじゃない」
「そこは今どうでもいい」
思わず即答してしまった。
「とにかく、お前は俺を思い出補正で盛り過ぎてる。今のお前が好きなのは、現実の俺じゃない。過去の“ゆうくん”だ」
市谷は少しだけ考え込むように黙った。
そして、真剣な顔で言った。
「じゃあ、今のゆうくんのことも、これから好きになればいい?」

