嘘寝は猫にバレる



 それから週が明けても部活に行く気にはなれなかった。桃田と顔も合わせられないし言葉も交わさない。教室では他人のフリをしていたのだから俺が部室に行かないのなら話さないのは必然的だった。
――ドサッ!
 突如、目の前が塞がれる。俺の席でクラスメイトとくだらない話をしているところに割り込んで音を立てられる。10冊程度のサイズも厚さもバラバラな絵本が俺の机に積み上げられていた。
 そんなことするのは1人しかいない。

「えっと……何?」

 誰のことか知らないフリをして、苦笑いをうかばせ見上げる。やはり桃田だ。
 片手をズボンのポケットに突っ込んだまま重心を傾けて俯くどことなく悲しそうな表情をしているようにも見える。
 ドキリと胸が鳴る。気にかけてくれてるかもしれないという嬉しさより、どことなく恐怖みたいなものだ。悲しそうな中に黒いオーラが幻覚で見えてしまうほど不機嫌に言う。

「もう、いいのか?」

――ここでやめろ。
 教室では怖がられるだけで、おとなしくしている桃田が本性を現したと、クラスメイトが次々に顔を強張らせる。
 騒がしくなる教室。俺の周りを囲っていたクラスメイトは数メートル離れ、コソコソと耳打ちしているのがこちらまで聞こえる。いや、聞こえるように言っているのか。

「ハレくん優しすぎない?」
「桃田にあんなことされて俺だったらキレる自信あるわ……」
「やだー、そんなことしたら逆上して何されるかわかんないよ!」

――桃田はそんな奴じゃない……。

「何々? 絵本?」
「ハレくん読むのー?」

 遠くから見世物を見るようにふざけて笑いながら雑な問いかけが飛んできた。
 普段の俺だったら「あはは」と、否定も肯定もせず言愛想笑い躱すことができるのに、俺のことをよく知りもしない人の問いをなぜか真に受ける。
 俺が「読む」と答えて盛大に笑われたら?
――桃田の好きなものが俺のせいで笑われるのは嫌だなぁ。

「……何言ってんだよ!」

 勢いよく立ち上がり、反発する。

「そんなわけない……だろ」

 いつもみたいに笑えよ。なんで、こんなに息がつまるほど胸の奥が痛い。

――桃田のためだなんて綺麗事だ。自分を守るための“嘘”だ。
 クラスで取り繕っている俺を壊されるのが怖くなった。
 否定はもうしないって。したくないって。絵本を否定しなくても自分自身を否定してきていることに気がついたときには遅かった。
 口を閉じることはできない。

「うん。そんなわけないじゃん? だって俺だよ?」

 「そうだよね〜」と、笑うクラスメイトに俺は全く笑えなかった。俺、今どんな顔してるんだろう。俺を見下げる桃田の顔に靄がかかる。
――あぁ……。好きなのに、好きな人に嫌われることしてる。嫌われて当然だ。
 読み聞かせを『やる』と言ったとき嬉しそうで、センスがあるって言ったのに俺の微妙な反応にも気づいた優しい桃田が好き。
 こんな時に俺は、“嫌われたくない”と心のなかで叫んでる。
――桃田といると一緒にいたいのに、ずっと胸のあたりが痛くて。その解放条件がまったく検討もつかないんだ。

 桃田はたった1冊だけ机に残し、俺の席を後にした。
 残されたのは、『おおかみくん と おはなさん』。俺が読み聞かせのために読んでいた絵本だった。



 放課後になった瞬間、豪快に部室の扉を開ける。

「おい! 桃田!!」
「何?」

 つい先ほどの出来事を忘れたかのように振る舞われる。

「あ、読み聞かせいいから。俺が勝手に頼んだだけだし」
「……は?」
「やらないって言っただろ?」
「言って……」
「『読まない』って俺にはハッキリ聞こえてんだよ!!!!」

 確かに言ったけど、頼んだのは桃田の方だ。
 お互いの自分勝手がぶつかる音がした。

「桃田が勝手にするなら俺も勝手にする。いいよな?」
「勝手にしろ」
「どうせ次の読み手決まってないんだろ?」
「…決まってるよ」

 胸がギュッと掴まれた感覚に顔がこわばる。

「誰?」
「図書委員の赤根さん。中学の頃から知ってる人だし、何事にも直向きなすごく信頼してる人だよ」

 まるで、俺が裏切ったみたいに赤根さんを対照に言う桃田が気に入らない。
――俺だって……ひたむきに努力なんてしてなかったか。
 奥歯を噛み締める。努力を諦めたのに、何も言えない。
 すると教室の扉がゆっくり開いた。

「ここで合ってる?」

 透き通る声のする方に顔を向けると、赤根さんだった。関わりはなかったけど、顔は見たことがある。その赤根さんが華奢な指先が絵本に手を伸ばす。
 「読み聞かせすればいいんだよね?」と、赤根さんが言い、桃田が頷く。何のためらいもなく、読み聞かせを始めた。しかもどことなく俺に向けられている気がした。
赤根さんの読み聞かせは、聞きやすく声の通る声。そして落ち着いていた。
 読み終えると、「どう?」と静かな声で言うと桃田が「いいね」と返す。
――本当に……

「……桃田は赤根さんに読み聞かせてもらいたいのか?」
「さぁ。俺の絵本を読んでくれるなら」

 始めから俺じゃなくてもよかったんだ。
 足の指先に力が入る。

「……俺に聞きたいことねーのか?」
「山程あるけど、今はいい!」

 俺は言い放ち、そのまま帰路についた。
 放課後の高校生で賑わう電車で繰り広げられる楽しげな会話。いつもは何とも思わないのに、今は耳ざわりに聞こえ普段はしないヘッドホンをつける。

――悔しいとか……思って……。
 家の最寄駅に隣接したビルのエスカレターを降る。降った先にある本屋の正面には今月発売の雑誌がズラリと並んでいる。その横を通り抜ける。
 小さくカラフルな椅子と共に背丈の低い本棚が並ぶエリアに早足で向かった。
 すべてがおもちゃの世界の住人を彷彿とさせる。

「棚ひっく……」

 平置きにされている絵本に手を伸ばそうとしても腰を曲げるしかない。
――なんか疲れた。
 腰を下ろして屈むことで、棚と視線を合わせる。すると、子どもが俺へ駆け寄ってきた。

「おにーちゃんも よむ?」
「……っ」

 子どもの素直な疑問に言葉が詰まる。

「ちょっと、お兄さん困ってるじゃない!」
「えー」
「大丈夫ですよ」

 今日1日ずっと息が詰まって苦しかったけど、にこやかに返せたことにホッとする。
 1冊だけ手に取り、腰を上げる。
――レジ行くか。

晴天(サニー)か?」

 ピタリと足が止まる。俺のことを下の名前で呼ぶのは1人しかいなかった。

「な、んで」

 声のする方へ、おそるおそる顔を向ける。
 ずっと東京にいるはずのあの人がこんな地元の本屋にいるなんて考えられない。
 マスクをしていても隠しきれない“芸能人”感。スラッと線の細い身体に、俺と同じセンターパートがよく合う髪は染めずとも明るい色。俺とよく似たアーモンドアイ。そして年相応には見えない若々しい肌に申し訳なさそうな程度の目尻の皴。
 “パパ”と呼ぶ声を抑える。でも紛れもなく血縁関係のある“父”だ。
――なんで、いるんだよ!
 サラリーマンを辞めて俳優になった父。家に帰らないことで幼かった俺と2歳差の兄、5歳差の姉を家に置いたまま東京へ行ってしまった。1番苦労したのは母だろう。
 それでも子供に気を遣ってか、母は1ミリも疲れた姿や愚痴を零す様子を見せなかった。
 いつも考えなしに行動する。反省なんてこの人にないんだ。
 今だって、すぐそこに顔がアップにして映された表紙の雑誌さえあるんだ。ファンに見つかったらどうするつもりだ。
 俺の懸念を他所にヘラヘラとした口調で言う。

「久しぶりに休みが取れて帰ってきたんだー。ただいま」
「あっそ」

 この場から離れたいと、手に持っていた絵本を隠すようにレジに向かう。

「2千400円です」

 財布を取り出そうとしたときだ。トレーに、お金を入れる手が視界に映る。
——まさか
 案の定、父が背後から財布を出していた。

「勝手に……」
「これくらい出させてくれよー」

 正直、高校生の俺にとって大金なことには違いなかった。しかし父に出されたくなかった。
――何も知らない父に。

「絵本か、懐かしいな」
「そう」
「でも絵本なんてどうしたんだ?」
「なんでもいいだろ」

 素っ気ない返事にめげず、話しかけてきた次の言葉は詰まった息を余計詰まらせる。

「こんな時間に帰ってるなんて、晴天は部活に入らないのか?」
「は?……俺に興味もないから何も知らないんだろ!!」

 帰り道ずっと父が持っていた本を奪い、代わりに3千円を手のひらに載せる。
 俺は大股で進んで父と距離を取った。

「待て、晴天! 帰る道は同じだろ?」

 パシリと俺の手首を掴まれる。

「離して」
「無理だよ。晴天が悩んでるのに……」

――誰のせいで!

 振り切って走り出す。
 ただひたすら、全て考えることを風で飛ばしてはくれないかと、走った。まっすぐな大通りを駆け抜ける。神社の前を通り抜けて、信号機も今だと言わんばかりに青に変わる。ひたすら走った。

「はぁ……はぁ……」

 肩で息をして、天を仰ぐ。

「俺のこと知りもしないクセに、みんなしてバカじゃねぇの……」

――みんなじゃない。桃田は違う。
 手に持ったままの絵本に視線をやる。新しい絵本をカバンにしまい、桃田が置いていった方に入れ替えて手に持つ。
 俺は、なんで読み聞かせなどすると言ってしまったのだろうか。
 どうして言ったのか考えても答えは見つからなかった。
 好きなものをキラキラとした目で大切そうに語る桃田を観ていたら、こんなに好きなものがあるのが少し羨ましかったのかもしれない。気づけば、溢れた感情がそのまま出ていってしまった。

『そんなに好きなら――絵本描いてみれば?』

 羨ましさと、多分、怒り。そう。俺の言った言葉は怒りに近かった。
 それなのに、言葉のまま受け取る桃田に胸がチクチクと刺された自分が情けない。幸せそうに語る桃田に嫉妬した。
 家族との思い出を楽しそうに語る桃田にただの八つ当たりをしてしまった。
 桃田のことだから「やるわけない」って否定すると思ったんだ。でも違った。桃田は、初めからずっと自分で書いてみたいと思っていたんだろう。2人しかいない空間で聞き返すなんて、そうじゃないと辻褄が合わない。
 ただただ、桃田にとって俺の言葉は背中を押した前向きな言葉。
 読み聞かせをやめると言ってすぐに次の人を見つけたのは、俺じゃなくてもよかったんじゃない。桃田が常に前向きだっただけだ。

「当然だよな……」

 脱力する腕からするりと、1枚の紙が滑り落ちる。絵本から出てきたのだ。

「……?」

 小テストの紙。その裏に何か書いてあるのか文字が透けている。すかさず裏返した。

《さっくん。連絡先知らないから全部ここに書く……と思ったけど悔しいから内容知りたければ部活来い》

――さっき桃田に含みのある言い方をされたのは、これのことを言っていたのか。
 なんだよ。言いたいことって。俺は用なしじゃないのかよ。桃田の話したいという意思を受け取ることができて安堵感と自分の情けなさが押し寄せその場にしゃがみ込む。

 考えれば考えるほど色んな“好き”と”嫌い”が混じり合って、ぶつかり合う。
 絵本の読み聞かせをしてくれていた家族との時間が好き。
 家族を置いていった父の行動にいつまでも囚われ続けて反発してしまう自分が嫌い。
 真っ直ぐで人の目は気にしない。自分の好きを表現している桃田が好き。
 好きを怖がって、踏みとどまるのを人のせいにし続ける自分が嫌い。
——俺を取り巻く”好き”はたくさんあるのに、時々それが嫉妬に変化してしまう自分がすごく嫌い。

 全部一気に押し寄せるのに、それをいっぺんに解決することはできない。ひとつひとつを考えずとも、今、俺がすべきことはわかっていた。読み聞かせに戻してもらうことだ。