それから週が明けても部活に行く気にはなれなかった。桃田と顔も合わせられないし言葉も交わさない。教室では他人のフリをしていたのだから俺が部室に行かないのなら話さないのは必然的だった。
『ドサッ!』
突如、目の前が塞がれる。俺の席でクラスメイトとくだらない話をしているところに割り込んで音を立てられる。十冊程度のサイズも厚さもバラバラな絵本が俺の机に積み上げられていた。
そんなことするのは一人しかいない。
「えっと……何?」
誰のことか知らないフリをして、苦笑いを浮かばせ見上げる。分かっていた。やはり桃田だ。
片手をズボンのポケットに突っ込んだまま重心を傾けて俯く顔は、どことなく悲しそうな表情をしているようにも見える。
ドキリと胸が鳴る。気にかけてくれてるかもしれないという嬉しさより、恐怖みたいなものを感じ取った。悲しそうな中に黒いオーラが幻覚で見えてしまうほど不機嫌に言う。
「もう、いいのか?」
——ここでやめろ。
教室では怖がられるだけで、おとなしくしている桃田が本性を現したと、クラスメイトが次々に顔を強張らせる。
騒がしくなる教室。俺の周りを囲っていたクラスメイトは数メートル離れ、コソコソと耳打ちしているのがこちらまで聞こえる。いや、聞こえるように言っているのか。
「ハレくん優しすぎない?」
「桃田にあんなことされて俺だったらキレる自信あるわ……」
「やだー、そんなことしたら逆上して何されるかわかんないよ!」
——桃田はそんな奴じゃない……。
「何々? 絵本?」
「ハレくん読むのー?」
遠くから見世物を見るようにふざけて笑いながら雑な問いかけが飛んできた。
普段の俺だったら「あはは」と、否定も肯定もせず言愛想笑いして躱すことができるのに、俺のことをよく知りもしない人の問いをなぜか真に受ける。
俺が「読む」と答えることで、盛大に笑われたら?
——桃田の好きなものが俺のせいで笑われるのは嫌だなぁ。
「……何言ってんだよ!」
勢いよく立ち上がり、反発する。
「そんなわけない……だろ」
いつもみたいに笑えよ。なんで、こんなに息がつまるほど胸の奥が痛い。
——桃田のためだなんて綺麗事だ。自分を守るための“嘘”だ。
クラスで取り繕っている俺を壊されるのが怖くなった。
否定はもうしないって。したくないって。
——俺、自分が思っているより絵本が好きになっていたんだ。そして、頑張れている自分を好きになれそうだった。
絵本を否定しなくても自分自身を否定してきていることに気がついたときには遅かった。
口を閉じることはできない。
「うん。そんなわけないじゃん? だって俺だよ?」
「そうだよね〜」と、笑うクラスメイトに俺は全く笑えなかった。
「桃田とは関わりあんの?」
「え?」
皆が、聞こうとしても触れてはいけないみたいに扱っていた話題に興味をそそられているようだ。
「だって、桃田ヤバいやつだろ」
「違う!」
否定した声は、教室中に響いて、閉じきれない口は震えながら言葉をこぼしてしまう。
「か、関わってない。知ら、ない……」
俺、今どんな顔してるんだろう。俺を見下げる桃田の顔に靄がかかる。
——あぁ……。好きなのに、好きな人に嫌われることしてる。嫌われて当然だ。
読み聞かせを『やる』と言ったとき嬉しそうで、センスがあるって言ったのに俺の微妙な反応にも気づいた優しい桃田が好き。
こんな時に俺は、“嫌われたくない”と心のなかで叫んでる。
——桃田といると一緒にいたいのに、ずっと胸のあたりが痛くて。その解放条件がまったく検討もつかないんだ。
桃田はたった一冊だけ机に残し、俺の席を後にした。
残されたのは、『おおかみくん と おはなさん』。俺が読み聞かせの練習をするために読んでいた絵本だった。
*
放課後になった瞬間、豪快に部室の扉を開ける。
「おい! 桃田!!」
「何?」
つい先ほどの出来事を忘れたかのように振る舞われる。それは俺も同じだ。
「あ、読み聞かせいいから。俺が勝手に頼んだだけだし」
「……は?」
「やらないって言っただろ?」
「言って……」
「『読まない』って俺にはハッキリ聞こえてんだよ!!!!」
声を荒げる桃田に、身体が強張る。
確かに言ったけど、頼んだのは桃田の方だ。
お互いの自分勝手がぶつかる音がした。
「桃田が勝手にするなら俺も勝手にする。いいよな?」
「勝手にしろよ! 俺とは関わってないんだし、どうでもいいだろ」
「あ……」
桃田も言うつもりがなかったらしい。一瞬後悔をした顔をする。
——俺がクラスメイトの前で取り繕っているのは知っているから。
俺、ダサいな……
でももう止まれなかった。
「どうせ次の読み手決まってないんだろ?」
「……決まってるよ」
胸がギュッと掴まれた感覚に声が震える。
「誰?」
「図書委員の赤根さん。中学の頃から知ってる人だし、何事にもひた向きなすごく信頼してる人だよ」
まるで、俺が裏切ったみたいに赤根さんを対照に言う桃田が気に入らない。
——俺だって……ひたむきに努力……なんてしてなかったか。
奥歯を噛み締める。努力を諦めたのに、何も言えない。
すると教室の扉がゆっくり開いた。
「ここで合ってる?」
透き通る声のする方に顔を向けると、赤根さんだった。関わりはなかったけど、顔は見たことがある。その赤根さんが華奢な指先が絵本に手を伸ばした。
「読み聞かせすればいいんだよね?」と、赤根さんが言い、桃田が頷く。何のためらいもなく、読み聞かせを始めた。しかもどことなく俺に向けられている気がした。
赤根さんの読み聞かせは、聞きやすく声の通る声。そして落ち着いていた。
読み終えると、「どう?」と静かな声で言うと桃田が「いいね」と返す。
——本当に……
「……桃田は赤根さんに読み聞かせてもらいたいのか?」
「さぁ。俺の絵本を読んでくれるなら」
始めから俺じゃなくてもよかったんだ。
足の指先に力が入る。
「……俺に聞きたいことねーのか?」
「山程あるけど、今はいい!」
俺は言い放ち、そのまま帰路についた。
放課後の高校生で賑わう電車で繰り広げられる楽しげな会話。いつもは何とも思わないのに、今は耳ざわりに聞こえ普段はしないヘッドホンをつける。
——悔しいとか……思って……
家の最寄駅に隣接したビルのエスカレターを降る。降った先にある本屋の正面には今月発売の雑誌がズラリと並んでいる。その横を通り抜ける。
小さくカラフルな椅子と共に背丈の低い本棚が並ぶエリアに早足で向かった。本のサイズはバラバラで高さが揃えられていない多種な絵本。
すべてがおもちゃの世界の住人を彷彿とさせる。
「棚ひっく……」
平置きにされている絵本に手を伸ばそうとしても腰を曲げるしかない。
——なんか疲れた。
腰を下ろして屈むことで、棚と視線を合わせる。すると、子どもが俺へ駆け寄ってきた。
「おにーちゃんも、よむ?」
「……っ」
子どもの素直な疑問に言葉が詰まる。
「ちょっと、お兄さん困ってるじゃない!」
「えー」
「大丈夫ですよ」
今日一日ずっと息が詰まって苦しかったけど、にこやかに返せたことにホッとする。
目に留まった一冊だけ手に取り、腰を上げる。
——レジ行くか。
「晴天か?」
ピタリと足が止まる。俺のことを下の名前で呼ぶのは一人しかいなかった。
「な、んで」
声のする方へ、おそるおそる顔を向ける。
ずっと東京にいるはずのあの人がこんな地元の本屋にいるなんて考えられない。
マスクをしていても隠しきれない“芸能人”感。スラッと線の細い身体に、俺とよく似たアーモンドアイ。そして年相応には見えない若々しい肌に申し訳程度の目尻の皴。
“パパ”と呼ぶ声を抑える。でも紛れもなく血縁関係のある“父”だ。
——なんで、いるんだよ!
サラリーマンを辞めて俳優になった父。家に帰らないことで幼かった俺と二歳差の兄、五歳差の姉を家に置いたまま東京へ行ってしまった。一番苦労したのは母だろう。
それでも俺たち子どもに気を遣ってか、母は一ミリも疲れた姿や愚痴を零す様子を見せなかった。
いつも考えなしに行動する。反省なんてこの人にないんだ。
今だって、すぐそこに顔がアップにして映された表紙の雑誌さえあるんだ。ファンに見つかったらどうするつもりなんだ!
俺の懸念を他所にヘラヘラとした口調で言う。
「久しぶりに休みが取れて帰ってきたんだー。ただいまー」
「あっそ」
この場から離れたいと、手に持っていた一冊の絵本を隠すようにレジに向かう。
「二千四百円です」
財布を取り出そうとしたときだ。トレーにお金を入れる手が、視界に映る。
——まさか。
案の定、父が背後から財布を出していた。
「勝手に……」
「これくらい出させてくれよー」
正直、高校生の俺にとって大金なことには違いなかった。しかし父に出されたくなかった。
——何も知らない父に。
「絵本か、懐かしいな」
「あっそ」
「でも絵本なんてどうしたんだ?」
「なんでもいいだろ」
家へ向かう途中でも素っ気ない返事にめげず、話しかけてきた次の言葉は詰まった息を余計詰まらせる。
「こんな時間に帰ってるなんて、晴天は部活に入らないのか?」
だから、嫌なんだ。
「は?……俺に興味もないから何も知らないんだろ!!」
帰り道ずっと父が持っていた絵本を奪い、代わりに三千円を手のひらに乗せる。
俺は大股で進んで父と距離を取った。
「待て、晴天! 帰る道は同じだろ?」
パシリと俺の手首を掴まれる。
「離して」
「無理だよ。晴天が悩んでるのに……」
——誰のせいで!
父の手を思い切り振りほどき、走り出す。
ただひたすら、全て考えることを風で飛ばしてはくれないかと、走った。まっすぐな大通りを駆け抜ける。神社の前を通り抜けて、信号機も今だと言わんばかりに青に変わる。ひたすら走った。
「はぁ……はぁ……」
しばらくしたところで急停止した。その反動で肩で息をして、天を仰ぐ。
「俺のこと知りもしないクセに、みんなしてバカじゃねぇの……」
——……みんなじゃない。桃田は違う。
手に持ったままの絵本に視線をやる。新しい絵本をカバンにしまい、桃田が置いていった方に入れ替えた。
俺は、なんで読み聞かせなどすると言ってしまったのだろうか。
どうして言ったのか考えても答えは見つからなかった。
——考えることを放棄し続けていた間に、たくさんの感情がまた積み重なっていたから。
好きなものをキラキラとした目で大切そうに語る桃田を見ていたら、こんなに好きなものがあるのが少し羨ましかったのかもしれない。気づけば、溢れた感情がそのまま出ていってしまった。
『そんなに好きなら——絵本描いてみれば?』
羨ましさと……多分、怒り。そう。俺の言った言葉は、怒りに近かった。桃田に対してではない。
——俺に対してだ。
それなのに、言葉のまま受け取る桃田に胸がチクチクと刺された自分が情けない。
家族との思い出を楽しそうに語る桃田にただの八つ当たりをしてしまった。
好きなモノを好きだと素直に言える桃田に嫉妬した。あんな噂を流されても好きを貫ける桃田。俺ができなかったことだ。俺は自分を隠したことに憤りを感じた。
桃田のことだから「やるわけない」って否定すると思ったんだ。でも違った。
俺は桃田のことを何も知らなかっただけ。桃田は、初めからずっと自分で描いてみたいと思っていたんだろう。
——だって、今の俺なら否定をしないとわかるから。
何よりも二人しかいない空間で、桃田は聞き返してきたんだ。
『誰が描くの?』って。
ただただ、桃田にとって俺の言葉は背中を押した前向きな言葉。
読み聞かせをやめると言ってすぐに次の人を見つけたのは、俺じゃなくてもよかったんじゃない。桃田が常に前向きだっただけだ。
「当然だよな……」
脱力する腕からするりと、一枚の紙が滑り落ちる。絵本から出てきたらしい。
「……なんだ?」
名前の欄に『桃田サトル』と書かれた小テストの紙。その裏に何か書いてあるのか文字が透けている。すかさず裏返した。
《連絡先知らないから全部ここに書く……と思ったけど悔しいから内容知りたければ部活来い》
——さっき桃田に含みのある言い方をされたのは、これのことを言っていたのか。
なんだよ。言いたいことって。
俺は用なしじゃないのかよ。桃田の話したいという意思を受け取ることができて安堵感と自分の情けなさが押し寄せその場にしゃがみ込む。
考えれば考えるほど色んな“好き”と”嫌い”が混じり合って、ぶつかり合う。
絵本の読み聞かせをしてくれていた家族との時間が好き。
家族を置いていった父の行動にいつまでも囚われ続けて反発してしまう自分が嫌い。
真っ直ぐで人の目は気にしない。自分の好きを表現している桃田が好き。
好きを怖がって、踏みとどまるのを人のせいにし続ける自分が嫌い。
——俺を取り巻く“好き”はたくさんあるのに、時々それが嫉妬に変化してしまう自分がすごく嫌い。
全部一気に押し寄せるのに、それをいっぺんに解決することはできない。自分がそんな器用じゃないと、分かっているから。
まず、今、俺がすべきなのは……読み聞かせに戻してもらうことだ。
「そういや、連絡先聞いてねぇのマジで何なんだ……」
スマホを開いても父の連絡が山ほど来ている。
——心配かけてるな。
ここ最近隣にいたから、連絡先とか気にしたことなかったけど、たった今声が聞きたくなった。違うな。関わり出して、部活の時間だけでは足りないんだ。
「好きだ……」
『ドサッ!』
突如、目の前が塞がれる。俺の席でクラスメイトとくだらない話をしているところに割り込んで音を立てられる。十冊程度のサイズも厚さもバラバラな絵本が俺の机に積み上げられていた。
そんなことするのは一人しかいない。
「えっと……何?」
誰のことか知らないフリをして、苦笑いを浮かばせ見上げる。分かっていた。やはり桃田だ。
片手をズボンのポケットに突っ込んだまま重心を傾けて俯く顔は、どことなく悲しそうな表情をしているようにも見える。
ドキリと胸が鳴る。気にかけてくれてるかもしれないという嬉しさより、恐怖みたいなものを感じ取った。悲しそうな中に黒いオーラが幻覚で見えてしまうほど不機嫌に言う。
「もう、いいのか?」
——ここでやめろ。
教室では怖がられるだけで、おとなしくしている桃田が本性を現したと、クラスメイトが次々に顔を強張らせる。
騒がしくなる教室。俺の周りを囲っていたクラスメイトは数メートル離れ、コソコソと耳打ちしているのがこちらまで聞こえる。いや、聞こえるように言っているのか。
「ハレくん優しすぎない?」
「桃田にあんなことされて俺だったらキレる自信あるわ……」
「やだー、そんなことしたら逆上して何されるかわかんないよ!」
——桃田はそんな奴じゃない……。
「何々? 絵本?」
「ハレくん読むのー?」
遠くから見世物を見るようにふざけて笑いながら雑な問いかけが飛んできた。
普段の俺だったら「あはは」と、否定も肯定もせず言愛想笑いして躱すことができるのに、俺のことをよく知りもしない人の問いをなぜか真に受ける。
俺が「読む」と答えることで、盛大に笑われたら?
——桃田の好きなものが俺のせいで笑われるのは嫌だなぁ。
「……何言ってんだよ!」
勢いよく立ち上がり、反発する。
「そんなわけない……だろ」
いつもみたいに笑えよ。なんで、こんなに息がつまるほど胸の奥が痛い。
——桃田のためだなんて綺麗事だ。自分を守るための“嘘”だ。
クラスで取り繕っている俺を壊されるのが怖くなった。
否定はもうしないって。したくないって。
——俺、自分が思っているより絵本が好きになっていたんだ。そして、頑張れている自分を好きになれそうだった。
絵本を否定しなくても自分自身を否定してきていることに気がついたときには遅かった。
口を閉じることはできない。
「うん。そんなわけないじゃん? だって俺だよ?」
「そうだよね〜」と、笑うクラスメイトに俺は全く笑えなかった。
「桃田とは関わりあんの?」
「え?」
皆が、聞こうとしても触れてはいけないみたいに扱っていた話題に興味をそそられているようだ。
「だって、桃田ヤバいやつだろ」
「違う!」
否定した声は、教室中に響いて、閉じきれない口は震えながら言葉をこぼしてしまう。
「か、関わってない。知ら、ない……」
俺、今どんな顔してるんだろう。俺を見下げる桃田の顔に靄がかかる。
——あぁ……。好きなのに、好きな人に嫌われることしてる。嫌われて当然だ。
読み聞かせを『やる』と言ったとき嬉しそうで、センスがあるって言ったのに俺の微妙な反応にも気づいた優しい桃田が好き。
こんな時に俺は、“嫌われたくない”と心のなかで叫んでる。
——桃田といると一緒にいたいのに、ずっと胸のあたりが痛くて。その解放条件がまったく検討もつかないんだ。
桃田はたった一冊だけ机に残し、俺の席を後にした。
残されたのは、『おおかみくん と おはなさん』。俺が読み聞かせの練習をするために読んでいた絵本だった。
*
放課後になった瞬間、豪快に部室の扉を開ける。
「おい! 桃田!!」
「何?」
つい先ほどの出来事を忘れたかのように振る舞われる。それは俺も同じだ。
「あ、読み聞かせいいから。俺が勝手に頼んだだけだし」
「……は?」
「やらないって言っただろ?」
「言って……」
「『読まない』って俺にはハッキリ聞こえてんだよ!!!!」
声を荒げる桃田に、身体が強張る。
確かに言ったけど、頼んだのは桃田の方だ。
お互いの自分勝手がぶつかる音がした。
「桃田が勝手にするなら俺も勝手にする。いいよな?」
「勝手にしろよ! 俺とは関わってないんだし、どうでもいいだろ」
「あ……」
桃田も言うつもりがなかったらしい。一瞬後悔をした顔をする。
——俺がクラスメイトの前で取り繕っているのは知っているから。
俺、ダサいな……
でももう止まれなかった。
「どうせ次の読み手決まってないんだろ?」
「……決まってるよ」
胸がギュッと掴まれた感覚に声が震える。
「誰?」
「図書委員の赤根さん。中学の頃から知ってる人だし、何事にもひた向きなすごく信頼してる人だよ」
まるで、俺が裏切ったみたいに赤根さんを対照に言う桃田が気に入らない。
——俺だって……ひたむきに努力……なんてしてなかったか。
奥歯を噛み締める。努力を諦めたのに、何も言えない。
すると教室の扉がゆっくり開いた。
「ここで合ってる?」
透き通る声のする方に顔を向けると、赤根さんだった。関わりはなかったけど、顔は見たことがある。その赤根さんが華奢な指先が絵本に手を伸ばした。
「読み聞かせすればいいんだよね?」と、赤根さんが言い、桃田が頷く。何のためらいもなく、読み聞かせを始めた。しかもどことなく俺に向けられている気がした。
赤根さんの読み聞かせは、聞きやすく声の通る声。そして落ち着いていた。
読み終えると、「どう?」と静かな声で言うと桃田が「いいね」と返す。
——本当に……
「……桃田は赤根さんに読み聞かせてもらいたいのか?」
「さぁ。俺の絵本を読んでくれるなら」
始めから俺じゃなくてもよかったんだ。
足の指先に力が入る。
「……俺に聞きたいことねーのか?」
「山程あるけど、今はいい!」
俺は言い放ち、そのまま帰路についた。
放課後の高校生で賑わう電車で繰り広げられる楽しげな会話。いつもは何とも思わないのに、今は耳ざわりに聞こえ普段はしないヘッドホンをつける。
——悔しいとか……思って……
家の最寄駅に隣接したビルのエスカレターを降る。降った先にある本屋の正面には今月発売の雑誌がズラリと並んでいる。その横を通り抜ける。
小さくカラフルな椅子と共に背丈の低い本棚が並ぶエリアに早足で向かった。本のサイズはバラバラで高さが揃えられていない多種な絵本。
すべてがおもちゃの世界の住人を彷彿とさせる。
「棚ひっく……」
平置きにされている絵本に手を伸ばそうとしても腰を曲げるしかない。
——なんか疲れた。
腰を下ろして屈むことで、棚と視線を合わせる。すると、子どもが俺へ駆け寄ってきた。
「おにーちゃんも、よむ?」
「……っ」
子どもの素直な疑問に言葉が詰まる。
「ちょっと、お兄さん困ってるじゃない!」
「えー」
「大丈夫ですよ」
今日一日ずっと息が詰まって苦しかったけど、にこやかに返せたことにホッとする。
目に留まった一冊だけ手に取り、腰を上げる。
——レジ行くか。
「晴天か?」
ピタリと足が止まる。俺のことを下の名前で呼ぶのは一人しかいなかった。
「な、んで」
声のする方へ、おそるおそる顔を向ける。
ずっと東京にいるはずのあの人がこんな地元の本屋にいるなんて考えられない。
マスクをしていても隠しきれない“芸能人”感。スラッと線の細い身体に、俺とよく似たアーモンドアイ。そして年相応には見えない若々しい肌に申し訳程度の目尻の皴。
“パパ”と呼ぶ声を抑える。でも紛れもなく血縁関係のある“父”だ。
——なんで、いるんだよ!
サラリーマンを辞めて俳優になった父。家に帰らないことで幼かった俺と二歳差の兄、五歳差の姉を家に置いたまま東京へ行ってしまった。一番苦労したのは母だろう。
それでも俺たち子どもに気を遣ってか、母は一ミリも疲れた姿や愚痴を零す様子を見せなかった。
いつも考えなしに行動する。反省なんてこの人にないんだ。
今だって、すぐそこに顔がアップにして映された表紙の雑誌さえあるんだ。ファンに見つかったらどうするつもりなんだ!
俺の懸念を他所にヘラヘラとした口調で言う。
「久しぶりに休みが取れて帰ってきたんだー。ただいまー」
「あっそ」
この場から離れたいと、手に持っていた一冊の絵本を隠すようにレジに向かう。
「二千四百円です」
財布を取り出そうとしたときだ。トレーにお金を入れる手が、視界に映る。
——まさか。
案の定、父が背後から財布を出していた。
「勝手に……」
「これくらい出させてくれよー」
正直、高校生の俺にとって大金なことには違いなかった。しかし父に出されたくなかった。
——何も知らない父に。
「絵本か、懐かしいな」
「あっそ」
「でも絵本なんてどうしたんだ?」
「なんでもいいだろ」
家へ向かう途中でも素っ気ない返事にめげず、話しかけてきた次の言葉は詰まった息を余計詰まらせる。
「こんな時間に帰ってるなんて、晴天は部活に入らないのか?」
だから、嫌なんだ。
「は?……俺に興味もないから何も知らないんだろ!!」
帰り道ずっと父が持っていた絵本を奪い、代わりに三千円を手のひらに乗せる。
俺は大股で進んで父と距離を取った。
「待て、晴天! 帰る道は同じだろ?」
パシリと俺の手首を掴まれる。
「離して」
「無理だよ。晴天が悩んでるのに……」
——誰のせいで!
父の手を思い切り振りほどき、走り出す。
ただひたすら、全て考えることを風で飛ばしてはくれないかと、走った。まっすぐな大通りを駆け抜ける。神社の前を通り抜けて、信号機も今だと言わんばかりに青に変わる。ひたすら走った。
「はぁ……はぁ……」
しばらくしたところで急停止した。その反動で肩で息をして、天を仰ぐ。
「俺のこと知りもしないクセに、みんなしてバカじゃねぇの……」
——……みんなじゃない。桃田は違う。
手に持ったままの絵本に視線をやる。新しい絵本をカバンにしまい、桃田が置いていった方に入れ替えた。
俺は、なんで読み聞かせなどすると言ってしまったのだろうか。
どうして言ったのか考えても答えは見つからなかった。
——考えることを放棄し続けていた間に、たくさんの感情がまた積み重なっていたから。
好きなものをキラキラとした目で大切そうに語る桃田を見ていたら、こんなに好きなものがあるのが少し羨ましかったのかもしれない。気づけば、溢れた感情がそのまま出ていってしまった。
『そんなに好きなら——絵本描いてみれば?』
羨ましさと……多分、怒り。そう。俺の言った言葉は、怒りに近かった。桃田に対してではない。
——俺に対してだ。
それなのに、言葉のまま受け取る桃田に胸がチクチクと刺された自分が情けない。
家族との思い出を楽しそうに語る桃田にただの八つ当たりをしてしまった。
好きなモノを好きだと素直に言える桃田に嫉妬した。あんな噂を流されても好きを貫ける桃田。俺ができなかったことだ。俺は自分を隠したことに憤りを感じた。
桃田のことだから「やるわけない」って否定すると思ったんだ。でも違った。
俺は桃田のことを何も知らなかっただけ。桃田は、初めからずっと自分で描いてみたいと思っていたんだろう。
——だって、今の俺なら否定をしないとわかるから。
何よりも二人しかいない空間で、桃田は聞き返してきたんだ。
『誰が描くの?』って。
ただただ、桃田にとって俺の言葉は背中を押した前向きな言葉。
読み聞かせをやめると言ってすぐに次の人を見つけたのは、俺じゃなくてもよかったんじゃない。桃田が常に前向きだっただけだ。
「当然だよな……」
脱力する腕からするりと、一枚の紙が滑り落ちる。絵本から出てきたらしい。
「……なんだ?」
名前の欄に『桃田サトル』と書かれた小テストの紙。その裏に何か書いてあるのか文字が透けている。すかさず裏返した。
《連絡先知らないから全部ここに書く……と思ったけど悔しいから内容知りたければ部活来い》
——さっき桃田に含みのある言い方をされたのは、これのことを言っていたのか。
なんだよ。言いたいことって。
俺は用なしじゃないのかよ。桃田の話したいという意思を受け取ることができて安堵感と自分の情けなさが押し寄せその場にしゃがみ込む。
考えれば考えるほど色んな“好き”と”嫌い”が混じり合って、ぶつかり合う。
絵本の読み聞かせをしてくれていた家族との時間が好き。
家族を置いていった父の行動にいつまでも囚われ続けて反発してしまう自分が嫌い。
真っ直ぐで人の目は気にしない。自分の好きを表現している桃田が好き。
好きを怖がって、踏みとどまるのを人のせいにし続ける自分が嫌い。
——俺を取り巻く“好き”はたくさんあるのに、時々それが嫉妬に変化してしまう自分がすごく嫌い。
全部一気に押し寄せるのに、それをいっぺんに解決することはできない。自分がそんな器用じゃないと、分かっているから。
まず、今、俺がすべきなのは……読み聞かせに戻してもらうことだ。
「そういや、連絡先聞いてねぇのマジで何なんだ……」
スマホを開いても父の連絡が山ほど来ている。
——心配かけてるな。
ここ最近隣にいたから、連絡先とか気にしたことなかったけど、たった今声が聞きたくなった。違うな。関わり出して、部活の時間だけでは足りないんだ。
「好きだ……」



