2月も後半に入り、発表が近づく。
桃田はすでに印刷所に原稿の提出をしたらしく、俺の読み聞かせ練習を聞いていただけになっていた。
まさか、しっかりと絵本にするとも思っていなかったので”印刷所”という言葉を聞いたとき焦った。焦ったどころではない。部活だから、紙芝居になると勝手に解釈していたのだ。
*
あっという間に部活の成果発表会が来た。
途中で印刷所から絵本が届いたらしいが、中身は見させてくれなかった。
——俺が読み聞かせるのに、見せないってなんだ?
練習できないことが、あまりにも不安だ。
前の発表していた部活であるサッカー部が横を通過した瞬間、心臓がキュッとする。
「ハレ? なんでいんの?」
「……部活入ってるからだよ」
帰宅部だと思っているクラスメイトのひとりだ。そいつは「知らなかった」と静かにこぼし、さっさと全校生徒の集まる壇上の下へ行ってしまった。
「サッカー部ありがとうございました!」
「えっと? 文芸部? あったんだ」
「お願いしまーす」
全部を口に出す進行役のやる気のなさは俺のやる気をなくす……なんてことはない。
壇上の中心に1つだけ置かれた椅子。誰もいない場所に設置されたパイプ椅子は、無機質でありながらなんだか、そこに進みたくなる。
「あの椅子、俺が置いたんだ。心強いだろ?」
「あぁ」
桃田が置いた椅子というだけなのに、気持ちが伝わってきて納得できた。
そして、桃田は何も言わず、ただ背中にそっと触れられる。少し前に押し出すように力を込められた。それがすごく暖かかった。
壇上の脇に吊り下げられてるカーテンから一歩踏み出す。
聞こえてくる声は、予想通りだった。
「あれ、ハレくんじゃない?」
「まじか。あいつウケるんだけど」
仕方ないだろ? 前に踏み出したいと思ってしまったんだ。
背筋を伸ばし、堂々と歩く。恥じることなど一切ない。
椅子の横まで来て軽く挨拶をした。
「文芸部の成果発表を始めます。今年は絵本を制作しました」
誰も聴いていないザワついた体育館。1人強く視線を送ってくれる人がいるだけでこんなに心強いなんて思わなかった。
——大丈夫。
足を横に一歩踏み出し、無駄な動きを一切せずに椅子に座る。遠くの人には見えないだろう小さくて、でも存在の大きな絵本を全校生徒に向けた。
心臓が口から出そうなくらいうるさく高鳴っている。
実は、サボった日を境に教室では、皆が気まずそうにしていたものの、時間が解決してくれた。そして俺は猫被るのをやめれると思っても、結局できなかった。
もちろん教室で桃田とは話せず終いだ。
教室では2人で話せないことを分かっていたから、俺のこと連れ出したんだと思う。
——桃田は、俺のことを分かりすぎてる。かなわないなぁ。
瞼を閉じて、一呼吸した。
始めのタイトルは無機質に読む。
『うそねは、ねこにばれる』
『文・絵、桃田 サトル』
「桃田?」と、ざわつく中、表紙をめくる。絵本の世界に出発した俺には、既に他の人の声は聞こえなかった。
『ここは 動物が たくさん くらす 町』
『ある日 いぬさんが 一匹 いました。』
『その いぬさんは 電車に のるのが だいすき でした。』
『ガタン ゴトン』
『「今日は どこに いこう」』
『おそとを 見ても 雲が たくさんあって つまらない。』
『ねこの しゃしょうの ねこさんは いいました。』
『「きみは うそつきだ」』
『ガタン ゴトン』
『「どうして?」』
『「電車に のった」』
『「ダメ なの?」』
『「この電車は 前にしか進めないんだ」』
『電車が 止まりました。』
『「うそを ついてまで 前に進むのか?」』
『「うそなんて ついてない」』
『電車は 動きません。』
『いぬさんは うそを ついているのです』
『「それは なに?」』
『「な、なんだろう」』
『いつも なかを しらずに もっていた 小さな はこ。』
『「なかを みるのは こわい?」』
『いぬさんは はこを なげてしまいました。』
『「ワンッ! こんなの知らない!」』
『「知らなくないよ」』
『ねこさんは はこを ひろいます。』
『しかし いぬさんは はこを 受け取りません。』
『「いらない!」』
『ねこさんは めげません』
『「いっしょに あける?」』
『いぬさんと ねこさんは いっしょに はこに ついている リボンを ほどきました。』
『「ぼくが すきだった くつだ」』
『いぬさんは この くつが だいすき でした。』
『でも こわれた くつは もう はくことが できません。』
『こんどは こわれた くつを なげようとしました。』
『「まだ はけるよ」』
『ねこさんが 止めます』
『すると ねこさんは くつの ぬのを すこし わけてやりました。』
『「わぁ!」』
『その ぬので いぬさんの くつが なおり また はくことが できました。』
『そらは たいようが こんにちは と のぞきます。』
『ガタン ゴトン』
『電車が 動き出しました。』
『いぬさん号 しゅっぱつ しんこう!』
最後の1文字が余韻になって、俺の頭に残り続ける。
——こんな景色見ることになるなんて……
どんな目で見られていられるのか、生徒がどう思っているのか、目視できるはずもない。けど、わかるのは驚かれていることだけはうっすら感じ取った。
——終わった。終わってしまった。
まだ俺にはできることがあったことももっと練習すれば良かったと思うことも、すべてが押し寄せると同時に感じる”好き”にまた向き合えて頑張れたという誇り。
浅く一礼して、壇上を後にする。
桃田が押してくれた背中にまだ、感触が残っている。
ただひとり、壇上の脇で拍手をし続けていた。その顔が見えた瞬間思わず桃田を抱きしめた。
「桃田!」
——俺、頑張ったよ。
「大好き」
ようやく伝えられた。伝えたかった言葉。
桃田が抱きしめ返してくれた触れている全部が暖かい。
初めて読んだのに、そんな気がしなかった。今までの読み聞かせで一番の出来だろう。
壊れた靴を投げ出しそうになったのは俺で、靴を直してくれたのは、桃田だ。
——こんなのズルすぎるだろ……
体育館から聴こえる疎らな拍手。
俺と桃田だけがわかる物語でもいい。
そう思った矢先だ。
1つの大きな拍手に変化する。誰もいない壇上、体育館には全校生徒。遮るものがない空間に響き渡る割れんばかりの拍手は、絶賛を表すには十分すぎるものだった。
*
卒業式。
今日で廃部になる文芸部の部室を2人で眺める。
運動部の声も吹奏楽部による楽器の音も聴こえない。
大好きな桃田の声だけが鮮明に聴こえる空間が、なんだか新鮮だ。
「早かったな」
「うん」
3年生の6月で、部活自体はやっていなかった。
受験に集中するためだ。
その時点で、俺たちの卒業をもって廃部になることは決まっていた。
「これからどうする?」
「俺行くとこあるから」
俺もついていく、と言うと快く承諾してくれた。
行先もわからないまま着いていく道中、とにかく桃田と一緒にいたいという気持ちでいっぱいだ。ただ卒業式の日に行く場所に検討がつかず、口をひらく。
「どこ行くの?」
「父さんの墓参り」
「え?」
俺が驚き声を出したとき、桃田が「ここだ」と、入っていく。手際よく手桶と柄杓を準備し、墓石の前まで進んで行き黙ったまま手をあわせる。そして俺へ向き直して言う。
「俺が小学生の時に事故があったんだ。父さんがいなくて、母さんが入院して……まぁ親戚とか周りの人が親切にしてくれたから不自由なく過ごせてるけど。心配してるだろうから、時々こうして来るんだ」
「そうだったんだな」
俺は桃田の横に屈み、墓石を前にして声を出す。
「大丈夫っすよ!」
「さっくん?」
「サトルくんに言われて絵本の読み聞かせしたんです。絵本の読み聞かせとか本当は途中まで本気にしてなかったんすけど、マジで嫌になるほどまっすぐにしか進まないんですよ。桃田サトル号」
「さっくん……うん。大丈夫だよ、父さん。やっぱ、さっくんしかいなかった」
帰り道、隣を歩く桃田にふと、疑問に思って問う。
「『さっくん』なんて言って、お父さん分かるのか?」
「分かるよ。もう何回も言ってるからな」
「えっ。何て言ったんだよ」
「……高校でできた初めての、友達で……好きな人って。そんで、読み聞かせをやらないって言われたとき父さんに相談しにきてたんだ」
「ほんと焦ったんだぞ」と、唇を突き出して言われた。
きっと何か迷った時に戻ってくる桃田にとって、大事な場所。
——俺も大切にしたい。
「また来ていい?」
「もちろん。父さん喜ぶよ」
俺の最寄駅が近かったこともあり、そこから帰ると桃田が言う。
突如として、濃密になった高校生活を思い返す。
きっかけは不思議で、絵本を読むことになると思いもしなかった。
まっすぐな桃田が絵本を描くと決めてから、止まることがなく、それに置いてかれた気分になっていたのかもしれない。
でも、桃田は俺を突き離さなかったし、居場所を残してくれていた。
——あのとき廃部を阻止したのは桃田の描く絵本に、興味があったのかもしれないな。
そのときから、桃田のことを意識してた……と思う。いや、もっと前からか? ほんと、話すことになるなんて誰も想像しなかっただろう。
ふと絵本に挟まっていた紙を思い出す。
「そういえば、あの紙ってなんだったの?」
「……全部言おうとしてた。告白して、嫌われたら嫌われたで、なんでもいいから……とにかく話したかったんだよ。あのまま終わりは絶対に嫌だったから」
——俺の方が焦っていたと思っていたけど、お互い様だったとは。
「桃田、あきらめないでくれてありがとう」
「こっちの台詞。ありがとう」
すると、背後から声をかけられた。
「ハレ?」
「雪乃姉……優光兄」
姉と兄、その後ろを歩く母と父。
「父さん、帰ってたんだ」
違う。言おうとしてたのはこれじゃない。
姉と兄と母もいて、久しぶりの家族が揃った瞬間だった。それなのに微妙な空気を吐き出してしまう自分を責める。
そこに帰らずにいた桃田にトンと、軽く背中を押された。
——桃田がいないと何もできないかもな。
「おかえり。パパ」
「ただいま、晴天」
気まずい沈黙が流れると、母が静寂を壊す。
「あなたが桃田くん?」
「あ、はい」
実のところ桃田のことを話していたのだ。一度言ってしまうと、浮ついた口は軽く、桃田との出来事を逐一報告してたなど母にするとは俺も思っていなかったが、母はただ聞いてくれていた。
「よかったら、うちでご飯でも食べない? あ、でも卒業式だから親御さんと……」
「いえ、むしろお邪魔じゃなければいただきます」
「……ぜひいらっしゃい」
深くは聞かなかった母は、それ以上何も言わなかった。
*
食卓に桃田が座っているのが変な感じだ。
ご飯を頬張る桃田の瞳からは涙が溢れそうになっていた。俺に見られたくないのか、すぐに拭って、早口で言う。
「あったかいって思っただけだから。寂しいって思ってないからな!」
「別に、卒業するだけだよ……」
「違……う、ただ、寂しくないって意地張ってたんだなって思わせられたんだ」
「桃田……」
「いつでもくれば? 俺は家から通える距離の大学だし、そうじゃなくても母さんは家にいるだろうし」
常にひとりだった桃田にとって、誰かと食卓を囲むこともあまりなかったはずだ。
でも、ここにいれば誰かしらいるし、桃田の居場所になりたいと考えた。
その言葉に父のおかわりをとりに行っていた母が、しゃもじを持ちながらキッチンカウンターから顔をだす。
「んー、てか住んじゃえば?」
「そうだな。部屋余ってるし、なんなら2人は同じ大学じゃないか」
父が鼻を高くして言った。
「な、んで知ってるんだよ」
「自分の息子のことですから」
「……ほんとか?」
「部活しらなかったことかなり落ち込んで、それからは連絡きたと思ったら子供たちの近況報告よ。少しくらいわたしに愛を伝えてくれたっていいのに!」
「ちょっと、桃田の前で恥ずかしいから」
桃田がケラケラと笑う。
——よかった。楽しめてるみたいだ。
「駅まで送ってくる」と、親に告げると、母はいつでもいらっしゃいと、桃田を送り出した。
俺は家を出てすぐの段差を先に行く、桃田の背中に向かって言葉を放つ。
「好き」
桃田が首だけで振り返る。
「桃田、好き」
何回でも言いたい。
「おいで、さっくん」
桃田の言葉に誘われ一段、二段……短い階段を降りた瞬間、腕を引き寄せられ桃田に飛び込む形で抱きついた。
「さっくん、嬉しい。大好きだよ」
耳の近くで桃田の低くて優しい声が響く。
鼓動が一気に早くなった。
——全部伝わってしまえ。
桃田が俺の火照る耳から首筋にかけて、なぞるようにキスをする。
——もどかしい……
すると、ハグしたまま桃田に片手を恋人繋ぎにされる。絡んだ指を、愛おしそうに撫でると、俺の目を見て言った。
「付き合ってください」
「当たり前だ」
また、ぎゅっと力を入れ抱きしめられた。
まったく離そうとしない桃田を見上げる。
——今の俺、期待、してる。
「キス、しないの? その……唇に……」
「してくれてもいいけど?」
意地悪に言う桃田にムッとした顔をして見せる。
でももう自分に嘘はつきたくなどない。いや、つけるはずもない。
”好き”にブレーキなんていらないんだ。
俺は踵を上げ腕を掴んでバランスを取ると、桃田の薄い唇に俺の唇をそっと重ねた。
だって、嘘寝は猫にバレてしまうのだから。
*
大学の近くに一緒に住もうともしたが、それは社会人になるまでお預けとなった。
その代わり、桃田は俺の家に住んでいる。
桃田がリビングのソファで俺の膝に頭を乗せてくつろぐ。生活リズムにも慣れてきて、親も兄も姉も夜が遅いと知っていたので、堂々と2人でいられる時間がわかってきた。
「サトルって猫みたいだよな」
「……どっちが」
「え?」
「猫はさっくんだ」
——なんの話?
「右と左」
「ねぇ本当になんの話?」
「わかんないならいい。いやわかんなくてもいいか。嘘。いつかわかってほしいけど」
何のことを言っているのか検討もつかないが、桃田はそれ以上言わず、身体を起こす。
そして首を傾け、長いキスをされた。
俺にいつかわかる日が来るのだろうか——?
桃田はすでに印刷所に原稿の提出をしたらしく、俺の読み聞かせ練習を聞いていただけになっていた。
まさか、しっかりと絵本にするとも思っていなかったので”印刷所”という言葉を聞いたとき焦った。焦ったどころではない。部活だから、紙芝居になると勝手に解釈していたのだ。
*
あっという間に部活の成果発表会が来た。
途中で印刷所から絵本が届いたらしいが、中身は見させてくれなかった。
——俺が読み聞かせるのに、見せないってなんだ?
練習できないことが、あまりにも不安だ。
前の発表していた部活であるサッカー部が横を通過した瞬間、心臓がキュッとする。
「ハレ? なんでいんの?」
「……部活入ってるからだよ」
帰宅部だと思っているクラスメイトのひとりだ。そいつは「知らなかった」と静かにこぼし、さっさと全校生徒の集まる壇上の下へ行ってしまった。
「サッカー部ありがとうございました!」
「えっと? 文芸部? あったんだ」
「お願いしまーす」
全部を口に出す進行役のやる気のなさは俺のやる気をなくす……なんてことはない。
壇上の中心に1つだけ置かれた椅子。誰もいない場所に設置されたパイプ椅子は、無機質でありながらなんだか、そこに進みたくなる。
「あの椅子、俺が置いたんだ。心強いだろ?」
「あぁ」
桃田が置いた椅子というだけなのに、気持ちが伝わってきて納得できた。
そして、桃田は何も言わず、ただ背中にそっと触れられる。少し前に押し出すように力を込められた。それがすごく暖かかった。
壇上の脇に吊り下げられてるカーテンから一歩踏み出す。
聞こえてくる声は、予想通りだった。
「あれ、ハレくんじゃない?」
「まじか。あいつウケるんだけど」
仕方ないだろ? 前に踏み出したいと思ってしまったんだ。
背筋を伸ばし、堂々と歩く。恥じることなど一切ない。
椅子の横まで来て軽く挨拶をした。
「文芸部の成果発表を始めます。今年は絵本を制作しました」
誰も聴いていないザワついた体育館。1人強く視線を送ってくれる人がいるだけでこんなに心強いなんて思わなかった。
——大丈夫。
足を横に一歩踏み出し、無駄な動きを一切せずに椅子に座る。遠くの人には見えないだろう小さくて、でも存在の大きな絵本を全校生徒に向けた。
心臓が口から出そうなくらいうるさく高鳴っている。
実は、サボった日を境に教室では、皆が気まずそうにしていたものの、時間が解決してくれた。そして俺は猫被るのをやめれると思っても、結局できなかった。
もちろん教室で桃田とは話せず終いだ。
教室では2人で話せないことを分かっていたから、俺のこと連れ出したんだと思う。
——桃田は、俺のことを分かりすぎてる。かなわないなぁ。
瞼を閉じて、一呼吸した。
始めのタイトルは無機質に読む。
『うそねは、ねこにばれる』
『文・絵、桃田 サトル』
「桃田?」と、ざわつく中、表紙をめくる。絵本の世界に出発した俺には、既に他の人の声は聞こえなかった。
『ここは 動物が たくさん くらす 町』
『ある日 いぬさんが 一匹 いました。』
『その いぬさんは 電車に のるのが だいすき でした。』
『ガタン ゴトン』
『「今日は どこに いこう」』
『おそとを 見ても 雲が たくさんあって つまらない。』
『ねこの しゃしょうの ねこさんは いいました。』
『「きみは うそつきだ」』
『ガタン ゴトン』
『「どうして?」』
『「電車に のった」』
『「ダメ なの?」』
『「この電車は 前にしか進めないんだ」』
『電車が 止まりました。』
『「うそを ついてまで 前に進むのか?」』
『「うそなんて ついてない」』
『電車は 動きません。』
『いぬさんは うそを ついているのです』
『「それは なに?」』
『「な、なんだろう」』
『いつも なかを しらずに もっていた 小さな はこ。』
『「なかを みるのは こわい?」』
『いぬさんは はこを なげてしまいました。』
『「ワンッ! こんなの知らない!」』
『「知らなくないよ」』
『ねこさんは はこを ひろいます。』
『しかし いぬさんは はこを 受け取りません。』
『「いらない!」』
『ねこさんは めげません』
『「いっしょに あける?」』
『いぬさんと ねこさんは いっしょに はこに ついている リボンを ほどきました。』
『「ぼくが すきだった くつだ」』
『いぬさんは この くつが だいすき でした。』
『でも こわれた くつは もう はくことが できません。』
『こんどは こわれた くつを なげようとしました。』
『「まだ はけるよ」』
『ねこさんが 止めます』
『すると ねこさんは くつの ぬのを すこし わけてやりました。』
『「わぁ!」』
『その ぬので いぬさんの くつが なおり また はくことが できました。』
『そらは たいようが こんにちは と のぞきます。』
『ガタン ゴトン』
『電車が 動き出しました。』
『いぬさん号 しゅっぱつ しんこう!』
最後の1文字が余韻になって、俺の頭に残り続ける。
——こんな景色見ることになるなんて……
どんな目で見られていられるのか、生徒がどう思っているのか、目視できるはずもない。けど、わかるのは驚かれていることだけはうっすら感じ取った。
——終わった。終わってしまった。
まだ俺にはできることがあったことももっと練習すれば良かったと思うことも、すべてが押し寄せると同時に感じる”好き”にまた向き合えて頑張れたという誇り。
浅く一礼して、壇上を後にする。
桃田が押してくれた背中にまだ、感触が残っている。
ただひとり、壇上の脇で拍手をし続けていた。その顔が見えた瞬間思わず桃田を抱きしめた。
「桃田!」
——俺、頑張ったよ。
「大好き」
ようやく伝えられた。伝えたかった言葉。
桃田が抱きしめ返してくれた触れている全部が暖かい。
初めて読んだのに、そんな気がしなかった。今までの読み聞かせで一番の出来だろう。
壊れた靴を投げ出しそうになったのは俺で、靴を直してくれたのは、桃田だ。
——こんなのズルすぎるだろ……
体育館から聴こえる疎らな拍手。
俺と桃田だけがわかる物語でもいい。
そう思った矢先だ。
1つの大きな拍手に変化する。誰もいない壇上、体育館には全校生徒。遮るものがない空間に響き渡る割れんばかりの拍手は、絶賛を表すには十分すぎるものだった。
*
卒業式。
今日で廃部になる文芸部の部室を2人で眺める。
運動部の声も吹奏楽部による楽器の音も聴こえない。
大好きな桃田の声だけが鮮明に聴こえる空間が、なんだか新鮮だ。
「早かったな」
「うん」
3年生の6月で、部活自体はやっていなかった。
受験に集中するためだ。
その時点で、俺たちの卒業をもって廃部になることは決まっていた。
「これからどうする?」
「俺行くとこあるから」
俺もついていく、と言うと快く承諾してくれた。
行先もわからないまま着いていく道中、とにかく桃田と一緒にいたいという気持ちでいっぱいだ。ただ卒業式の日に行く場所に検討がつかず、口をひらく。
「どこ行くの?」
「父さんの墓参り」
「え?」
俺が驚き声を出したとき、桃田が「ここだ」と、入っていく。手際よく手桶と柄杓を準備し、墓石の前まで進んで行き黙ったまま手をあわせる。そして俺へ向き直して言う。
「俺が小学生の時に事故があったんだ。父さんがいなくて、母さんが入院して……まぁ親戚とか周りの人が親切にしてくれたから不自由なく過ごせてるけど。心配してるだろうから、時々こうして来るんだ」
「そうだったんだな」
俺は桃田の横に屈み、墓石を前にして声を出す。
「大丈夫っすよ!」
「さっくん?」
「サトルくんに言われて絵本の読み聞かせしたんです。絵本の読み聞かせとか本当は途中まで本気にしてなかったんすけど、マジで嫌になるほどまっすぐにしか進まないんですよ。桃田サトル号」
「さっくん……うん。大丈夫だよ、父さん。やっぱ、さっくんしかいなかった」
帰り道、隣を歩く桃田にふと、疑問に思って問う。
「『さっくん』なんて言って、お父さん分かるのか?」
「分かるよ。もう何回も言ってるからな」
「えっ。何て言ったんだよ」
「……高校でできた初めての、友達で……好きな人って。そんで、読み聞かせをやらないって言われたとき父さんに相談しにきてたんだ」
「ほんと焦ったんだぞ」と、唇を突き出して言われた。
きっと何か迷った時に戻ってくる桃田にとって、大事な場所。
——俺も大切にしたい。
「また来ていい?」
「もちろん。父さん喜ぶよ」
俺の最寄駅が近かったこともあり、そこから帰ると桃田が言う。
突如として、濃密になった高校生活を思い返す。
きっかけは不思議で、絵本を読むことになると思いもしなかった。
まっすぐな桃田が絵本を描くと決めてから、止まることがなく、それに置いてかれた気分になっていたのかもしれない。
でも、桃田は俺を突き離さなかったし、居場所を残してくれていた。
——あのとき廃部を阻止したのは桃田の描く絵本に、興味があったのかもしれないな。
そのときから、桃田のことを意識してた……と思う。いや、もっと前からか? ほんと、話すことになるなんて誰も想像しなかっただろう。
ふと絵本に挟まっていた紙を思い出す。
「そういえば、あの紙ってなんだったの?」
「……全部言おうとしてた。告白して、嫌われたら嫌われたで、なんでもいいから……とにかく話したかったんだよ。あのまま終わりは絶対に嫌だったから」
——俺の方が焦っていたと思っていたけど、お互い様だったとは。
「桃田、あきらめないでくれてありがとう」
「こっちの台詞。ありがとう」
すると、背後から声をかけられた。
「ハレ?」
「雪乃姉……優光兄」
姉と兄、その後ろを歩く母と父。
「父さん、帰ってたんだ」
違う。言おうとしてたのはこれじゃない。
姉と兄と母もいて、久しぶりの家族が揃った瞬間だった。それなのに微妙な空気を吐き出してしまう自分を責める。
そこに帰らずにいた桃田にトンと、軽く背中を押された。
——桃田がいないと何もできないかもな。
「おかえり。パパ」
「ただいま、晴天」
気まずい沈黙が流れると、母が静寂を壊す。
「あなたが桃田くん?」
「あ、はい」
実のところ桃田のことを話していたのだ。一度言ってしまうと、浮ついた口は軽く、桃田との出来事を逐一報告してたなど母にするとは俺も思っていなかったが、母はただ聞いてくれていた。
「よかったら、うちでご飯でも食べない? あ、でも卒業式だから親御さんと……」
「いえ、むしろお邪魔じゃなければいただきます」
「……ぜひいらっしゃい」
深くは聞かなかった母は、それ以上何も言わなかった。
*
食卓に桃田が座っているのが変な感じだ。
ご飯を頬張る桃田の瞳からは涙が溢れそうになっていた。俺に見られたくないのか、すぐに拭って、早口で言う。
「あったかいって思っただけだから。寂しいって思ってないからな!」
「別に、卒業するだけだよ……」
「違……う、ただ、寂しくないって意地張ってたんだなって思わせられたんだ」
「桃田……」
「いつでもくれば? 俺は家から通える距離の大学だし、そうじゃなくても母さんは家にいるだろうし」
常にひとりだった桃田にとって、誰かと食卓を囲むこともあまりなかったはずだ。
でも、ここにいれば誰かしらいるし、桃田の居場所になりたいと考えた。
その言葉に父のおかわりをとりに行っていた母が、しゃもじを持ちながらキッチンカウンターから顔をだす。
「んー、てか住んじゃえば?」
「そうだな。部屋余ってるし、なんなら2人は同じ大学じゃないか」
父が鼻を高くして言った。
「な、んで知ってるんだよ」
「自分の息子のことですから」
「……ほんとか?」
「部活しらなかったことかなり落ち込んで、それからは連絡きたと思ったら子供たちの近況報告よ。少しくらいわたしに愛を伝えてくれたっていいのに!」
「ちょっと、桃田の前で恥ずかしいから」
桃田がケラケラと笑う。
——よかった。楽しめてるみたいだ。
「駅まで送ってくる」と、親に告げると、母はいつでもいらっしゃいと、桃田を送り出した。
俺は家を出てすぐの段差を先に行く、桃田の背中に向かって言葉を放つ。
「好き」
桃田が首だけで振り返る。
「桃田、好き」
何回でも言いたい。
「おいで、さっくん」
桃田の言葉に誘われ一段、二段……短い階段を降りた瞬間、腕を引き寄せられ桃田に飛び込む形で抱きついた。
「さっくん、嬉しい。大好きだよ」
耳の近くで桃田の低くて優しい声が響く。
鼓動が一気に早くなった。
——全部伝わってしまえ。
桃田が俺の火照る耳から首筋にかけて、なぞるようにキスをする。
——もどかしい……
すると、ハグしたまま桃田に片手を恋人繋ぎにされる。絡んだ指を、愛おしそうに撫でると、俺の目を見て言った。
「付き合ってください」
「当たり前だ」
また、ぎゅっと力を入れ抱きしめられた。
まったく離そうとしない桃田を見上げる。
——今の俺、期待、してる。
「キス、しないの? その……唇に……」
「してくれてもいいけど?」
意地悪に言う桃田にムッとした顔をして見せる。
でももう自分に嘘はつきたくなどない。いや、つけるはずもない。
”好き”にブレーキなんていらないんだ。
俺は踵を上げ腕を掴んでバランスを取ると、桃田の薄い唇に俺の唇をそっと重ねた。
だって、嘘寝は猫にバレてしまうのだから。
*
大学の近くに一緒に住もうともしたが、それは社会人になるまでお預けとなった。
その代わり、桃田は俺の家に住んでいる。
桃田がリビングのソファで俺の膝に頭を乗せてくつろぐ。生活リズムにも慣れてきて、親も兄も姉も夜が遅いと知っていたので、堂々と2人でいられる時間がわかってきた。
「サトルって猫みたいだよな」
「……どっちが」
「え?」
「猫はさっくんだ」
——なんの話?
「右と左」
「ねぇ本当になんの話?」
「わかんないならいい。いやわかんなくてもいいか。嘘。いつかわかってほしいけど」
何のことを言っているのか検討もつかないが、桃田はそれ以上言わず、身体を起こす。
そして首を傾け、長いキスをされた。
俺にいつかわかる日が来るのだろうか——?


