嘘寝は猫にバレる

——眠い。
 生暖かい風が吹き込む。入学して一ヶ月、本に興味があるわけでもなく文芸部に入部して二週間。すでに部活に来る意義を見失っていた。それでも部室には行って、扉から一番離れた窓際に腰を下ろす。
——キレイだと思ったあの人はどこにいるんだ?
 数人しかいない部活で見つけられないあの人。そんなわけないと思われるだろうが、本当にどの人か分からないんだ。
 俺は本を読む先輩や同級生を横目に腕で枕を作り、顔を伏せる。静かな部室に鮮明に聞こえる部活の音。嫌いじゃないけど、思い出す時がある。
 中学校での出来事を————



 幼い頃から挑戦すればなんでもできると思って疑わなかった。チャレンジしたモノが上達するのが楽しくて、好きだと直感で思ったものもそうでないものも、物怖じせずに挑戦するのが好き。
 でも、なんでもできるなんて思っていたのは自分だけで、俺は勘違いしていただけだった。
——勘違いとか知りたくなかったな。
 
 中学の部活がきっかけで始めたサッカー。
 体験入部した時からこのスポーツ楽しいかもと思い始め、気づいた時には部活の時間が楽しみになるほどサッカーが好きになっていた。
 少しでも早く朝練を始めたり、練習試合でゴールを決めきれなかったら反省して練習方法を模索したり……充実した日々だった。
——サッカー好きだ!
 楽しいという感情が俺を前に進める。好きなものができて嬉しかった。
 しかし、チームメイトからかけられたひと言で、楽しいと好きは一変する。
『何て言うか、見本通りって感じ』
 一緒に頑張ってきたはずの仲間からかけられたひと言。一人が言ったらシミが広がるみたいにジワジワと一人、また一人と、言葉を変えて降りかかる。
『センスあるからできると思ったから任せたのに、いつまでも変わらないね』
『サッカー好きとか嘘じゃない?』
 嘲笑混じりに言われた。
——好きが“嘘”?
 頭の上から氷水をかけられたみたいに体が凍りついた。同時に、目が覚めた。
——あぁ、俺何やってんだろうな。
 好きだと思って始めたサッカーを、終いには笑われる始末。

「俺、サッカー好きじゃないみたいだ。……辞める」

 自分が放った『好きじゃない』という言葉がジクジクと腹の奥底で広がる。
——本当は好き。
 好きなモノを否定したら心が重く、窮屈で苦しい。
 でも引き換えに他人の視線は軽くなった。

 好きなモノを否定してしまったことへの罪悪感が虚無感へ変化し、何かを始めようとしても「好きになってしまったらどうしよう」とブレーキを踏んで、立ち止まるようになった。
——また俺が好きなモノを否定したら?
 それは苦しいなぁ。

 そうか。否定しないように何もしなければいいんだ。
——もう頑張りたくない。好きなモノを笑われるのは、俺が好きになってしまったから。
 きっと、そうだ。
 心の奥底に眠っている何かを考えられるほどの余裕などなかった。
 中学二年の夏、湿気でジメジメした空気が俺の周りだけ増した気がした。



 思い出しては、キュッと手に力が入る。
 すると、髪を指が掠めた感覚に、片目を開けた。
——誰?
 顔は見えないし、何の情報も掴めななかったため、また瞼を落とす。
 誰でもいいか。もうここには来ないだろうから——

***

「またね、ハレくん!」
「ハレー、明日な」

 父方の苗字、父が付けた名前。父は東京の街中でスカウトを受けたことから俳優業に専念サラリーマンを辞めた。東京とは遠く離れているこの家にはほとんど帰ってこなくなり、母と姉、そして兄の負担を増やした父が好きではなかった。
 だから、名前を無理やり『ハレ』と読んでいる。と言うのも漢字では“晴天”と書くが、本当の読み方は皆が呼ぶ『ハレ』ではない。
 入学して初めての自己紹介で「気軽にハレって呼んでね」と、あだ名を言って終えばこっちのもんだ。皆、違和感を持つことなく呼んでくれている。

「今日顧問来る日じゃん!」

 一人が焦りを見せると伝染するように、カバンを持ち始め席を立つ。

「ハレはいいよなー。帰宅部で!」
「ははっ。そうだろ?」
「始業式だけだと思ったのに、部活あるのマジダルい」

 自分で入部を決めたのに、なぜ俺が羨まれるのだと反発したくても、この場で言える性格ではない。
 いや、中学のあの時から言えなくなった。飲み込んだ言葉は、周りに合わせて嘘をついた愛想笑いに隠す。

「がんばれ」

 目鼻立ちのはっきりとした整った顔立ちをしているという自覚を持った顔。平均身長の上をいく百七十八センチ。明るく取り繕った性格は何をしていなくても、周りには人が集まる。
 しかし皆と仲良くやっているように見えても、誰ひとり俺が所属する部活を知らない。
 口々に別れを告げ、教室を出ていくクラスメイトを見送る。テニス部、サッカー部、バドミントン部……。各々の活動場所に散らばって行った。

 その隙間を縫うように教室を出て行くひとりのクラスメイトを俺の目が追う。運動部に紛れても頭ひとつ抜けるくらいに背が高い。
 黒髪、せいぜい茶髪程度の中に混ざる派手な髪。遠くからでもキラキラと反射するピアス。
 ダルそうに片手にカバンを持ち、後ろ姿でも制服が着崩されてることが分かる。
 ひと言で表すなら不良という言葉がよく似合う見た目をしたクラスメイトは、知らない人が見たら俺と同じく帰宅部だと思うだろう。
 俺がジッと見ていると、視線が微量にこちらを向いた。
——見てるのバレた?
 と、思ったがそれは勘違いで廊下に出たらすぐに曲がるため、単に先を見ているだけだったのだ。俺を見ているわけではなかったと判断した瞬間に、ジワッと耳の後ろあたりが熱くなる。
——なんでこんな自意識過剰みたいになってんだ。
 結局、俺はその背中が見えなくなるまで眺めていた。

「ハレは帰るの?」

 まだ教室に残っていたクラスメイトであり、サッカー部の太一に意識を戻される。

「あー……多分? そんな感じ」
「なんだそれ」

 「帰るだけなのに見栄を張るなよ」と笑う太一が教室を出ていった。
 笑ってくれる。上手くやれてる。心の中で唱えて自分を押し殺しても、心の内ではもやもやを吐き出す。
——決め付けやがって……俺がいつ帰宅部って言った?
 否定する勇気は持ち合わせていない。
——好きを笑われるくらいなら、自分を隠してた方が楽……
 短く息を吐きスクールバッグに持ち帰っても勉強はしない教科書類を詰める。
 教科書の一番下に入っていたA4ファイルをカバンにしまう前に『退部届』と書かれた紙が挟まっているのを確認してチャックを勢いよく閉めた。
——俺も行くか。
 二年生の教室が揃う四階から階段をノロノロと降る。途中で連絡通路を渡ると二号館に入ることができ、こちらにもいくつもの教室が並んでいた。

「ハレくん! 帰り?」
「そんなとこ」

 教室と廊下を隔てる窓から顔を出してまで声を掛けてくるよく知らない女子に否定も肯定もせず返事する。もちろん、話しかけられたからと嫌な顔もせず。
 複数の教室の前を通り抜け、その先の階段で一階に降りる。そして屋外の廊下を奥へ進むと、別棟に到着した。迷路のようなこの学校も今では慣れたものだ。

 この別棟にある一室こそが、俺が所属する文芸部の活動場所だった。
 ガタガタと、立て付けの悪い音をさせながら扉を開く。
 開け放った教室には決まって先客がいた。

 真ん中に長机と複数のパイプ椅子。扉に一番近い椅子で黙々と絵本を熟読する男。
 同じ学年、況してや同じクラス。そして、先ほど教室を出て行ったことを、わざわざ確認した桃田(ももた)サトルだ。
 毛先にかけて鮮やかな赤に染まっている派手な髪色。耳にはピアスは数えられないほど空いているし、座っていて高い身長が低く見えるくらい腰まで下げられた制服のズボンと、ところどころ飛び出したワイシャツ。その隙間からは、ゴツゴツとしたベルトが見え隠れしている。
——あんなベルトどこで見つけるんだ。

 ここに俺が来て挨拶をすることも桃田が顔を上げてこちらを気にすることもない。
——少しくらい気にならないのか?
 でも、桃田は人に興味がないと思う。
 クラスでも話している姿は、ほとんど見たことがない。ただ最近感じる視線はあるのは気がかりだった。分かっていても話しかけないし話しかけられない。
 意識してるのに、意識していないように取り繕っているみたいな、絶妙な距離感とバランスを保ち続けている関係だ。
 見てくるってことは、桃田も俺のことを多少は意識しているんだろうか。少しそわそわする気持ちは先へ進もうとする。
 そもそも桃田は俺のこと…………ん? 一瞬思考を止める。
 意識はするだろ。同じ部活なんだし。うん……
 自分を納得させようとしているのに、しきれない。
 俺は今なんで……
——桃田が俺のこと、どう思ってるんだろうって思ったんだ?
 よぎった思考を吹き飛ばすように首を横に振る。
 複雑な気持ちを真っ新にしたくて外を見やった。
 この教室からは花壇しか見えない。しかし静けさの中に運動部の掛け声と、遠くで吹奏楽部が楽器を奏でる音だけが聴こえる。
 初めてここに来た頃は少し苦手だったが、まさに高校にいるという感情に浸れるからか居心地がいいと感じれるようになった。
 チラリと、視線だけ動かす。
——あんなに真剣な顔だと、話しかけづらいな。
 俺は今日、文芸部の部長である桃田に退部届へ承認のサインをもらうために部活に来た。特に急いではないので桃田が一段落するまで待つことにした俺は、窓のサッシに腰掛けてスマホでゲームを起動する。
 そして、スマホ画面に顔を向けながら視界の端で桃田の様子を確認する。
——たかが(・・・)絵本なのに真剣な顔。
 机と垂直に近い形で本を開き、本と同じ高さにまで椅子から身体を滑らせ足を伸ばしながら読んでいる。見ているだけで身体が痛くなる体勢にもかかわらず、切れ長の二重は真剣そのものだ。
——好きなモノなんだろうな。
 校庭からも本館からも離れた、別棟にある一室にポツンと佇む文芸部。在籍者は、たったの二人。俺も人のことを言えた話ではないが、桃田の見た目から文芸部に所属していそうにもない。でも正式に部長が桃田だ。必然的に俺が副部長になっているも、それらしいことはひとつもしたことはない。
 紙と紙が擦れる音。小説や漫画の単行本より、ふた回り以上も大きく少し分厚めの紙は低い音をさせて捲られる。
 桃田が一定の感覚で捲る紙の音は嫌いではない。むしろ耳心地がいい。
——小さい頃の読み聞かせの時間が好きだったから。

『バサバサッ』

 突如大きな音が響き、身体をビクつかせる。音のする方を見ると、桃田が積み上げていた絵本を床に落としていた。形も大きさも不揃いな絵本をバランスなど気にしない無頓着な桃田が積み上げたからだ。これはいつもだった。
——いつかやると思ってたよ。
 自業自得だとは心で思っていても同じ空間にいて、見て見ぬふりをするわけにはいかないと、窓のサッシから軽々と降りる。いつもはどんな音がしても微動だにしない桃田もさすがに身体を起こして席を離れ、二人で屈みながら絵本を拾う。
 桃田は一冊ずつ机に置くのに対し、俺は腕の中で落ちてる絵本を拾い重ねていった。

「はい。これで全部?」

 俺が積み重ねた数冊を渡そうと、差し出された手に乗せた瞬間、コツンと桃田の付けている幅の太い指輪に俺の指先が当たり引っかかる。その拍子に指を滑らせたことで、桃田の指に触れてしまう。

「あ、ごめ……」

 桃田は新しいものを触った猫みたいに一気に腕を引いた。

「おっとっ……」

 手を離されバランスを崩した絵本を反射的に抱え直す。
——そんなに嫌かよ……
 今度は落とさぬようそっと机に置き、最初からこうすれば良かったと思う。
 浅く首だけで礼をする桃田に返事くらい言えよと、ふいと目線を動かす。
 桃田の耳がほんのり赤らんでいる気がした。
——なんで?
 顔色を変えるほどの俺のこと嫌いなのか?
 よく話したことのない桃田にそのような態度を取られ、ちょっと凹んだ。
——桃田にどう思われてもいいはずなのに、なんでだ?
 自分の気持ちに疑問に思いながらも考えることは放棄する。
 まぁいい。降りたついでに、退部届にサインしてもらおうとカバンを開けてファイルを取り出したが、その時にはもう遅かった。桃田は絵本を読み始めており、また話しかけることに躊躇する。
——桃田だからではない。好きなことしてるの人の邪魔はしたくない。
 暇を持て余し、課題でもやるかと思い立つ。
 人数よりも多く用意された椅子に腰掛けると、適当に持ってきたワークとノートを取り出した。
 ノートの表紙には丁寧に『数学』と教科名を記し、下部には『ハレ』と全ての最後を跳ねさせたように殴り書きされている。先生含めて『ハレ』と呼んでいるために、フルネームでなくても皆、分かるからだ。
——さて、やるか。
 お互いがお互いのことを気にすることなく、ただ同じ空間を共有する時間がのんびりと流れる。シャーペンがノートを走る音と俺の上履きが純木の床を擦る音が加わった。

 文芸部に一年生の時から在籍はしていたが、まともに部活に参加したのは最初の二週間程度。行かなくなってからは、部活のない友人に合わせて放課後に遊ぶ日々が続いた。しかし、周りに合わせて遊んで話して……二年生に上がる直前、一年生の最後には愛想笑いすることにも疲れを感じ始めた。猫をかぶるのは一年間も持たないと思い知らされた。
——器用になれたらいいのに。
 思い出したように部活に行ったときには、先輩はもちろん後輩は一人もおらず何人かいたはずの同級生もいなくなっていた。
 いるのはいつも桃田一人で、突然来た俺に話しかけるわけでも不思議そうにするでもなくただ、空気のように扱われた。それが、むしろありがたくもあり、この教室が開錠されると、行くことが多い。

 人が減った理由に桃田があるかもしれないと推測する。桃田の噂は酷いものなのだ。
 見た目のせいで良くないことをしていると。
 付けられたあだ名は『二年三組の不良』。この何年何組は去年の一年二組から変わっていっている。ちなみに、別のクラスではあったから同じクラスは今年が初めてだ。
 学校終わったらすぐ帰るのはヤバいバイトをしてるとか関わったら大学に行けないとか、言われたい放題。それを本人が否定しないせいで、あっという間に広まった。
 しかし俺はそんな噂、一つも信じてはいなかった。
——そもそも放課後はここにいるし……
 二年生の初めの頃聞いた噂の一つに、公園で桃田のことを目撃した生徒が、絵本を小さい子から取り上げて泣かせていたとかいう噂を流したこともあった。
 大方、桃田が自分の絵本を持って公園にいたところ小さい子と鉢合わせたとかそんなものだろう。これが間違いなことくらい一瞬で見抜き、あまりにも可笑しくて笑ってしまったのはよく覚えている。久しぶりに思い切り笑えた感じがしたから——バカらしくて笑うなんて最低かと、我に返り、複雑な感情になったことも含め新鮮な感覚だった。

 桃田の部活での姿を見ればそんな噂が、あり得ないことくらい理解できる。
——桃田と絵本て、何も知らなかったら勘違いされてもおかしくないけど……
 まぁ、なぜ毎日絵本を読んでいるのか疑問に思っても質問したことはないが、俺に至っては活動をしていないので聞く理由さえなかった。
 どうせ幽霊部員も今日で最後だ。
 もう一度、ファイルから退部届を引っ張り出す。
——もう好きなものを作らないようにしてたのに、なんでわざわざ部活に入ったんだっけな。
 入部届を書いていた時のことを思い返す。校内に慣れず道に迷って偶然この部室を通過したときに、黒髪の清楚な男の子が目に入って……あぁ、それで「キレイだ」と思ったときには文芸部と書いていた。
——あまりにも不純な動機だ。
 もちろん、その人ももういない。というか、しばらくは通ったが探しても見つからなくて幻だったと思うことにした。
 面倒で退部届は出してなかったけど、嘘まで言って続けるよりはマシだ。
 桃田の横に積み上げられた数冊の絵本。最上部から、絵本をそっと一冊手に取った。
——なんだ。何も言わないんだ。
 俺がこんなことをするのは初めてだが、特に気にする素振りを見せない桃田に心の隅で落ち込んだ何かに違和感を覚えたのは、気づきたくなかった。
——考えるのが増えるのは好きじゃない。
 違和感程度の自分の気持ちを考えても無駄だと無視をする。

 絵本なんて何年振りだろうか。
 絵本は世界を初めて知ったみたいで好きだったな。
 家では、父が帰ってきたら読み聞かせてくれて姉と兄と一緒に一つの絵本を覗きこんだことをよく覚えている。もうあの日のように家族が集まることはないのだろう。
 表紙を眺めるだけでコソッと積み上げられた絵本の最上部に返した。すると、桃田が顔を上げてこちらを仰ぎ見る。

「……榊晴天(さかきさにー)は、絵本を読むのか?」

——読み方知ってる人いたんだ。
 話しかけられたことより名前で呼ばれたことに衝撃を受けた。と同時に何故か心がくすぐられる。
 晴天を英語のサニーと無理やり読んでいる本名。中学までは丁寧に言っていたが面倒になったため高校からの自己紹介では言わないようにしていたのだ。だからこそ、桃田に本名で呼ばれたのにはひどく驚いた。

「なんでフルネーム⁇ 呼ぶなら“ハレ”って呼んでほしい」

 さらに桃田にならハッキリと物事を言ってしまう自分に驚かされる。というか、愛想笑いができなかった。クラスメイトに何か言われても笑って誤魔化すのに、桃田のまっすぐな瞳にそれを阻止されたのかもしれない。

「絵本は読むか?」

 俺の願いを聞こえなかったように扱い、圧をかけるようにゆっくり一音、一音をハッキリとした口調で聞いてくる。俺は大きなため息と共に答えた。

「読まない」
「なんで」

 キレのある言い方で短く言われ、ゆっくり動いていた俺の思考が早くなり頭によぎったのは父と姉、兄のこと。
 読み聞かせ自体は好きだったし、絵本も嫌いじゃなかったけど、父を思い出すことでいろんな感情が混ざり嘘をつくには十分だった。

「……っ読んだことない」
「なんで?」
「逆になんでよく知りもしない人に理由を言わなきゃいけない?」

 嘘ついたことがバレた? わざと言った突き放す言葉に、シンとした空気が流れる。そのまま桃田は開いたままだった絵本を黙読し始めてしまった。
——今のは俺が悪いのか?
 いや、そもそも絵本を読まない理由なんてどうでもよくないか? どうでもいいと思っているクセに軽い気持ちでも言えなかった自分に戸惑う。
 チラッと桃田の方へ視線を動かす。桃田のページを捲る音が早くなったように感じた。
——桃田にも何か理由があって聞いた?
 そんなわけないか。初めて言葉を交わしたというのに深読みしすぎたと、短くため息ついた。
 程なくすると読み終えたのか、パタンと裏表紙を閉じる。その音を境に、時間を巻き戻したかのように話し出した。

「……みんなが“ハレ”と呼んでいるのは知ってるつーの」
「え? あーそりゃあね。ずっとそうだし、俺の下の名前まともに読める人のほうが少ないよ。だから……」
「さっくん」
「は?」

 唐突に、言われたこともないだ名で呼び始める桃田に素っ頓狂な声を出してしまった。

「みんなと同じとか、性に合わねー」
「いやいやいや! やだよ!」
「さかきさにー。上の名前も下の名前も“さ”から始まるんだったら、さっくんが丁度いいんじゃね?」

 淡々と分析して話す桃田に声を大きくして反発する。

「丁度いいって何⁉︎ そういう桃田だって、サトルだからさっくんって呼ぶぞ⁇」

 嫌だろ? と言わんばかりのドヤ顔で脅してみせる。顔真っ赤にして怒るだろうという考えとは裏腹に冷静に返される。

「俺が先に言った。それに、“さ”が多いのはさっくんだろ」

 早速さっくんと呼ぶ桃田が二対一と、指を折って見せつけてくる。

「えー……」

 理解はできても納得のいかない俺は絵本を乱雑に手に取ってペラペラと流し読みする。

「俺、絵本って好きなんだ」
「ふーん」

 突如話し出した桃田に興味を示さない言い方で答えた。しかし心の中で答えていた言葉は真逆だ。
——わかる。絵本は面白い。

「子供のときは、俺の気持ちを代弁してくれてるみてーだった」

——うん。よく知っている。

「今読むと、母さんが読み聞かせてくれた声を思い出すんだ」

 嬉しそうに一冊の絵本を手に取り、また次の絵本を読もうとした。
 その動きを猫のように追う。
——読み聞かせてくれた父の声とはしゃぐ兄と俺の声、はしゃいでうるさくする俺たちを止める姉の声。どれも鮮明に覚えている。
 しかし、初めて話す相手にここまで素直になれるとか、理解できない。俺は興味のないフリを続ける。高校生で親の話とか、普通恥ずかしがるだろ。
 どこか大人びて見える桃田に、俺は苛立ちを覚えたのかもしれない。
——それに、話かけてきて一方的に終わらせられたのも気に入らなかった。

「桃田が絵本が好きなことを、俺が言いふらしたらどうするつもりだ?」

 絵本の表紙を捲る直前、すなわち絵本の世界へ飛び込もうとする瞬間に話しかけたのは我ながら性格が悪いと思う。
——だって、読みたくて開いたんだろうから。

「別に。どちらにせよ、俺に話しかける奴はいねーから」

 またすぐに絵本に戻っていく。
 常に一人でいる桃田にとって、絵本を読めなくなることがないらしい。
 いつも見ているからなんとなくわかってきた。桃田は何周も何周も、研究するみたいに絵本を読むことを繰り返していた。
 新しい絵本のときもあるけど、それは本当に時々で基本的にある絵本を読み返しているのを見かけることが多い。
——なんだよ。
 俺の頭の中ではどうして絵本を読むの? とか、絵本のどこかいいの? とか、そんな過程をすっ飛ばしていた。

「そんなに好きなら——絵本、描いてみれば?」

 何を思って言ったのか口から溢れた言葉を掬い上げることもできず、ただ桃田に流れていく。
 すると桃田は即座に反応した。

「絵本を描くって誰が?」
「桃田と話しているのに他に誰がいるんだ?」

 揚げ足を取って返す。
 それなのに嫌な顔をするどころか、少し瞳が輝いた気がした。
——普通、嫌な顔するだろ。

「じゃあ、さっくん俺に読み聞かせてみてくれね?」

——“じゃあ”の意味がわかんない。

「嫌だ」
「……実は俺、漢字読めてねーんだよ」
「は? 今までどうやって読んでたんだ?」
「あー……絵本ってイラストあんだろ? それ見て、この漢字の大体の意味を予想してた」

 絵本だったら常用漢字しか使用されていないはずだ。あからさまな嘘だということは頭の片隅では分かっていた。
 それなのに、手渡された絵本に思わず手を伸ばして受け取る。表紙に描かれたクレヨン調のイラスト。中間辺りを雑に開いた。
——読み聞かせなんて誰が読んでも同じだろ。

「やっぱ嫌だ」
「なんで」
「漢字読めないのは嘘だろ? 現文の授業で読み上げてるの聞いたことあるし」

 現代文の授業では、取り上げている作品をひとりずつ区切って声に出して読み回すのだ。教科書にある文の漢字の方がよっぽど難しい。
 ひと呼吸置いて「バレたか」とバレても何とも思ってなさそうに笑いもしない桃田が理解できない。
 いつも連んでいる奴らだったら、「冗談に決まってるだろ!」と面白くもないのに笑うから、俺も遠慮なく笑い飛ばせる。でも、桃田にはそれができなかった。

「そうだな。さっくんがいったように俺は漢字を読める。咄嗟についた嘘だった」
「わかりきった嘘をなんで……」
「現文でさっくんの声聞いた時に、この人に読んでもらいたいって直感で思ったんだよ。だから頼んでみた」
「それならそう言えばよかったのに」
「言ったらやってくれたのか?」

 困ったように眉をハの字にする桃田に言葉が出なくなる。俺が断ることくらいわかっていると言わんばかりの口調が、俺のことを理解していると捉えられて……くすぐったくて嫌じゃないのにムカつく。
——話したのなんて今が初めてなのに、なんでそんな言い切れるんだよ。

「騙して悪かった」

 嘘をついてまでして、俺が読み聞かせてもらいたいのは本当に俺の声がいいと思ったからか?
 でも頼られてるみたいで心の底からやりたくないと言ったら、嘘になる。
——ただ、なんとなく気が向いただけだ。

「……一回だけな」

 俺は、絵本を自分に向けて開き、少し声を高くして読む。その方が声が通る気がするからだ。
 ひらがなの多い絵本は馴染みがなく逆に読みづらい。時々出てくる漢字は、ふりがなまで丁寧に振ってあった。
——漢字読めないって言ってまで俺に読ませようとしてた意味が、ますます分からない……
 数分で読み終わったあとの沈黙が恥ずかしくなって、急いで絵本を戻そうとする。

「やっぱ、センスあんじゃねーか」

——センス……
 その言葉に敏感になっていた俺は戻そうとした手が固まる。

「……あっそ。読み聞かせはもうしない」
「あ……センスとか言って悪かった。ただ俺は本当に良いと思って……初めて読んだと思えなかったんだ」

——な、んで、俺がセンスという言い回しに不機嫌になったって思ったんだ?
 読み聞かせをさせたことについて謝るではなく、針に糸を通すように的確に言う桃田に見透かされている気がして、下唇をグッと噛む。

「別に怒ってないから謝んないでよ」
「わかった」

 また短い沈黙を挟む。

「ところで、さっくんはなんで俺に絵本描いてみればなんて言ったんだよ」
「……さぁ。読むだけじゃなくて自分で描くのもいいんじゃないかなって思っただけだよ」

 嘘は言っていない。ただ本音も言えていない気がする。何かが俺の中で引っ掛かっていたが言葉にはできなかった。
 俺の曖昧な返事に対し、桃田は不思議そうにしながらもキッパリと言い切る。

「ふーん? そう。じゃあ絵本、作る」
「……いいんじゃない?」

 自分の提案を受けて誰かが前に進もうとする姿を目の当たりにすると、言って良かったと安堵の気持ちが湧いた。反面、心の奥底で黒く靄がかった。
 これから桃田はこの場所で絵本を描いて、俺はボーッとする時間を過ごすのだろう。
 すると、桃田が切り替えたように衝撃的な事実を口にする。

「ま、今週で文芸部は終わりだけどな」
「……は?」

——は? 何も聞いてないんだけど……

「顧問いねぇんだよ。さっきさっくんが退部届だそうとしていてたのは見えていたけど、意味ねぇんだよなーって思ってた」
「な、に、別に辞め…………顧問いただろ」

 辞めようとしていたことを言ったところで知られているのに、唐突になかったことにしたくなった。
——なんで今、言うのをやめたんだ?
 たった今動いた自分の感情の変化に置いてかれる。

「あのおじーちゃん先生、今月いっぱいで退職すんだよ」
「誰も後任いないのか?」
「やりたがらねぇよ」
「……へー」

——桃田がやると言ったのは、文芸部で絵本を作れないことが分かっていたからわざと言ったということか。
 そんな軽い気持ちで俺に読み聞かせも頼んだとか、許せない。
 苛立ち? 悔しい? ……寂しい?
——意味分からない。どうでもいいだろ。絵本も文芸部も、桃田だって……

「明日が最後だな。この教室も使えなくなんぞ。だから……」
「あっそ。帰る」

 乱暴にスクールバックを手に取り、桃田との会話を強制的に切って向かった先は昇降口とは反対に位置する職員室。
 扉から目的の先生を探す。
——いた。

「増先、今いい?」

 タメ口で言うときは急用。これは俺と増先の間で決めた合言葉みたいなものだ。増田先生を増先と略すのは俺だけではないので重要なのはそこではない。実は、増先の彼女が俺の姉なのだ。兄のように慕っていた増先の勤務先を知らないままこの学校に入学したときは、ひどく驚いたのを覚えている。
 入学後はいくつか決め事をした。学校では知らないフリをすること。そして急ぎの用がある時があったら、お互いタメ口で話しかけること。というものだった。
 増先が即座にPCを閉じて、俺へ向く。

「廊下出る?」
「ここでいいっすよ」

 砕けた敬語で返答し、急ぎ口調で要件を話す。

「名前貸して」
「はい⁇⁇」
「あ、今肯定しましたね。ありがとうございます」
「待ってください! 突然何ですか……」

 どんなに仲が良くても無理かと、とりあえず話題を少しずらしてみる。

「部活って何人いればいいの?」
「申請時は顧問と五人以上かな。その後は一人になったら廃部になりますよ」
「人数はいいのか……」

 「何の話ですか?」と、焦る増先を置いていき、勝手に話を進めようとする。

「じゃあ、ここに名前書いてハンコ押して」

 裏紙に即席で作った『文芸部の顧問の後任をします。』と、雑な文字で書いた紙を突き出す。

「こらっ。“じゃあ”ってなんですか」

 しかし、すんなりとはいかないどころか手を腰に当てた増先に子供に叱るみたいに怒られた。
 誰かさんの影響で、“じゃあ”なんて話を無理やり曲げることを覚えたのかもしれない。そっぽを向いた俺に、一段とゆっくりと言葉を放たれる。

「理由、ちゃんと言いなさい。何の理由もなくこういうことしないでしょ?」

——理由……

「俺だって、わかんねぇよ……」

 一気に押し寄せた色んな感情に押しつぶされそうで、目頭が熱を持つ。
——考えたってわからない。文芸部がどうなったっていいはずなのに……
 俺らの話が聞こえていたのか、隣にいた先生がこちらを見下げるように笑い、横入りして言う。

「増田先生、文芸部の顧問はやめておいた方がいいですよ?」
「……どうしてですか?」
「問題児がいるんですよ。それにさ、君もう辞めるのに何やってるのさ。その退部届は代わりに出しておいてあげるから」

 急足で部室を出たせいで退部届をしっかりとしまい切れていなかったのだ。ファイルから飛び出したそれを瞬時に引っ込める。
 その様子を見た増先が、大人みたいに言う。いや、実際大人なのだが、兄のような存在のせいでこういうとき本当に“大人の人”だと実感させられるのだ。

「ここは僕に任せて。帰っていいよ」

 増先に言われるがままに、学校を後にした。

 次の日、実際になくなったかどうかは確かめられる術は山ほどあったが、聞くのが怖かった。怖いというのもよく分からなからない感情だ。
——もしなくなったら? 俺が暇潰せる場所がなくなるだけ……なのに怖いってなんだ?
 どうせ辞めるつもりだった文芸部。退部届を出せば、帰宅部であることを満を持して言えるのに、心の奥底の何かに止められた。
 考えようとしても思考に拒否され、『いつも通り』を決行する。放課後には桃田が教室を出たことを確認してから俺も部室へ向かった。

「今日来ねーかと思った」
「俺が来ても来なくても変わらないだろ?」
「……俺にとっては変わんだよ」
「なんだそれ」

 桃田と話していると解けない問題を突きつけられている気分にさせられることが多くなり、疑問が積み重なる。しかし、今日で終わる関係に俺はそれを解消する気はなかった。
——終わり。終わるのか。
 他愛もない会話を交わして、桃田は絵本を読み、俺はボーっとする。なんだか落ち着かず、机に伏せながらスマホ越しに桃田を眺めていた。
——桃田って、かっこいいけど、キレイに近いよな。
 鼻筋は通っているし、骨格が浮き出る頬……って何考えてんだ。俺は、スマホに視線を移した。
——なんだこれ……
 部活の終わりを知らせるチャイムが鳴り、教室を出る。昨日までの俺たちの関係性だったら、先に帰っていたが全く話さないわけでもないので桃田が鍵を閉めるまで待つことにした。

「部活が終わる時ってこんなにあっさりしてんだな」
「……そうだな」

——やっぱり廃部になるのか。
 部室のキーに付けられた文芸部のネームプレートを外そうとしたときだった。

「ごめんごめん。もう終わったよね? 会議長引いちゃって……」
「増先っ!」
「一応挨拶だけしておこうかと思ったんだ」
「えっと……」

 何の話か分からないという顔をする桃田は、俺と増先の顔を交互に見る。

「数学の増田です。明日付で文芸部の顧問になりました。いやぁ、ハレくんに名前だけ貸せって言われた時は驚きましたよ」
「そんな言い方したっけ」

 シラを切ってなかったことにする俺に対し、唖然とする桃田は、驚きながらも絞り出すように声を出す。

「お前って誰にでもいい顔してるやつじゃねーの、か?」
「言い方……」
「あー……実はハレくんのお姉さんとお付き合いさせていただいてるんですよ。その関係でハレくんの少し素直じゃないところも知ってると言いますか……あ! この話は秘密でお願いしますね。特に何かあるわけでもないですけど、贔屓してるとか思われたら……」
「増先しゃべりすぎ。実際に贔屓はされただろ」

 呆れながら言うと、増先は真剣な眼差しで俺らに視線をゆっくり合わせてから口を開いた。

「贔屓というか……やりたいことがあるのに、顧問がいないからできない。諦めるしかないなんて先生として助けたいと思っただけですよ」
「増先……」

 俺は増先のこういう生徒としてしっかり見てくれるところを本当に尊敬している。
——増先がいて良かった。
 そして、増先は続ける。

「それに生徒のことを見ずに、嫌だから断る先生方の方が俺は理解できない!」
「おい」
「あ! 違う、嫌って言うのはその……」
「いえ、わかってるので大丈夫です。顧問になってくださりありがとうございます」

 俺に対しては乱暴な物言いなのに、増先に対しては丁寧な挨拶をする桃田。
——俺にも丁寧にしてくれよ。
 悪い子じゃないと思ったのか、満面な笑みを見せる増先は満足そうに来た道を戻っていった。
 部室の前に残された俺らは、帰る以外に選択肢はない。
——廃部にならなかった。『めでたし。めでたし。』だ。
 俺は心の安堵に戸惑いつつも、一歩踏み出そうとした瞬間だ。
 桃田にブレザーの裾を引っ張られる。

「さっくん」
「……何?」
「部員は何人で申請したんだ?」
「顧問変わるだけなんだから部活の申請はいらないだろ」

 少しの間考え込んだ桃田に、もう一度、問われる。

「言い方間違えた。さっくんも部員か?」
「……この学校、一人になったら廃部になるらしいよ」

 遠回しに言った。
——なんで桃田の前だと素直になれないんだ……クラスメイトと同じように笑って「当たり前だろ」って答えればいいだけのに……
 すると横にいたはずの桃田が俺の片方の肩だけを軽い力で押す。力のかかった方へバランスを崩したところを見計らったように、部室の扉の方へさらに押された。
 俺は咄嗟に手を背中へ回し扉との距離を測ったおかげで、強打することはなかった。しかしホッとしたのも束の間、顔の横に手を付けられ、扉と桃田の間に挟まれた俺は身動きが取れない。
——なん、だ?

「また言い方間違えたか? 二人なの?」
「あぁ、そうだよ! もういいだろ。どいて……」

 ところが一向に退く気配のない桃田を見上げる。
——顔、ちか……
 俺を見下げる桃田の瞳にかかるまつ毛がよく見える。以外と長くて遠目では見えていなかった下まつ毛も長さがあった。
 まじまじと見ていると桃田の低くて腹の底から感情を抑えるように出された声で聞かれる。

「その一人はさっくん?」
「……俺以外が文芸部に入るなら廃部にさせてる」

 桃田は目を細めて口角を上げ、何かを噛み締める笑顔を見せた。
 初めて見る顔。
——嬉しい? のか?
 そして言葉の真意を、発言した俺さえ理解できなかった。
——俺以外が文芸部に居たっていいだろ……部活なんだから。
 『俺以外』を考えたら心の奥にモヤモヤが溜まっていく。加えて、桃田が笑った表情に戸惑いを隠しきれない。

「なんだ、これ……」

 大きく脈打つ心臓の音が身体中を揺らした。