俺の些細な一言で学校1のヤンキーが絵本を描き、俺が読み聞かせをすることになった。

 挑戦すればなんでもできる。チャレンジしたモノが上達するのが楽しくて、好きだと直感で思ったものもそうでないものも、物怖じせずに挑戦してきた。
 なんでもできるなんて思っていたのは自分だけで、俺は勘違いしていただけだった。

 中学の部活がきっかけで始めたサッカー。
 体験入部した時からこのスポーツ楽しいかもと思い始め、気づけば部活の時間が楽しみになるほどサッカーが好きになっていた。少しでも早く朝練を始めたり、練習試合でゴールを決めきれなかったら反省して練習方法を模索したり……充実した日々だった。
——サッカー好きだな。
 しかし、チームメイトからかけられた一言で楽しいも好きも一変する。
『何て言うか、見本通りって感じ』
 一緒に頑張ってきたはずの仲間からかけられた一言。1人が言ったらシミが広がるみたいにジワジワと1人、また1人言葉を変えて俺に降りかかる。
『センスあるからできると思ったから任せたのに、いつまでも変わらないね』
 頭の上から氷水をかけられたみたいに体が凍りついた。同時に、目が覚めた。
『サッカー好きとか嘘じゃない?』
 好きだと思って始めたサッカーを、終いには笑われる始末だった。
——あぁ、俺何やってんだろうな。

「俺、サッカー好きじゃないみたいだ。……辞める」

 ジクジクと自分が放った言葉が腹の奥底で広がる。
 好きなモノを否定したら心が重く、窮屈で苦しい。
 引き換えに他人の視線は軽くなった。

 好きなモノを否定したくないのに、否定してしまった罪悪感から虚無感に変化し、何かを始めようとしても幻想にブレーキが踏まれるみたいに踏みとどまってしまうようになった。
——また自分で自分を否定したら?
 そうだ。否定しないように何もしなければいいんだ。
——もう頑張りたくない。どうせセンスがどうとか言われてしまうのだから。

 俺は何でもできるけど、何も学んではいなかったことを思い知らされた中学2年生の夏だった。



「またね、ハレくん!」
「ハレー、明日な」

 父方の苗字、父が付けた名前。父は街中でスカウトを受けたことから俳優業に専念サラリーマンを辞めた。そのせいで家にはほとんど帰ってこず、母と姉、そして兄の負担を増やした父が好きではなかった。だから、名前を無理やり『ハレ』と読んでいる。と言うのも漢字では晴天と書くが、読み方は皆が呼ぶ『ハレ』ではない。
 入学して初めの自己紹介で「気軽にハレって呼んでね」と、あだ名を言って終えばこっちのもんだ。皆、違和感を持つことなく呼んでくれている。

「今日顧問来る日じゃん!」

 1人が焦りを見せると伝染するように、カバンを持ち始める。

「ハレはいいよなー。帰宅部で」
「ははっ。そうだろ?」
「始業式だけだと思ったのに、部活あるのマジダルい」

 自分で入部を決めたのに、なぜ羨まれるのだと反発したくてもこの場で言える性格ではない。嘘をついてまで合わせた答えと愛想笑いに自分を隠す。

「がんばれ」

 派手な金髪。目鼻立ちのはっきりとした整った顔立ちをしている自覚を持っている。平均身長のはるか上をいく178センチ。誰も俺が所属する部活を知らない。
 口々に別れを告げ、教室を出ていくクラスメイトを見送る。テニス部。サッカー部。バドミントン部……。各々の活動場所に散らばる。
 その隙間を縫うように教室を出て行った運動部に紛れても頭ひとつ抜けている背の高いクラスメイト。ダルそうに片手にカバンを持ち、後ろ姿でも制服が気崩されてることがわかるほど、腰まで下ろされたズボンと飛び出たワイシャツは周りと一線を画していた。一言で表すならヤンキーという言葉がよく似合う見た目をしたクラスメイトは、知らない人が見たら俺と同じく帰宅部だと思うだろう。俺はその背中を目で追った。

「ハレは帰るの?」
「あー……多分? そんな感じ」
「なんだそれ」

 笑う友人たちが教室を出ていく。それを横目にスクールバッグに持ち帰っても勉強はしない教科書類を詰める。
 最後にA4ファイルをカバンにしまう前に『退部届』と書かれた紙がファイルに挟まっているのを確認してチャックを勢いよく閉めた。
——俺も行くか。
 3年生の教室が揃う4階から階段をノロノロと降る。2階まで降りて、連絡通路を渡る。
 渡ると2号館に入ることができ、こちらにもいくつもの教室が並んでいた。

「ハレくん! 帰り?」
「そんなとこ」

 教室と廊下を隔てる窓から顔を出してまで声を掛けてくるよく知らない生徒に否定も肯定もせず返事する。複数の教室の前を通り抜け、その先の階段で1階に降りる。そして屋外の廊下を奥へ進むと、別棟に到着した。迷路のようなこの学校も今では慣れたものだ。
 この別棟にある一室こそが、俺が所属する文芸部の活動場所だった。
 ガタガタと、立て付けの悪い音をさせながら扉を開く。
 開け放った教室には決まって先客がいた。

 真ん中に長机と複数のパイプ椅子。扉に一番近い椅子で黙々と絵本を熟読する男。
 同じ学年、況してや同じクラス。そして、先ほど教室を出て行ったことをわざわざ確認した桃田サトル(ももたさとる)だ。黒髪に赤いメッシュが入っている。耳にはピアスは数えるないほど空いているし、座っていて高い身長が低く見えるほど腰まで下げられた制服のズボンと、ところどころ飛び出したワイシャツからゴツゴツとしたベルトが見え隠れしている。
——あんなベルトどこで見つけるんだ。
 挨拶をすることも桃田が顔を上げてこちらを気にすることもない。

 この教室にいると静けさの中に運動部の掛け声と、遠くで吹奏楽部が楽器を奏でる音が聴こえる。
 まさに高校にいるという感情に浸れるこの場所は居心地がいい。居心地がいいと言ってもどこか気まずさを感じて、桃田から離れた一番遠い椅子にカバンを置く。
 チラリと、視線だけ動かす。
——あんなに真剣な顔だと、話しかけづらいな。
 俺は今日、文芸部の部長である桃田に退部届へ承認のサインをもらうために部活に来た。特に急いではないので桃田が一段落するまで待つことにした俺は、窓のサッシに腰掛けてスマホでゲームを起動する。
 そして、スマホ画面に顔を向けながら横目で桃田の様子を確認する。
——たかが絵本なのに真剣な顔。
 机と垂直に近い形で本を開き、本と同じ高さにまで椅子から身体を滑らせ足を伸ばしながら読んでいる。見ているだけで身体が痛くなる体勢にもかかわらず、切れ長の二重は真剣そのものだ。
 まっすぐと微風がカーテンを揺らす。カーテンよりも重いネクタイも一緒に揺れた。周りは田んぼと畑と山に囲まれた私立高校。最寄駅に設定された駅からは徒歩30分。入学を決めた後に知り、本当に最寄りなのかと疑いたくなった。
 その別棟にある、校庭からも本館からも離れた一室にポツンと佇む文芸部。在籍者は、たったの2人。俺も人のことを言えた話ではないが、桃田の見た目から文芸部に所属していそうにもないが、正式に部長が桃田だ。必然的に俺が副部長になっているも副部長らしいことはひとつもしたことはない。
 紙と紙が擦れる音。小説や漫画の単行本より2回り以上も大きく少し分厚めの紙は低い音をさせて捲られる。
 桃田が一定の感覚で捲る紙の音は嫌いではない。むしろ耳心地がいい。
 ふと、二重の溝に挟まれたセンターパートにされた前髪が気になって、スマホ画面を消すと鏡代わりにして指先で整える。
 染め直すか。
 地毛との境目がハッキリとわかるまで伸びた金髪。たった数センチ伸びただけではあまり気にならないと言われるほど明るい地毛でも、自分自身が気になってしまうからメンテナンスは欠かさない。

『バサバサッ』

 大きな音が響いた。音のする方を見ると、桃田が積み上げていた絵本を床に落としていた。形も大きさも不揃いな絵本をバランスなど気にしない無頓着な桃田が積み上げたからだ。
——いつかやると思ってたよ。
 自業自得だとは心で思っていてもここで見て見ぬふりをするわけにはいかないと、窓のサッシから軽々と降りる。

「はい。これで全部?」

 浅く首だけで礼をする桃田に返事くらい言えよと、思ってしまう。
 大きな態度をする桃田を気にしても仕方ない。それよりも降りたついでに、退部届にサインしてもらおうとカバンを開けてファイルを取り出した。
 しかし、その時にはもう遅かった。桃田は絵本を読み始めており、また話しかけることに躊躇する。
——桃田だからではなく好きなことしてるの人の邪魔はしたくない。
 暇を持て余し、課題でもやるかと思い立つ。
 人数よりも多く用意された椅子に腰掛け、適当に持ってきたワークとノートを取り出した。ノートの表紙には丁寧に『数学』と教科名を記し、下部には『ハレ』と全ての最後を跳ねさせたように殴り書きされている。先生含めて『ハレ』と呼んでいるために、フルネームでなくても皆分かるからだ。
——さて、やるか。
 お互いがお互いのことを気にすることなく、ただ同じ空間を共有する時間がのんびりと流れる。シャーペンがノートを走る音と俺の上履きが純木の床を擦る音が加わった。
 1年生の時から在籍はしていたが、まともに部活に参加することはなく放課後は部活のない友人に合わせて遊んでいた。3年生になって愛想笑いすることにも飽きてきたと感じたために、思い出したように部活に行ったときには先輩はもちろん後輩は1人もおらず何人かいたはずの同級生もいなくなっていた。
 いるのはいつも桃田1人で、突然来た俺に話しかけるわけでも不思議そうにするでもなくただ、空気のように扱われた。それが、むしろありがたくてこの教室が開錠されると、ここに来ることが多い。

 それにしても桃田の噂は酷いものだのだ。
 見た目のせいで良くないことをしていると友人からよく聞く。付けられたあだ名は校内1のヤンキーや関わったら大学に行けないとか言われたい放題。それを本人が否定しないせいで、あっという間に広まった。
 しかし、俺はそんな噂1つも信じてはいなかった。1年生の頃に聞いた噂の1つに、とある放課後に公園で桃田のことを目撃した生徒が絵本を小さい子から取り上げて泣かせていたとかもあった。大方、桃田が自分の絵本を持って公園にいたところ小さい子と鉢合わせたとかそんなものだろう。これが勘違いなことくらい一瞬で見抜き、あまりにも可笑しくて笑ってしまったのはいい思い出だ。
 なぜ、毎日絵本を読んでいるのか疑問に思っても質問したことはない。俺に至っては活動をしていないので聞けるわけなかった。
 どうせ幽霊部員も今日で最後だ。
 もう一度、ファイルから退部届を引っ張りだす。
——もう好きなものを作らないようにしてたのに、なんでわざわざ部活に入ったんだっけな。
 桃田の横に積み上げられた数冊の絵本。最上部から、絵本をそっと1冊手に取った。
——なんだ。何も言わないんだ。
 俺がこんなことをするのは初めてだが特に気にする素振りを見せない桃田に心の隅で落ち込んだ何かに違和感を覚えたのは、気づきたくなかった。
——考えるのが増えるのは好きじゃない。
 違和感程度の自分の気持ちを考えても無駄だと無視をする。

 絵本なんて何年振りだろうか。
 絵本は世界を初めて知ったみたいで好きだったな。
 家では、父が帰ってきたら読み聞かせてくれて姉と兄と一緒に1つの絵本を覗きこんだことをよく覚えている。もうあの日のように家族が集まることはないのだろう。
 表紙を眺めるだけでコソッと積み上げられた絵本の最上部に返した。すると、桃田が顔を上げてこちらを仰ぎ見る。

「……榊晴天(さかきさにー)は、絵本を読むのか?」

——読み方知ってる人いたんだ。
 話しかけられたことより名前で呼ばれたことに衝撃を受けた。晴天を英語のサニーと無理やり読んでいる本名。バカにされてこなかったわけではない。幸い周りの人もキラキラネームと呼ばれる名前が何人かいたから多少は紛れられたのだと思う。それに他人に気を遣わせることが悪い気がして、高校からの自己紹介では言わないようにしていたのだ。だからこそ、桃田に本名で呼ばれたのにはひどく驚いた。

「なんでフルネーム⁇ 呼ぶなら“ハレ”って呼んでほしい」
「絵本は読むか?」

 俺の願いを聞こえなかったように扱い、圧をかけるようにゆっくり1音1音をハッキリとした口調で聞いてくる。俺は大きなため息と共に答えた。

「読まない」
「なんで」

 キレのいい言い方で短く言われ、ゆっくり動いていた俺の思考が早くなり思い出さなくてもいいことを思い出した。

「……っ読んだことない」

 一瞬、頭によぎったのは父と姉、兄のこと。思い出したくない記憶として刻まれた俺にとって嘘をつくには十分だった。

「なんで?」
「逆になんでよく知りもしない人に理由を言わなきゃいけない?」

 わざと言った棘のある言葉に、またシンとした空気が流れる。そのまま桃田は開いたままだった絵本を黙読し始めてしまった。
——今のは俺が悪いのか?
 いや、そもそも絵本を読まない理由なんてどうでもよくないか? どうでもいいと思っているクセに軽い気持ちでも言えなかった自分に戸惑う。
 チラッと桃田の方へ視線を動かす。桃田のページを捲る音が早くなったように感じた。
——桃田にも何か理由があって聞いた?
 そんなわけないか。初めて言葉を交わしたというのに深読みしすぎたと短くため息ついた。
 程なくすると1冊読み終えたのか、パタンと裏表紙を閉じると、時間を戻したかのように話し出した。

「……みんなが“ハレ”と呼んでいるのは知ってるつーの」
「え? あーそりゃあね。ずっとそうだし、俺の下の名前まともに読める人のほうが少ないよ。だから……」
「さっくん」
「は?」

 唐突に、言われたこともないだ名で呼び始める桃田に素っ頓狂な声を出してしまった。

「みんなと同じとか、性に合わねー」
「いやいやいや! やだよ!」
「さかきさにー、上の名前も下の名前も”さ”から始まるんだったら、さっくんが丁度いいんじゃね?」

 淡々と分析して話す桃田に声を大きくして反発する。

「丁度いいって何⁉︎ そういう桃田だって、さとるだからさっくんって呼ぶぞ⁇」

 嫌だろ? と言わんばかりのドヤ顔で脅してみせる。顔真っ赤にして怒るかするのだろうと、そんな考えとは裏腹に冷静に返される。

「俺が先に言った。それに、”さ"が多いのはさっくんだろ」

 早速さっくんと呼ぶ桃田が2対1と、指を折って見せつけてくる。

「えー……」

 理解はできても納得のいかない俺は乱雑にさっきまで桃田が読んでいた絵本を手にとる。その様子を見た桃田が話し出す。

「俺、絵本って好きなんだ」
「ふーん」

 興味なさそうに答えた。しかし心の中で答えていた言葉は真逆だ。
——わかる。絵本は面白い。

「子供のときは、俺の気持ちを代弁してくれてるみてーだった」

——よく知っている。

「今読むと、母さんが読み聞かせてくれた声を思い出すんだ」

 嬉しそうに1冊の絵本を手に取り、また次の絵本を読もうとした。その動きを猫のように追う。
——読み聞かせてくれた父の声とはしゃぐ兄と俺の声、それを止める姉の声。どれも鮮明に覚えている。
 しかし、初めて話す相手にここまで素直になれるとか、理解できない俺は興味のないフリを続ける。高校生で親の話とか、普通恥ずかしがるだろ。
 どこか大人びて見える桃田に、俺は苛立ちを覚えたのかもしれない。

「俺が、桃田が絵本が好きなことを言いふらしたらどうするつもりだ?」

 絵本の表紙を捲る直前、すなわち絵本の世界へ飛び込もうとする瞬間に話しかけたのは我ながら性格が悪いと思う。

「別に。どちらにせよ、俺に話しかける奴はいねーから」

 常に1人でいる桃田にとって、絵本を読めなくなることがないらしい。
 桃田は何周も何周も、研究するみたいに繰り返していた。
——なんだよ。

「そんなに好きなら――絵本、描いてみれば?」

 何を思って言ったのか口から溢れた言葉を掬い上げることもできず、ただ桃田に流れていく。
 桃田は即座に反応した。

「絵本を描くって誰が?」
「桃田と話しているのに他に誰がいるんだ?」

 揚げ足を取って返す。

「じゃあ、さっくん俺に読み聞かせてみてくれね?」
「嫌だ」
「……実は俺、漢字読めてねーんだよ」
「今までどうやって読んでたんだ……?」
「あー……絵本ってイラストあんだろ? それ見て、この漢字はどんな意味なんだろうーって考えてた」

 絵本くらいだったら常用漢字しか使用されていないはずだ。あからさまな嘘だということは頭の片隅では分かっていた。
 それなのに、手渡された絵本に思わず手を伸ばして受け取った。表紙に描かれたクレヨン調のイラスト。中間辺りを雑に開く。
——読み聞かせなんて誰が読んでも同じだろ。

「やっぱ嫌だ」
「なんで」
「漢字読めないのは嘘だろ? 現文の授業で読んでるの聞いたことあるし」

 一呼吸置いて「バレたか」とバレても何とも思ってなさそうに笑いもしない桃田が理解できない。

「そうだな。さっくんがいったように俺は漢字を読める。咄嗟についた嘘だった」
「わかりきった嘘をなんで……」
「現代文の授業って交代で順番に文章読むだろ? さっくんの声聞いた時に、この人に読んでもらいたいって直感で思ったんだよ。だから頼んでみた」
「それならそう言えばよかったのに」
「言ったらやってくれたのか?」

 困ったように眉をハの字にする桃田に言葉が出なくなる。俺が断ることくらいわかっていたようで、実際断ったのは自分なのに苛立ちを覚える。

「騙して悪かった」

 嘘をついてまでして、俺が読み聞かせてもらいたいのは本当に俺の声がいいと思ったからか?
 でも、頼られてるみたいで心の底からやりたくないと言ったら嘘になる。
——ただ、なんとなく気が向いただけだ。

「……1回だけな」

 少し声を高くして読む。その方が声が通る気がするからだ。
 読み慣れないひらがなの多い絵本。時々出てくる漢字もふりがなまで丁寧に振ってある。
——漢字読めないって言ってまで俺に読ませようとしてた意味がますます分からない……。
 数分で読み終わったあとの沈黙が恥ずかしくなって、急いで絵本を戻そうとする。

「やっぱ、センスあんじゃねーか」

——センス……
 その言葉に敏感になっていた俺は戻そうとした手が固まる。

「……あっそ。俺は読み聞かせはもうしない」
「あ……センスとか言って悪かった。ただ俺は本当に良いと思って……」

——な、んで、俺がセンスという言い回しに不機嫌になったって思ったんだ?
 読み聞かせをさせたことについて謝るではなく、針に糸を通すように的確に言う桃田に見透かされている気がして、下唇をグッと噛む。

「別に怒ってないから謝んないで」
「わかった」

 また短い沈黙を挟むと、桃田が思い出したように話し出す。

「ところで、さっくんはなんで俺に絵本描いてみればなんて言ったんだよ」
「……さぁ。読むだけじゃなくて自分で描くのもいいんじゃないかなって思っただけだよ」

 嘘は言っていない。ただ本音も言えていない気がする。何かが俺の中で引っ掛かっているからだ。桃田は俺の曖昧な返事に対し不思議そうにしながらもキッパリと言い切る。

「ふーん? そう。じゃあ絵本、作る」
「……いいんじゃない?」

 自分の提案を受けて誰かが前に進もうとする姿を目の当たりにすると、言って良かったと安堵の気持ちが湧いた。反面、心の奥底で黒く靄がかった。

「ま、今週で文芸部は終わりだけどな」
「……は?」

——は?
 何も聞かされていなかった俺は顔を顰める。

「顧問いねぇんだよ。さっきさっくんが退部届だそうとしていてたのは横目で見えていたけど、意味ねぇんだよなーって思ってた」
「な、に、別にやめ……顧問いただろ」

 辞めようとしていたことを言ったところで知られているのに、唐突になかったことにしたくなった。
——なんで今、言うのをやめたんだ?
 たった動いた自分の感情の変化に置いてかれる。

「あのおじーちゃん先生、今月いっぱいで退職すんだよ」
「誰も後任いないのか?」
「やりたがらねぇんだよ」
「……じゃあこの話は終わりだな。絵本の話はなしだ」

——桃田がやると言ったのは、絵本を作れないことが分かっていたからわざと言ったということか。
 そんな軽い気持ちで俺に読み聞かせも頼んだとか許せないな。

「明日が最後だな。この教室も使えなくなんぞ」
「あっそ……帰る」

 向かった先は昇降口とは反対に位置する職員室。
 扉から目的の先生を探す。
——いた。

「増先、今いい?」

 タメ口で言うときは急用。これは俺と増先の間で決めた合言葉みたいなものだ。増田先生を増先と略すのは俺だけではないので重要なのはそこではない。実のところ、増先の彼女が俺の姉なのだ。兄のように慕っていた増先の勤務先を知らないままこの学校に入学したときは、ひどく驚いたのを覚えている。
 入学後はいくつか決め事をした。学校では知らないフリをすること。そして急ぎの用がある時があったら、お互いタメ口で話しかけること。というものだった。
 即座にPCを閉じて、俺へ向く。

「廊下出る?」
「ここでいいっすよ」

 砕けた敬語で返答し、急ぎ口調で要件を話す。

「名前貸して」
「はい⁇⁇」
「あ、今肯定しましたね。ありがとうございます」
「待ってください! 突然何ですか……」

 どんなに仲が良くても無理かと、とりあえず話題を少しずらす。

「部活って何人いればいいの?」
「申請時は顧問と5人以上かな。その後は1人になったら廃部になりますよ」
「人数はいいのか……」

 何の話ですか? と、焦る増先を置いていくように話を進めようとする。

「ここに名前書いてハンコ押して」

 裏紙に即席で作った『文芸部の顧問の後任をします』と、俺の雑な文字で書かれた紙を突き出す。

「こらっ」

 しかし、すんなりとはいかないどころか手を腰に当てた増先に子供に叱るみたいに怒られた。

「理由、ちゃんと言いなさい。何の理由もなくこういうことしないでしょ?」

——理由……

「俺だって、わかんねぇよ……」

 一気に押し寄せた感情に押しつぶされそうで、目頭が熱を持つ。
 俺らの話が聞こえていたのか、こちらを見下げるように笑い横入りして言う。

「増田先生、文芸部の顧問はやめておいた方がいいですよ?」
「……どうしてですか?」
「問題児がいるんですよ。君も辞めるのに何やってるのさ。その退部届は代わりに出しておいてあげるから」

 急足で教室を出たせいでしっかりとしまい切れていなかったのだ。ファイルから飛び出した退部届を瞬時に引っ込める。
 その様子を見た増先が、大人みたいに言う。

「ここは僕に任せて、帰っていいよ」

 増先に言われるがままに、学校を後にした。
 実際になくなったかどうかは確かめられる術は山ほどあったが、聞くのが怖かった。いつしか自分の居場所になっていたからだろうか。怖いというのもよく分からなからない感情だ。
 いつも通り、放課後は桃田が教室を出たことを確認してから俺も部室へ向かう。

「今日来ねーかと思った」
「俺が来ても来なくても変わらないだろ?」
「……俺にとっては変わんだよ」
「なんだそれ」

 桃田と話していると解けない問題を突きつけられている気分にさせられることが多くなり、疑問が積み重なる。しかし、俺はそれを解消する気はなかった。
 部活の終わりを知らせるチャイムがなり、教室を出る。昨日までだったら、先に帰っていたが全く話さないわけでもないので桃田が鍵を閉めるまで待つことにした。

「部活が終わる時ってこんなにあっさりしてんだな」

 キーに付けられた文芸部のネームプレートを外そうとしたときだった。

「ごめんごめん。もう終わったよね? 会議長引いちゃって……」
「増先っ!」
「一応挨拶だけしておこうかと思ったんだ」
「えっと……」

 何の話か分からないという顔をする桃田は俺と増先の顔を交互に見る。

「数学の増田です。明日付で文芸部の顧問になりました。いやぁ、ハレくんに名前だけ貸せって言われた時は驚きましたよ」
「そんな言い方したっけ」

 唖然とする桃田は、驚きながらも絞り出すように口をひらく。

「お前って誰にでもいい顔してるやつじゃねーの、か?」
「言い方……」
「あー。実はハレくんのお姉さんとお付き合いさせていただいてるんですよ。その関係でハレくんの少し乱暴なところも知ってると言いますか……あ! この話は秘密でお願いしますね。特に何かあるわけでもないですけど、贔屓してるとか思われたら……」
「増先しゃべりすぎ。実際贔屓はされただろ……」

 呆れながら言うと、増先は真剣な眼差しで俺らに視線をゆっくり合わせてから口を開いた。

「贔屓というか……やりたいことがあるのに、顧問がいないからできない。諦めるしかないなんて先生として助けたいと思っただけですよ」
「増先……」

 俺は増先のこういう生徒としてしっかり見てくれるところを本当に尊敬している。だからこそ、増先に頼んだのもあったのだ。そして、増先は続ける。

「それに生徒のことを見ずに、嫌だから断る先生方の方が俺は理解できない」
「おい」
「あ! 違う、いやって言うのはその……」
「いえ、わかってるので大丈夫です。顧問になってくださりありがとうございます」

 丁寧な挨拶をする桃田に、満面な笑みを見せる増先は満足そうに来た道を戻っていった。

「さっくん」
「……何?」
「部員は何人で申請したんだ?」
「顧問変わるだけなんだから部活の申請はいらないだろ」

 少しの間考え込んで、もう一度俺に問われる。

「言い方間違えた。さっくんも部員か?」
「……この学校1人になったら廃部になるらしいよ」

 遠回しに言った。廊下を横並びで歩いていた。横にいたはずの桃田が俺の片方の肩だけを軽い力で押す。力のかかった方へバランスを崩したところを見計らったように、校庭に面したガラスの方へさらに押された。
 俺は咄嗟に手の甲を背中へ回しガラスとの距離を測ったおかげで、強打することはなかった。しかしホッとしたのも束の間、俺の顔の横に手を付け、ガラスと桃田の間に挟まれた俺は身動きが取れない。
——なん、だ?

「また言い方間違えたか? 2人なの?」
「あぁ、そうだよ、もういいだろ。どいて……」

 ところが一向に退く気配のない桃田を見上げる。

「その1人はさっくん?」
「……俺以外が文芸部に入るなら廃部にさせてる」

 目を細めて口角を上げると、何かを噛み締める笑顔を見せた。
 言葉の真意を、発言した俺さえ理解できなかったが、それよりも桃田が笑った表情が 戸惑う。

「なんだ、これ……」

 大きく脈打つ心臓の音が身体中を揺らした。