帝都の妖もののがたり~私が居場所を見つけるまで~


 暫く土手を南へ向かって歩くと、帆澄は右前方にある階段を指差す。

 膝下程度の高さの竹手すりに、土を踏み固めただけの簡素な階段をおりた先は、下町情緒が溢れる場所だった。

 黒船が来航し十数年、帝都の中心には西洋風の建物が建設され、衣食にも西洋文化の影響が現れるようになったが、このあたりは幕府時代と変わらない。

 土埃を足元に舞わせながら進んだ突き当りに、コの字型に並ぶ平屋の建物があった。
 一棟に五つの間口が均等に並び、中央には共有の井戸がある。よくある長屋だ。

 その井戸のつるべを握っていた女の子が、二人の姿にぱっと顔を明るくした。

「帆澄様だ!」

 女の子がつるべから手を離し、井戸の中にぼちゃんと桶が落ちる音がする。

 でも、女の子はそんなこと気にもせず駆け寄ってきた。その勢いのまま体当たりするように帆澄の腰に抱き着く。これはきっと。

「隠し子ですか?」
「どうしてそうなる」
「心得ました」
「心得るなっ」

 簪を買ってもらった。いがみ合いを望んでいないのも理解した。

 でも、二人の婚姻が勅命であることに変わりない。初音にだって許婚がいた。初音よりずっと年上の穂澄に過去がない、はずがない。

「私を気遣ってそう仰ってくださるのでしょうが、大丈夫です。帆澄様のように見目麗しい方なら左様なこともあるのでしょう。私との縁談は勅令ですし、お気になさらず。そういえば、目元のあたりがそれとなく似ています」

「他人の空似だ。頼むから俺の話を聞いてくれ」

 神妙に頷く初音に、帆澄は目頭を押さえた。声に悲嘆が滲んでいる。

 それに構うことなく初音はしゃがみ、女の子と視線を合わす。
 女の子は切れ長の瞳をぱちりとさせると、にっと笑った。微笑み返そうと口角を上げた初音だったが、すっと表情を消すと女の子から間合いを取る。

「帆澄様、これはどういうことですか。彼女は妖です」

 懐に忍ばせている封じ札に手を伸ばそうとすると、帆澄に手首を掴まれ制された。初音が剣呑な目で帆澄を睨む。

 初音の知っている妖とは少々違うが、目の前にいる女の子が人非ざるものであるのは間違いなかった。

 腕を掴まれたまま視線を巡らすと、全部で十五個ある長屋の間口の向こうに、計十体ほどの妖の気配が感じとれた。数は多いが、強い妖力ではない。

 長刀がないのは心許ないが、封の紙だけで大丈夫そうだと算段する初音を、帆澄が呼び止める。

「待ってくれ」
「どうして止めるのですか?」

 心底意味が分からないと眉根を寄せる初音に、帆澄は腰を折り深く頭を下げた。

「しばらく何も聞かずに俺に付き合って欲しい」
「ですが……」

 封じるべきだと言いかけた初音だが、顔を上げた帆澄の真剣な瞳に言葉が続かなかった。
 帆澄は初音から視線を外すと、不思議そうに二人のやり取りを見ていた女の子に声をかける。

「なつみ、あざみは家か?」
「お母さん? いるよ。呼んでこようか?」
「いや、できれば家にあげて欲しい」

 帆澄の頼みになつみは頷くと、踵を返し奥の長屋へと走っていった。
 勅令に書いていた妖とは、どう考えてもこの長屋にいるものだろう。

(帆澄様は、彼等の存在を知っていて、どうして何もしないの?)

 ぎゅっと奥歯を噛みなつみの背中を睨む初音の肩に、帆澄が手を置く。

「申し訳ないが、この場は俺に任せて欲しい」
「ですが……」
「勅命は宮應に来たものだ」

 ぐっと、初音が次の言葉を呑む。たしかにその通りではある。でも、連れて来ておいて、いまさらそれを言うのはずるいとも感じた。

 だけれど、帆澄がもう一度頭を下げたので、それらの感情をぐっと飲みこむ。年上の男が女に頭を下げるなど、初音の知る限りありえない。

「……分かりました。ですが、私や帆澄様に害があると判断したなら、封じます」
「心得た」

 神妙に頷く帆澄の意図が、初音にはまったく分からない。
 だけれど、ここは任せるしかないと腹をくくり、帆澄と一緒になつみが入った部屋へと向かった。

 長身の帆澄が背をかがめながら、先に戸を潜る。
 入った土間の向こう、一段上がったところに六畳間があり、日本髪に結い上げた女が座っていた。その横で、なつみが立ったままこちらを見て手を振る。

 一目見て妖だと分かるその女は、解いた着物を手にしていた。裁縫をしていたらしい。

「帆澄様、お久しぶりです」

 女が艶やかな黒髪を下げた。藍を基調とした格子柄の着物に昼夜帯姿は、長屋にとても馴染んでいる。破魔の力がない者なら、人にしか見えないだろう。

「あぁ、あざみは変わりないか」
「はい。帆澄様の口利きで女中として働け助かっています。今日は休みですので、この子の着物の肩出しをしていたんですよ」

 あざみが手元の着物を持ち上げた。黄色地に麻の葉柄のそれは、よく着こまれたものだ。何度も肩出しをして着続けているのが伺える。

 帆澄はそうかと微笑むと、ちょっと邪魔をすると言って草履を脱いだ。戸惑いを見せず畳に上がる帆澄のあとに、初音は躊躇いながら続く。

 あざみとなつみが、部屋の隅にあった卓袱台を真ん中へ動かし、変わりに卓袱台があった場所に裁縫道具と着物を置いた。

「お茶を用意しますね。なつみ、座布団を用意して」
「はい」

 襖を開け座布団を出すなつみを帆澄が手伝う。あざみは土間に下りると竈の上にある鉄瓶を手にする。窓の下にある棚から湯のみと茶葉を取り出すと、手慣れた様子で茶を淹れ戻ってきた。

「お茶うけ、何かあったかしら」
「いや、気にしないでくれ。すぐに帰る」

 腰を浮かそうとしたあざみを手で制し座るように促すと、帆澄は自然な動作で茶を口にした。

 それに初音はぎょっと目を見開く。八重樫では妖が作った料理や茶を口にすることはない。棟馬が摘んできた野草を食べてはいるが、それも初音にとっては異例のことだった。

 硬い表情で湯飲みを見る初音を目の端にとどめつつ、帆澄は切り出す。

「実は、この場所に妖がいるので調査しろと勅命がきた。お前たち以外の妖を見かけなかったか?」
「……いえ。知っての通りこの長屋の住人のほとんどが妖ですが、新しく入居したものはおりません。帆澄様がご存知の妖ばかりです」

 あざみの顔が、どんどん青くなっていく。目線が室内を彷徨った。

「私たち、ここを出たほうがいいでしょうか?」
「いや。大丈夫だ。俺の知らない妖が出入りしているなら確認せねばと来たが、そうでないなら問題ない。このまま住み続けてくれ。帝には異常なしと報告する」
「帆澄様!!」

 たまらず初音が声を荒げた。

 帆澄はここに住む妖を見逃し、帝に虚偽の報告をしようとしている。
 到底、許せるものではなかった。

 この場は帆澄に任せると約束したがそうも言っていられないと、初音が懐に手を伸ばしたときだ。
 勢いよく入り口の扉が開かれた。

「帆澄の旦那、やっと顔を出してくれましたかい」

 張りのある大声が、部屋の中に響く。
 入り口には天秤を肩に担いだ男が立っていて、愛想の良い顔で笑っていた。

 まくり上げた袖から見える腕や足は日焼けしており、歳は三十代ぐらいの容貌だが、彼もまた妖なのは一目瞭然だ。
 男は天秤を担いだまま身体を横に滑らせ入ってくると、よいしょっと肩から降ろした。

「弥吉か。相変わらず声が煩い」
「仕事柄、仕方ありやせん。結婚されたと聞きましたが、お隣のお嬢さんがお相手ですかい。なんとまぁ、若くて可愛らし方で」

 彼もまた帆澄の知り合いのようだと、初音は二人を交互に見る。帆澄は腕を組み薄く息を吐いた。

「結納の儀を交わしたが、結婚はまだだ」
「どっちも同じようなものでしょう。ちょうど良かった。イキのいい魚が取れたんで持って帰ってください」

 帆澄は「弥吉は魚の行商を生業にしている、川獺の妖だ」と初音に教える。
 天秤の先にぶら下がっていた盥には魚が入っているようで、弥吉は蓋を開けると鮎を一匹持ち上げた。

「今朝取ったばかりだから新鮮ですよ。塩焼きにしても煮てもうまい」

 そう言うと、帆澄の返事を聞かず大きな葉で数匹をくるんと包んだ。
 普段から人間に化けて暮らしているのだろう、口調も仕草も、魚を包む動作も慣れたものだ。弥吉は「ここに置いときますね」と土間にある小さな調理台に鮎を置いた。するとまた、入り口から声がした。

「帆澄様、お嫁さんを拝ませてくださいな」

 今度は初老の女が現れ、その後ろからはひょろっとした男も顔を出した。

「随分噂が広まっているようだな」
「弥吉が吹聴しておりますからね。こんなものしかありませんが、持って帰ってください」

 女が手にしていた干芋を鮎の横に置けば、背後にいた男はにまっとしながら酒を持ち上げる。

「左近殿が中庭で宴会の準備をしておりまさぁ。花見にはちょっと早いですが、結婚祝いに飲みましょう」
「飲む理由が欲しいだけだろう」
「それが楽しみで生きているんでぇ」

 はは、と笑う男は陽気だが、これも間違いなく妖である。
 もう黙ってはいられないと、初音は帆澄の袖を引っ張った。