帝都の妖もののがたり~私が居場所を見つけるまで~

 しとしと降る雨が、川辺に佇む初音の頬に付いた汚れを流していく。真冬だというのに汗を掻いた身体にその雨は心地よく、初音は手にしていた長刀(なぎなた)を地面に立て頭上を仰いだ。
 曇天の空から降り注ぐ雨が、さっきまで身体を覆っていた緊張や恐怖を洗い流してくれる。険しく尖っていた眦が、年相応の幼さに緩んだ。

「帰ろう」

 川面を叩く雨音よりも小さく、白い息と一緒に言葉を吐く。
 今日も無事にお役目を終えた。
 今日こそ父親も喜んでくれるだろう。褒めてくれるだろう。

 十七歳にしては小柄な身体の足元には、元は一体であった妖が転がっている。
 前足の付け根当たりで真っ二つに斬られたそれは、そんな身体になってもまだ唸り声を上げていた。
 逆立ったままの、ふさふさとした黄金色の尻尾を無表情に見下ろすと、初音は胸元から一枚の紙を取り出す。負傷した利き手の代わりに左手を使っているので、少々もどかしい。

 墨で掛かれた「封」の護符は、昨晩、初音が念を込め端正に作り上げたものだ。
 それをはらりと、妖の腹の当たりに落とすと、文字が鎖のように紙から浮き上がり妖の身体に纏わりつく。

 締め付けがぎゅっぎゅっと強くなり、文字は妖を捕らえ込むとそのまま紙に戻っていった。
 悪行の限りを尽くす妖と言えど、最後の姿は見るに堪えず、初音はそっと瞼を閉じた。
 されど、これが自分の仕事だ。
 まだ耳奥に残る断末魔から気を逸らし、深(ふか)蘇芳(すおう)色の袴を翻すと、初音は封じ紙を拾い帰路に着いた。


 古来から妖は人を攫い、喰らい、悪行の限りを尽くすとされている。そう初音に教えたのは祖父母だった。

 妖を滅し封じる力――破魔の力――には「滅」「封」「癒」があり、その力を持つ人間は限られている。古来から幾つかの門派が存在するが、その中でも「封」を得意とする八重樫の一門は常に頭一つ飛び抜けており、時の権力が幕府から帝へと変わった現在でも、政に於いて重責を担っていた。
 初音の父は、新政府が作った太政(だじょう)官(かん)体制と呼ばれる組織の中で神祇(じんぎ)宮司(ぐうじ)の役に就き、祭祀を司っている。

 妖がもっともはびこっていたのは戦乱の世。
 幕府が平安を築きあげるにつれその数は減少したが、幕末の動乱に便乗するかのようにまた数を増やした。
 しかし困ったことに、平和な世は破魔の力を衰退させてしまった。

 今や破魔の力を持つのは八重樫の一族と宮應の若き当主だけで、八重樫一族であっても破魔の力を持たない者のほうが多い。

 政の重鎮の一人である初音の父も、破魔の力はなかった。彼が神祇(じんぎ)宮司(ぐうじ)の役に就けているのは、八重樫の過去の実績によるものだ。
 このままでは破魔の力を持つものが途絶えてしまう。そう危惧される中、生まれた初音に強い破魔の力があったことで、祖父母の期待はすべて初音に注がれることとなった。
 破魔の力を元に「滅」「封」「癒し」の技を繰り出すのだが、代々の八重樫の人間がそうであったように初音も「封」を得意とした。

 これは相性のようなもので、本来初音が持つ破魔の力を十としたとき、「封」であれば倍近い能力を発揮できる。対して「滅」だと五割、「癒」だと三割ほどしかその能力を発揮できない。
 祖父母が初音に寄せる期待は並々ならぬもので、初音は大事に大事に育てられた。
 七歳の初音が初めて妖を退治したときには、二昼夜にもかけ祝いが行われてものだ。
 妖狩りは怖く恐ろしく辛いが、それでも初音の人生は順調だった。

 だけれど、光が強いほど影は濃い。

 今から五年前、初音が十二歳のときに祖父母が相次いでなくなって以降、初音の暮らしは一変したのだった。
 

 初音が酷く疲れた身体を引きずるようにして玄関扉を開けると、父親が廊下の角から飛び出してきた。

「今日の成果はどうだったんだ?」

 唾を飛ばさんばかりの勢いに、思わず初音はのけ反る。
 初音の右手の裂傷は深く、長襦袢の裾を破ってぎゅうぎゅうと強く巻き付け止血したにも関わらず、血は土間にぽたりぽたりと赤い染みを作る。

 だけれど、父親は流れる血を目に留めはしても、全く興味を示さない。
 灰桜色の着物の袖が朱に染まっているのも、腰まである黒髪からしとしとと雫が垂れているのもどうでもいいようだ。

「はい。この通り、無事に帝からの勅令を果たしました」

 妖を封じた紙を懐から取り出すと、父親はそれを奪うように手にする。そうして、眉間に皺を寄せた。

「低級の妖狐ではないか。こんなもの、仕留めて当たり前だ。それなのに怪我などしおって、このうつけが‼」
「……ですが、数日前から連続しての勅令でしたので、破魔の力が回復せず……」
「ああ、もういい。言い訳など聞きたくない」

 吐き捨てるように言うと、父親は背を向け立ち去っていった。
 初音はふぅ、と息を吐き土間に座り込む。
 破魔の力がない父親は、祖父母から期待を寄せられ優遇される初音を恨んでいた。
 自分を差し置いて初音を当主にするのではと、悶々と考え暮らした日々の数だけ、憎悪を募らせていたのである。

 初音が幼い時に祖父母が亡くなったことで、当主は父親となったが、それでも彼の心から劣等感が消えることはなく、何かにつけて初音に辛く当たっていた。

「お姉さん、お帰りなさい」

 初音が草履を脱ぎ、上り小口に用意されていた桶の湯で足を洗っていると、父親と入れ変わるように双子の妹の美琴が声をかけてきた。

 背丈は同じだが、日々妖を滅する初音の体躯に比べ、病弱な美琴は風が吹けば飛ぶのではと思うほど華奢で細い。
 色素の薄い茶色い髪と透けるような白い肌が、いっそう美琴を儚げに見せた。

 初音は土ぼこりのついた黒髪をそっと後ろにやると、生傷が絶えない自分とは正反対の妹に、にこりと微笑み返し立ち上がる。

「ただいま。美琴、身体の調子はどう?」
「ええ、春人さんがずっと付き添ってくださったから大丈夫よ」
「……春人さんが?」

 言葉に詰まった。その間を埋めるように柱の影から初音の許婚である春人が顔を出す。
 短く刈った黒い髪、眼鏡の奥の二重の瞳はいつみても優しく弧を描いている。
 八重樫の分家にあたる吾郷家の次男である春人と初音、美琴は年も近く幼馴染だ。
 春人が初音の許婚になったのは、十年前で春人が九歳、初音が七歳の時だった。

「初音さん、風呂の支度ができているそうですよ」

 二歳年上であるにも関わらず、春人は次期当主である初音にいつも敬語だった。

「教えてくださりありがとうございます」
「おや、怪我をしているじゃないですか。使用人に、風呂上りに手当するよう伝えましょう」

 気づいてくれた。
 それだけで、初音の心はほっと緩む。

 愛や恋が何かは分からないが、心配されたのが嬉しくて初音が微笑もうとしたとき、ふらりと美琴の身体が傾いた。
 初音を支えようとのばしていた春人の手が翻り、美琴を抱き留める。

「美琴、大丈夫か?」
「え、ええ。ちょっと眩暈がしただけだから……」

 春人の胸に額をつけ、少し荒い息で答える。
 初音はぎゅっと自分の右腕を握った。
 身体が弱い美琴が心配されるのは当たり前。自分は次期当主なんだから、これぐらいの怪我平気なふりをしなくては。
 そう自分に言い聞かせると、初音はからりとした笑顔を作った。

「じゃ、私は湯をもらうから、春人さん、美琴をお願いします」
「はい。分かりました。行こう、美琴」

 美琴の肩を春人が支える。
 その手が、親し気に「美琴」と呼ぶ声が初音の胸に痛く刺さった。

「結局、誰も私を気にしてはくれない」

 誰もいなくなった廊下に、初音の小さな声がぽつんと落ちた。