愛すべきピオニー

今のはなんだ。今この瞬間、何が起こったんだ。
きっと20秒、いや10秒にも満たない出来事だった。けれど、あの時の僕には酷く長く感じた。

目が離せなかった。
街灯に照らされて見える白のレインコートには赤い血が付き、雨で流され下に滴り落ちていて、フードで見えにくい顔からも、血が滴り落ちてるのが見えた。
そして目の前のオオカミが女だということを理解したのは、彼女が僕の方に一歩近づいた瞬間、倒れている人が「うぅっ」と唸り声を上げて立ちあがろうとした時だった。

オオカミは瞬時に唸り声を上げた人へと駆け寄る。

「あれ、あんたしぶといねぇ」
 
そうボソっと呟き、噛み付くように刺した。
ゆっくり立ち上がった彼女は僕の方へと一歩、また一歩と近づき、一メートル先で止まった。

すると、急にバッと大きな音が鳴り、思わず目を閉じた僕は「これあげる」と、彼女からそう言われるまで目を閉じていた。恐る恐る目を開けると、さっき音を立てたのは傘だと分かった。
血まみれの手袋で持った傘の取手には、もちろん血がついている。

「あ、ありがとうございます」

僕は何故か素直に受け取ってしまった。あんな風景を見た後なのにも関わらず、彼女を目の前にして僕は意外と冷静だった。冷静というか、考えが追いつかないと言った方がいいのかもしれない。

「濡れると風邪ひくよ」

彼女はそう一言言って、僕に背中を向けた。

「あ、あの」

僕は思わず呼び止めてしまった。

「なんでこんなこと…」

目線を、彼女の後ろで倒れている、二人の人間に向ける。
彼女は僕の視線を追いかけると、「あー、君ならいつか分かるよ」そう一言だけ呟いた。
血の着いたレインコートのフードを取り、雨で頬を洗い流しながら去って行った。

次の日の夕方、その現場には多くの人だかりができ、警察が沢山いた。

「あの夫婦、ご近所さんとトラブル続きだったらしいわよ」
「そうそう、子共の泣き声がうるさいとか、足音がうるさいとか、いちいちケチつけてたって聞いたわ〜」
「自分達の喧嘩の声の方がうるさいって話よね〜」

僕の隣でおばさん達がそう話しているのが聞こえた。
そしてすっかり晴れている空の下、僕は昨日彼女にもらった傘を片手に、彼女を探すために足を動かした。
 
すると、向かいから僕と同い年くらいの女子6人組が歩いてきた。制服は僕の中学とは違う。きっと隣町の中学校だ。晴れているのに傘を持っている自分が少し恥ずかしい。
彼女達とすれ違ったその時、思わず僕は振り返った。

…彼女だ。

雨が降っていて顔はちゃんとは見えなかったし、レインコートで体型もあまりはっきりとは分からなかったけれど、一瞬で彼女だとわかった。
一番後ろで腕を組んで歩いている2人の、髪が長い方。
白い肌が光って見えた。

昨日見た彼女とは全くの別人に近かった。纏っている雰囲気も表情も、声のトーンも。彼女を見つめる僕の体は、痺れたように言うことを聞かず、彼女の笑っている後ろ姿を見ながら、僕はまた呆然と立ち尽くした。

 
一番驚いたのは、彼女を見つけた場所が、昨日の現場のすぐ近くで、人通りが多い大通りだと言うことだった。
彼女は何食わぬ顔で、楽しそうにそこに存在していた。





「あ、来た弱虫」

僕は彼女と屋上にいる。
彼女に「屋上に来て」と言われたからだ。

あの自販機の前でオオカミの彼女に夢中になっていた時、丁度保健室の桜井先生が通りかかった。
 
「あれ〜二人とも〜まだ授業終わってないよ〜」

そうお花畑にでもいるかのようなフワフワとした口調で話しかけられ、彼女は一瞬で雰囲気を変えた。

「私は先生に届け物しに行くだけで〜す!」

くるっと桜井先生に向かって満面な笑みを浮かべたと思えば、僕の横を通る時に一言、「放課後屋上きて」と言って職員室に向かった。華奢な背中が逞しく思える。
 
「黒崎くんは?何してるの?」

彼女の背中を見送っていると、先生は僕をの視界に覗き込むような形で入ってきた。

「ぼ、僕は別に…」

そう言ってその場を離れようとした時、桜井先生が僕の腕を掴んだ。

「まだ、続いているのね…」

先生は僕が持っていたミルクティーとレモンティーを眺めている。先生には前に、吉田と吉崎から散々な目にあった時、打撲跡がある腕や脚、体を手当てしてもらったことがあった。

桜井先生は見かけによらず正義感が溢れる教師だ。面倒なことになりたくなくて、「たまたまです」と言って押し切った。

「隠せるところだけ打つなんて…卑怯者よ」

先生がその時言っていた言葉だ。自分のことのように悔しそうで、ちょっと嬉しかったのを覚えている。
 
先生の僕の腕を掴む力が妙に強くて、僕は咄嗟に「大丈夫なんで」と言いながら振り払い、駆け足で教室に戻った。


彼女の制服のスカートが風に靡かれている。
長くて白い綺麗な脚がいつもよりも見えている気がしてドキドキして、そんな中学生男子みたいなことを思っていると彼女が口を開いた。

「見て」

彼女の視線を辿ると、運動場で部活動に励む生徒達がいた。

「この中にもし普通の人間じゃない人がいて、将来とんでもない大人になってたら、それを野放しにしていた親の責任よね」
「…?うん、まあ、そうなるのかな?」
「でも親は大抵、自分の愛する子供に限ってそんな事ないって思うの。例え暴力を振るっていても、振るわれる側が悪いってね」
「そんなのひどい」

彼女は遠くに沈みそうな夕日を、目を細めながら見ている。

「そうよ、ひどいの。それにもっと酷いのが、警察は味方にならないってこと。あいつらは証拠がないと動かない。DVも、モラハラも、窃盗も…いじめもね」

何かを思い出しているような横顔に、思わず手が伸びそうになる。

「病院の廃墟で見つかった男の人って、雪宮さんが…?」

すると彼女は僕を見てニコッと笑った。

「君がその…殺める人は何かと問題がある人ばかりだよね。それって警察が動かないから…?」
「…」
「知りたいんだ、雪宮さんのこと。少しでも近づきたいから」

僕がそう強く言うと、彼女はじっと僕を見つめた。だんだんとオオカミの彼女が出てきてることが目に見えて分かるくらいに表情が変わっていく。

「近づきたい?なんで?」
「なんでって…雪宮さんが好きだから…」
「好き…?あんなの見たのに、私の事好きなの?」
「うん…」
「そう…黒崎くんは、やっぱり私と同じ種類の人間なんだね」

 彼女はそう言ってベンチに腰をかけながら自分の爪を見ている。

「ならさ、さっきも言ったけど、私と同じことしてみてよ」
「同じことって…?」

じっとりとした視線を僕に向ける彼女の姿に、僕は身動きが取れなくなった。

「神谷、殺ってみてよ」
「え?!ぼくが?!」
「あー、吉田でも吉崎でもいいよ?選ばせてあげる」
「む、む、無理だよ」
「私に近づきたいんじゃないの?」
「で、でも…」

彼女から視線を逸らす。手汗をかいていて握った拳が気持ち悪い。

「雪宮さんは、怖くないの?」
「…怖い?」
「だ、だって、人を殺すってことはやってはいけないことだよね。警察に捕まるかもしれないし…」

彼女が立ち上がったのに対してビクついた僕を、彼女は鼻で笑った。

「怖さなんて感じたことない。我慢できないの、自分でも止められない。それに、私はいい事してるんだよ?!むしろ気分がいいくらいだよ」
「…」
「スカッとして気持ちいいよ。黒崎くんにも味わって欲しいな〜」

そう言って彼女は制服のポケットなら果物ナイフを取り出した。

「持ち歩いてるの?!」
「何があるか分からないからね」
「危ないよ、落としたり見られたりするよ?!」
「はぁ、あのね。そんなヘマしないってば」

彼女はカバーの着いたままのナイフを、僕の首に当てた。少し離れた距離に居たのに、僕が瞬きした一瞬でこの通り。

「私はね、まず首から切るの。出血が一番多くて血の雨を降らせることができる」

思わず喉をゴクリと鳴らした。

「これが決まり。でもそれだけじゃ連続殺人とかで捜査されたらややこしいから、他も適当にササッと」

やばい、想像したら吐き気が込み上げてきた。

「うぅっ」
「え?ちょっとやだやめてよ!」

彼女はケラケラと笑っている。
 
「あの時あんなに笑ってたのに、なんで今そうなるのよ」

ぼそっと呟いた彼女の言葉に咳き込んでいたのもピタッと止まった。

「笑ってたって僕が?」
「そう、他に誰がいんのよ」
「え、いつ?」
「あの雨の日よ、誰かに見られてると思って慌てたけど、黒崎くんのあの表情で安心したもの」

その言葉で、急にあの日の感情が湧き上がる。
呻き声をあげた男を軽快な手捌きで切りつけ、血の雨を降らせる彼女を見て、僕は心底綺麗だと思った。
目の前で起こったことに興奮し、体が震えた。
血を拭き取りながら帰っていく彼女をかっこいいと思った。

「ちょっと、大丈夫??」

ふと我に返ると、僕は酷く冷や汗をかいていた。

「ご、ごめん大丈夫」
「ふーん、じゃあ私帰るね」
「あ…う、うん」

彼女は僕の肩を叩く。
ナイフはもうポケットに仕舞ったみたいだ。

「神谷か吉田か吉崎、誰殺るか考えといてね」

軽く弾んだ声でそういうと、屋上から姿を消した。

しばらくして校庭を見下ろすと、人気者の雪宮佳苗がいた。彼女を囲んで集団で帰宅する姿は、彼女の秘密を僕だけが知っていると自覚させる姿だった。

思わず口角が緩む。
慕っている女子も、好意を抱いてる男子も、信用している先生も、誰も知らない。
僕が、僕だけが知っている彼女のもうひとつの顔。
ナイフが当たっていた首を触りながら、僕は思った。

僕は、彼女と同じ種類になれる人間で、
彼女が選んだ、唯一の理解者だと。