2年前のあの雨の日、僕は静まり返った空き地でオオカミを見た。隣の山から降りてきてしまったのだろう。初めて見るオオカミの姿に僕は酷く混乱した。
赤い雨を浴びながら獲物を求めるその姿は、どこか寂しそうにも見えた。真っ赤に染まった瞳が僕を映し出し、じっと見つめた。
山登りが好きな祖父から、クマに遭遇した時の対処法を、昔から教えられてきたからか、オオカミがこちらを睨みつけても、さほど動揺はしなかった。
でもどうだろうか。
今目の前にいるのはクマではない。オオカミだ。
あの方法が効果的なのか分からない。そう思うとどんどん鼓動が速くなった。僕は物音ひとつ立てずに、オオカミから目を逸らさず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
今でも偶にあの日の風景が夢に出てくる。
それくらい、僕にとってはあの日の出来事が印象的で、でもそれは恐怖の対象かと言われたら、そうではなかった。見慣れないものを見た反動でか、思い出すとちょっとだけワクワクする。
今朝に見たその夢のせいで、教室でもつい表情が緩んでしまう。すると、廊下の方がざわつき始めた。そのざわつきの中心にいるのは、廊下を歩くと誰もが振り返り、教室にいると必ず彼女を囲んで会話が生まれる生徒。
学校一の人気者である、雪宮佳苗だ。
僕たちのクラスの学級委員であり、次期生徒会長と噂にもなっている彼女は、成績は優秀で父親が病院の医院長。
いずれ彼女もその病院を継ぐと言われていて、将来は安泰。真っ直ぐ伸びた長い艶のある髪の毛が印象的で、セーラー服から伸びる白く長い手足が男たちを翻弄する。ほんのり赤い唇も痺れるほどだ。
僕はそんな彼女をいつも教室の端から眺めている。
それだけで十分だ。
「おい、黒崎。後五分だけど?」
昼休みになって彼女を眺めているといつの間にか時間が経ち、いつもの時間まで後五分。後ろの席の神谷悟の声でハッと我に帰った僕は急いで売店に向かった。
「焼きそばパン一つと、唐揚げパン二つください」
僕は焼きそばパンも唐揚げパンも苦手だ。
焼きそばパンに細かく刻まれて入っている生姜が嫌いだし、唐揚げパンは上にかかっているタルタルソースが嫌いだからだ。
「遅れてごめん、売店すごく混んでて…」
走った後の息を整えながら神谷の机に買ってきたパンを3つ置いた。
「おいおい、二分もオーバーじゃねーか。まあいいよありがとうな〜く・ろ・さ・き」
いつも神谷の隣にいる吉田竜也が大きな声で言う。するともう一人の連れである吉崎快斗が僕の耳元でいつものセリフを吐いた。
『放課後、いつものとこな』
いつものニヤついた顔だ。神谷の顔を見ると、そっぽを向いていて目が合わない。
僕は席に座り、彼女を眺めた。
彼女を眺めている時間だけが、僕を救う唯一の時間。彼女は友達と仲良く弁当を囲んでいた。今日はフルーツも持ってきているみたい。弁当の隣に小さい入れ物がある。
僕は自分の弁当を開ける。雑に詰められたご飯に冷凍食品が並べられたおかず。そしてもう一つの入れ物には昨日スーパーで安売りしていたイチゴ。彼女と同じラインナップに嬉しくなった。
放課後のいつもの場所とは、校舎裏の事。いつものように人気がない道を通り角を曲がると、いつものように神谷達が居た。
「おっせーなー黒崎〜。ほらここまで来いよ」
壁に打ちつけられる。背中にジーンと痛みを感じる。でもこれだけでは終わらない。これもいつものこと。
「お前また雪宮のこと見てたよな〜」
「ほんと懲りねー奴。お前なんかが相手になるわけねーだろキモいんだよ」
三人の誰かが雪宮佳苗のことを好きなのには間違いない。不良と言われる彼らにも好かれる彼女は誰よりも最強だと思う。
そんな僕の姿をじっと見つめるのは神谷だ。偶にクスッと笑みを浮かべながら、神谷が「もういい」というまで終わらない。
ただ、そんな僕の姿を見ているのは神谷だけではない。
いや、僕ではなく、僕を見ている神谷の姿を、じっと見ている人がいる。
倒れ込んだ時にいつも確認をする。3階のちょうど窓がある音楽準備室から真っ直ぐこちらを見ている人。
真っ直ぐ神谷だけを見て、死んだように睨み続ける人。その正体を僕は知っている。
学校一の人気者である、雪宮佳苗、彼女だ。
今日も、彼女はあそこから神谷を見つめている。
「おい、もう行くぞ」
神谷の一言で今日もやっと彼らのストレスの発散である、マットの役割を終えた。
口の中が切れている。僕は溜まった血を地面に向かって吐き出した。
顔には滅多に手を出さないから、今日はレアな日。咳払いをしていると、後ろから微かに足音が聞こえた。
…来た。
「あなたって本当に弱虫ね」
一階の窓がガラッと開き、冷たい声が届いた。彼女だ。
僕は座ったまま壁に背中を付け、その声に応える。
「やり返せとは言わないんだ」
少し間があき、彼女が応える。
「分かってるくせに言わせるの?」
「いや別に、」
そう僕が振り返ろうとした時、
「神谷悟、あの人は少しやりすぎたわ」
その一言だけ残し、勢いよく窓を閉め、微かに聞こえる足音が鳴った。
僕と彼女が会話をする、一分にも満たないこの時間はほんの一ヶ月前から始まった。
あの時も同じように神谷達に囲まれていて、その日はイライラしていたのかいつもより手荒だった。
しばらくするとピタッと手が止まり、三人とも僕を眺めるように座った。
「あー、今日のあいつまじむかついたわ」
「それな?俺らに楯突いてタダで済むと思うなっての」
「あいつ」というのは体育の橋本先生のこと。
ガタイがよく、柔道の顧問で彼らが唯一ビビっていると言っても過言ではない相手。
体育の時間、こっぴどく怒られているのを見た。それのせいで今日はストレスが溜まっていたらしい。
僕は倒れながらぼーっと空を見た。
カラスの群れが奇妙に移動している。そこで、窓が開いている部屋があることに気がついた。
そしてそこには人影があり、それが彼女だと一瞬で気がついた。けれど僕でないと、その人物が学校一の人気者で、美人で優しいあの雪宮佳苗だと気が付かなかったと思う。
3階の窓から、見下すように僕たちを見る彼女の表情はとても不気味だった。そして、倒れている僕ではなく、彼らの方をじっと見つめていることにも違和感を覚えた。
彼ら三人がぐちぐち何かを言いながら帰ってからも、僕はしばらく倒れ込んだままだった。いつも以上に痛めつけられたからか、体に力が入らない。
「はあ……」
深いため息が出たその時だった。
ガラッと一階の窓が開いた音がして、間抜けなクマのように起き上がると、そこには彼女がいた。
「私が助けてあげようか」
彼女はそう一言、言い慣れたように口にした。それが僕と彼女が初めて交わした会話だ。
その日から何度も、僕らは決まってそこで会話をした。助けてあげようかと言った割には、彼女は3階から僕らを見下ろしているだけ。神谷をじっと見つめるだけだった。
*
9月になり、もうすぐ文化祭。
今日は文化祭の準備を、6限目と放課後でやることになっている。僕らのクラスはお化け屋敷をすることになり、クラスの中心である彼女が仕切り役となり準備が始まった。
彼女はテキパキとみんなに指示をして、さすが次期生徒会長と言ったところだった。
「神谷悟、あの人は少しやりすぎたわ」その言葉の意味を僕は問いたかった。彼女が何をする気なのかは僕には到底想像がつかない。想像ができないことが悔しい。
僕はまだ彼女には程遠い。
「雪宮〜俺らパスしていい〜?ほら、俺らがやると余計に迷惑って感じじゃん?不器用だし?」
吉崎が甘えたような声で彼女の肩に腕を回しながら言った。「彼女に触るな」なんて僕には言えない。「あなたって本当に弱虫ね」脳内で彼女の言葉が再生された。
彼女の周りの女子も、彼らが怖いのか引き攣った表情で笑っている。そんな中彼女は吉崎の腕を掴み、自分の体からどかしながらも手を握り、「え〜でも私、不器用でも手伝ってくれる人が好きだな〜」そんな甘えた声で答えた。
彼女の見つめる瞳にやられたのか、彼女の纏う匂いにやられたのか、「お、おう。やるわ!俺も!」と、吉崎はさっきまでの魂胆が嘘かのように、躾けられた犬のように、鼻の下を伸ばした。
神谷達の元に戻った吉崎は「アホか」と神谷にそう頭を叩かれていた。でもそんな神谷も彼女のことが好きだ。
僕には分かる、そう言いたいが、僕以外にもクラスの子のほとんどが神谷の気持ちに気がついている。きっと彼女自身もそれに気がついている。
神谷は彼女にだけ優しい。他の女子達にもキツく当たる神谷が、彼女にだけ優しいとなると、一気に噂にもなるし、好きなのではないかそうなるのは必然だった。
「雪宮、これやる」
準備が始まって仏塔しで2時間動き続けていた彼女に、神谷は水のペットボトルを渡していた。
「ありがとう!神谷くん!」
元気に上目遣いをしながら受け取る彼女の手と神谷の手が触れている。
「たまたま2本当たったから…」
神谷は誰でも分かる嘘をついて照れ隠しをしていた。そんな姿を見て彼女はクスッと笑った。今の彼女があの彼女か、それとも違うのか、僕はそれだけを考えていて、気がついたら持っていたカッターで指を切ってしまった。
保健室のドアを開けると誰もいなかった。先生がいないなんてことあるのだろうか。
よく見るとドアのところに、「先生は職員室にいます」とボードがかけてあった。
僕はそのまま保健室に入り、消毒を探した。すると僕の後を追って誰かが保健室に入ってきた。
背中に感じる冷ややかなオーラ。彼女だ。
「消毒は、ここ」
彼女が消毒液と絆創膏を取り出して、ここ座ってと椅子を指差した。その椅子に座ると、彼女は跪き、消毒液の蓋を開けた。
「イッタ…」
「しょうがないでしょちょっと我慢して」
「なんで来てくれたの」
「そりゃ、学級委員だから」
僕の指に絆創膏を貼る彼女の、まつ毛の間から見える目の美しさに驚きを隠せない。
ジャージ姿も、髪を横で括ってる姿も美しい。
彼女は本当に綺麗な人だ。
「あれ、どういう意味?」
「あれって何?」
「神谷がやりすぎたってやつ」
「あー、それはあなたにはまだ早いかな」
そうか。まだ僕は彼女に近づけていないんだ。話せただけで、彼女の秘密を知っているだけで、近づいてはいないんだ。
「はい!できた。カッター使う時は気をつけてよね」
そう言って彼女は立ち上がって、保健室を出て行こうとした。その後ろ姿を見て咄嗟に声を出した。
「あの日、あの2年前の雨の日…あそこで何をしてたの」
僕がそう口にすると、彼女はピタッと足を止めた。
そして僕の方を軽快に振り返る。
「あの日?なんのこと?」
そう言ったのは僕だけが知る彼女ではない、誰にでも優しく笑顔を振り撒く、人気者の彼女だった。
*
「玲央、よく聞いて。他人様に頼らずとも、強く生きて行ける大人になるのよ。残念だけど、玲央はそういう生き方をするしかないの。他の子とは違うのよ」
その言葉を最後に、生まれた時から母親だけだった僕の家族は、この世界から一人もいなくなった。
僕の母親は口数が多いとは言えない人だった。元々体が弱く、怒った姿どころか大きな声すら聞いたことがない。
いつも何を考えいるのか分からない不思議な人。
呆然と庭を眺めてお茶を飲んだり、僕が話しかけても振り向かないことが多かった。仕事もしていなかったし、どうやって生活費をやりくりしているのか、まだ幼い僕でも不安になるくらいだった。
父親の話は聞いたことがない。
ただいつも上の空の母が、一枚の写真とその横に飾る花を大切にしていたのを覚えている。
ご飯もまともに作らない母が、わざわざ着飾ったかと思えば、花屋に自ら出向き、毎週綺麗なお花を買ってきては、愛おしそうに飾っていた。
花の横に添えられた集合写真。
きっとこの中に自分の父親がいるのだろうと思ってはいたが、聞けなかった。
華奢な母の背中はいつも寂しそうで、同時に僕のことなんてこれっぽっちも見ていないことが、痛いほど伝わってきた。
一度だけ、母の愛情を試したことがある。
幼い自分の子が、夜遅くなるまで帰ってこなかったら、流石の母でも心配で家を飛び出してきてくれるんじゃないかと、僕はその安直な考えだけで、空が暗くなるまで、家の前で母が出て来てくれるのを待った。
結局、いつまで経っても母の姿はなく、暗くなった世界が怖くて、自分で家のドアを開けた。リビングに行くと、いつも通り庭を眺めて座っている母の後ろ姿があった。母の背中は相変わらず冷たくて、母にとって僕がどういう存在なのかやっと理解した。
「他人様に頼らずとも、強く生きて行ける大人になるのよ」
母はそんな強く真っ当に生きた人が言うセリフなんて、言えた立場ではないにも関わらず、僕にその言葉だけを残して息を引き取った。
僕が覚えている限りでは、それが最初で最後の、真っ直ぐ僕だけを見て放った言葉だった。
それから僕は、親戚を樽井回しにされながらも、母が残したお金で学校に通った。
母親は「産むな」という親戚の意見を聞かず、「彼との子供が私は欲しい」と僕を産んだらしい。だからか、母方の親戚には率先して僕を住ませていいと言う大人は誰一人としていなかった。
むしろ、どこに行っても邪魔者扱い、帰ってくるだけでため息をつかれて、お風呂に入るだけで気持ち悪がられた。もちろん、父親のことなんて何一つとして分からないのだから、父方の親戚を頼るなんて考えにすらならなかった。
そんな生活をしている内に、自分の感情を押し殺すことが得意になっていった。子供一人で家を借りられるわけがない。住む家を無くすよりかは楽なことだった。
なのに何故か、自分の気持ちを押し殺せば押し殺すだけ、不気味だと言われた。何を考えているかわからない、まるであの女みたいだと。「あの女」とは僕の母親のことだと思う。
家にいても家族の団欒に入れてもらえる訳がなく、隅っこでただ外を眺めた。月の光ですら眩しくて、目を細めた。
ふらっと外に出ても誰も何も言わない。
誰にも縛られない自由な生活をしていた。こんな性格だからか、学校でも特定で仲がいい人はいなかった。
あの日もふらっと夜に一人で外に出かけた。
雨が降っていても構わない。傘など必要ない。
雨に打たれると、僕のいらない感情が全て洗い流されていくようで好きだった。
学校でみんながグループを作っているのに僕だけ一人だとか、家に帰ると透明人間を演じていることとか。僕をそうさせている誰かに抱く感情が、全てスッと消え去っていく感覚になる。そんな雨の日が好きだった。
人通りが殆どない、廃墟ビルが建つ裏路地。
僕のお気に入りの場所だった。誰にも邪魔をされないし、透明人間を演じる必要もない。そこでただぼーっとするだけでよかった。
でもあの日は雨音とは別に何か変な音が耳に入ってきた。
不気味な音。奇妙な音。
雨が強くなるにつれ、その音までもが大きくなっているようだった。誰か声も聞こえる。悲鳴のようだ。
恐る恐るいつも通り角を曲がると、そこには赤い雨を浴びるオオカミがいた。
その日から僕の世界は変わった。
*
「ねえ聞いた?昨日隣町で人が殺されてたんだって」
「ええ!!こわーい。何処で見つかったの?」
「廃墟になってた病院だって」
「場所もホラーじゃん」
「うん、でもねその殺された人って奥さんにDVしてたんだって」
「え、じゃあ殺したの奥さんとか?」
「そう思うでしょ?でも奥さんは実家に逃げてたらしくてそもそも既に一緒に住んでなかったらしいのよ」
「じゃあまだ犯人見つかってないってこと?」
「そうみたい。怖いよね」
クラスの女子達が文化祭の準備で看板を作りながら話しているのが聞こえてきた。背筋が凍る話だ。
チラッと彼女の方を見る。
相変わらず美しく華麗で、みんなの中心。今日は髪の毛を一本に束ねていて、それもとても可愛い。
「おい黒崎、飲み物買ってきてくんね」
吉田が僕の肩に手を回して言った。
「え、でもまだ休み時間じゃ…」
時計を見ると二十分、休み時間までに時間があった。
「あ?お前何口答えしてんだよ、黒崎のくせに」
吉田は僕の耳元で言った。
「…ごめん」
「じゃあ俺ミルクティーで!」
僕が謝ると一瞬で声色を変え僕の肩をポンっと叩いた。
「なら俺はレモンティーで!」
続けて吉崎が手を上げて言った。チラッと神谷の方を見るとそっぽを向いている。
「神谷くんは何にする…?」
ここで神谷に聞かないと怒られるのは分かっている。どうせいつもの「…ココア」ってくるはずだ。見た目に似合わないチョイスにいつも笑いそうになる。
「…俺パス」
「え?」
「いらねーつってんだろ、さっさと行けよ」
神谷のまさかの回答に僕は驚いた。
お金を払うのはいつも僕で、飲みたい飲みたくないに関係なしに集るのが彼らなのに。吉田と吉崎も少し驚いた表情を浮かべていた。
「じゃあ二人分買ってくるね…」
自販機に着き、お金を入れてミルクティーとレモンティーを買った。
「ほんと弱虫」
彼女の声だ。背中に冷ややかな雰囲気も感じる。
僕はさっき女子達が話していた時のような背筋が凍る感覚になった。
「今度は何、また学級委員として?」
僕はお釣りを取りながらそう呟いた。
「いいえ?職員室に行く途中なの」
振り返ると彼女は出来上がった小物達を一つにまとめた大きな箱を手に持っていた。
「もしかして神谷くんに何か言った?」
神谷の不思議な行動から繋がるとしたら彼女だけだ。
「んーまあちょっとね、ほんのちょっと吹きかけただけよ」
やっぱり。神谷は彼女のことになると素直だ。
「僕も君みたいに強くなれたらな……」
思わずぼそっと呟いたが、なんとか聞き取れているようだった。
「私みたいになりたい?」
「……うん」
「じゃあ、私と同じことをするの。私と同じことをして、私になるの」
その言葉で思わず彼女の顔を見た。にっこり微笑んでいた。
「それって…」
彼女の口角が僕には歪んで見えて、どんどん酷くなっているようだった。でも不思議と怖くはない。むしろ、ワクワクするような、自分でも知らない感覚になった。
彼女が大きな箱を地面に置き、僕に近づく。
そして言った。
「大丈夫。私と貴方は同じ種類の人間よ」
背筋が伸び、さっきとは裏腹、体の底から何かが込み上げて来るようなそんな熱い気持ちになった。
今まで知らなかった何かが、すぐそこまできているようなそんな感覚。彼女に対する強い憧れ、気づいていないふりをしていたあの感情。
そして、初めて人間として認められたような感覚。
全てが彼女の言葉によって呼び起こされた、そんな気がした。全身の毛が逆立ち、まるで獣のような感覚だ。
今目の前にいて、僕に微笑んでいる彼女は、いつもクラスの中心で、誰からも愛される彼女ではない。
あの雨の日に見た、血まみれのオオカミだ。
赤い雨を浴びながら獲物を求めるその姿は、どこか寂しそうにも見えた。真っ赤に染まった瞳が僕を映し出し、じっと見つめた。
山登りが好きな祖父から、クマに遭遇した時の対処法を、昔から教えられてきたからか、オオカミがこちらを睨みつけても、さほど動揺はしなかった。
でもどうだろうか。
今目の前にいるのはクマではない。オオカミだ。
あの方法が効果的なのか分からない。そう思うとどんどん鼓動が速くなった。僕は物音ひとつ立てずに、オオカミから目を逸らさず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
*
今でも偶にあの日の風景が夢に出てくる。
それくらい、僕にとってはあの日の出来事が印象的で、でもそれは恐怖の対象かと言われたら、そうではなかった。見慣れないものを見た反動でか、思い出すとちょっとだけワクワクする。
今朝に見たその夢のせいで、教室でもつい表情が緩んでしまう。すると、廊下の方がざわつき始めた。そのざわつきの中心にいるのは、廊下を歩くと誰もが振り返り、教室にいると必ず彼女を囲んで会話が生まれる生徒。
学校一の人気者である、雪宮佳苗だ。
僕たちのクラスの学級委員であり、次期生徒会長と噂にもなっている彼女は、成績は優秀で父親が病院の医院長。
いずれ彼女もその病院を継ぐと言われていて、将来は安泰。真っ直ぐ伸びた長い艶のある髪の毛が印象的で、セーラー服から伸びる白く長い手足が男たちを翻弄する。ほんのり赤い唇も痺れるほどだ。
僕はそんな彼女をいつも教室の端から眺めている。
それだけで十分だ。
「おい、黒崎。後五分だけど?」
昼休みになって彼女を眺めているといつの間にか時間が経ち、いつもの時間まで後五分。後ろの席の神谷悟の声でハッと我に帰った僕は急いで売店に向かった。
「焼きそばパン一つと、唐揚げパン二つください」
僕は焼きそばパンも唐揚げパンも苦手だ。
焼きそばパンに細かく刻まれて入っている生姜が嫌いだし、唐揚げパンは上にかかっているタルタルソースが嫌いだからだ。
「遅れてごめん、売店すごく混んでて…」
走った後の息を整えながら神谷の机に買ってきたパンを3つ置いた。
「おいおい、二分もオーバーじゃねーか。まあいいよありがとうな〜く・ろ・さ・き」
いつも神谷の隣にいる吉田竜也が大きな声で言う。するともう一人の連れである吉崎快斗が僕の耳元でいつものセリフを吐いた。
『放課後、いつものとこな』
いつものニヤついた顔だ。神谷の顔を見ると、そっぽを向いていて目が合わない。
僕は席に座り、彼女を眺めた。
彼女を眺めている時間だけが、僕を救う唯一の時間。彼女は友達と仲良く弁当を囲んでいた。今日はフルーツも持ってきているみたい。弁当の隣に小さい入れ物がある。
僕は自分の弁当を開ける。雑に詰められたご飯に冷凍食品が並べられたおかず。そしてもう一つの入れ物には昨日スーパーで安売りしていたイチゴ。彼女と同じラインナップに嬉しくなった。
放課後のいつもの場所とは、校舎裏の事。いつものように人気がない道を通り角を曲がると、いつものように神谷達が居た。
「おっせーなー黒崎〜。ほらここまで来いよ」
壁に打ちつけられる。背中にジーンと痛みを感じる。でもこれだけでは終わらない。これもいつものこと。
「お前また雪宮のこと見てたよな〜」
「ほんと懲りねー奴。お前なんかが相手になるわけねーだろキモいんだよ」
三人の誰かが雪宮佳苗のことを好きなのには間違いない。不良と言われる彼らにも好かれる彼女は誰よりも最強だと思う。
そんな僕の姿をじっと見つめるのは神谷だ。偶にクスッと笑みを浮かべながら、神谷が「もういい」というまで終わらない。
ただ、そんな僕の姿を見ているのは神谷だけではない。
いや、僕ではなく、僕を見ている神谷の姿を、じっと見ている人がいる。
倒れ込んだ時にいつも確認をする。3階のちょうど窓がある音楽準備室から真っ直ぐこちらを見ている人。
真っ直ぐ神谷だけを見て、死んだように睨み続ける人。その正体を僕は知っている。
学校一の人気者である、雪宮佳苗、彼女だ。
今日も、彼女はあそこから神谷を見つめている。
「おい、もう行くぞ」
神谷の一言で今日もやっと彼らのストレスの発散である、マットの役割を終えた。
口の中が切れている。僕は溜まった血を地面に向かって吐き出した。
顔には滅多に手を出さないから、今日はレアな日。咳払いをしていると、後ろから微かに足音が聞こえた。
…来た。
「あなたって本当に弱虫ね」
一階の窓がガラッと開き、冷たい声が届いた。彼女だ。
僕は座ったまま壁に背中を付け、その声に応える。
「やり返せとは言わないんだ」
少し間があき、彼女が応える。
「分かってるくせに言わせるの?」
「いや別に、」
そう僕が振り返ろうとした時、
「神谷悟、あの人は少しやりすぎたわ」
その一言だけ残し、勢いよく窓を閉め、微かに聞こえる足音が鳴った。
僕と彼女が会話をする、一分にも満たないこの時間はほんの一ヶ月前から始まった。
あの時も同じように神谷達に囲まれていて、その日はイライラしていたのかいつもより手荒だった。
しばらくするとピタッと手が止まり、三人とも僕を眺めるように座った。
「あー、今日のあいつまじむかついたわ」
「それな?俺らに楯突いてタダで済むと思うなっての」
「あいつ」というのは体育の橋本先生のこと。
ガタイがよく、柔道の顧問で彼らが唯一ビビっていると言っても過言ではない相手。
体育の時間、こっぴどく怒られているのを見た。それのせいで今日はストレスが溜まっていたらしい。
僕は倒れながらぼーっと空を見た。
カラスの群れが奇妙に移動している。そこで、窓が開いている部屋があることに気がついた。
そしてそこには人影があり、それが彼女だと一瞬で気がついた。けれど僕でないと、その人物が学校一の人気者で、美人で優しいあの雪宮佳苗だと気が付かなかったと思う。
3階の窓から、見下すように僕たちを見る彼女の表情はとても不気味だった。そして、倒れている僕ではなく、彼らの方をじっと見つめていることにも違和感を覚えた。
彼ら三人がぐちぐち何かを言いながら帰ってからも、僕はしばらく倒れ込んだままだった。いつも以上に痛めつけられたからか、体に力が入らない。
「はあ……」
深いため息が出たその時だった。
ガラッと一階の窓が開いた音がして、間抜けなクマのように起き上がると、そこには彼女がいた。
「私が助けてあげようか」
彼女はそう一言、言い慣れたように口にした。それが僕と彼女が初めて交わした会話だ。
その日から何度も、僕らは決まってそこで会話をした。助けてあげようかと言った割には、彼女は3階から僕らを見下ろしているだけ。神谷をじっと見つめるだけだった。
*
9月になり、もうすぐ文化祭。
今日は文化祭の準備を、6限目と放課後でやることになっている。僕らのクラスはお化け屋敷をすることになり、クラスの中心である彼女が仕切り役となり準備が始まった。
彼女はテキパキとみんなに指示をして、さすが次期生徒会長と言ったところだった。
「神谷悟、あの人は少しやりすぎたわ」その言葉の意味を僕は問いたかった。彼女が何をする気なのかは僕には到底想像がつかない。想像ができないことが悔しい。
僕はまだ彼女には程遠い。
「雪宮〜俺らパスしていい〜?ほら、俺らがやると余計に迷惑って感じじゃん?不器用だし?」
吉崎が甘えたような声で彼女の肩に腕を回しながら言った。「彼女に触るな」なんて僕には言えない。「あなたって本当に弱虫ね」脳内で彼女の言葉が再生された。
彼女の周りの女子も、彼らが怖いのか引き攣った表情で笑っている。そんな中彼女は吉崎の腕を掴み、自分の体からどかしながらも手を握り、「え〜でも私、不器用でも手伝ってくれる人が好きだな〜」そんな甘えた声で答えた。
彼女の見つめる瞳にやられたのか、彼女の纏う匂いにやられたのか、「お、おう。やるわ!俺も!」と、吉崎はさっきまでの魂胆が嘘かのように、躾けられた犬のように、鼻の下を伸ばした。
神谷達の元に戻った吉崎は「アホか」と神谷にそう頭を叩かれていた。でもそんな神谷も彼女のことが好きだ。
僕には分かる、そう言いたいが、僕以外にもクラスの子のほとんどが神谷の気持ちに気がついている。きっと彼女自身もそれに気がついている。
神谷は彼女にだけ優しい。他の女子達にもキツく当たる神谷が、彼女にだけ優しいとなると、一気に噂にもなるし、好きなのではないかそうなるのは必然だった。
「雪宮、これやる」
準備が始まって仏塔しで2時間動き続けていた彼女に、神谷は水のペットボトルを渡していた。
「ありがとう!神谷くん!」
元気に上目遣いをしながら受け取る彼女の手と神谷の手が触れている。
「たまたま2本当たったから…」
神谷は誰でも分かる嘘をついて照れ隠しをしていた。そんな姿を見て彼女はクスッと笑った。今の彼女があの彼女か、それとも違うのか、僕はそれだけを考えていて、気がついたら持っていたカッターで指を切ってしまった。
保健室のドアを開けると誰もいなかった。先生がいないなんてことあるのだろうか。
よく見るとドアのところに、「先生は職員室にいます」とボードがかけてあった。
僕はそのまま保健室に入り、消毒を探した。すると僕の後を追って誰かが保健室に入ってきた。
背中に感じる冷ややかなオーラ。彼女だ。
「消毒は、ここ」
彼女が消毒液と絆創膏を取り出して、ここ座ってと椅子を指差した。その椅子に座ると、彼女は跪き、消毒液の蓋を開けた。
「イッタ…」
「しょうがないでしょちょっと我慢して」
「なんで来てくれたの」
「そりゃ、学級委員だから」
僕の指に絆創膏を貼る彼女の、まつ毛の間から見える目の美しさに驚きを隠せない。
ジャージ姿も、髪を横で括ってる姿も美しい。
彼女は本当に綺麗な人だ。
「あれ、どういう意味?」
「あれって何?」
「神谷がやりすぎたってやつ」
「あー、それはあなたにはまだ早いかな」
そうか。まだ僕は彼女に近づけていないんだ。話せただけで、彼女の秘密を知っているだけで、近づいてはいないんだ。
「はい!できた。カッター使う時は気をつけてよね」
そう言って彼女は立ち上がって、保健室を出て行こうとした。その後ろ姿を見て咄嗟に声を出した。
「あの日、あの2年前の雨の日…あそこで何をしてたの」
僕がそう口にすると、彼女はピタッと足を止めた。
そして僕の方を軽快に振り返る。
「あの日?なんのこと?」
そう言ったのは僕だけが知る彼女ではない、誰にでも優しく笑顔を振り撒く、人気者の彼女だった。
*
「玲央、よく聞いて。他人様に頼らずとも、強く生きて行ける大人になるのよ。残念だけど、玲央はそういう生き方をするしかないの。他の子とは違うのよ」
その言葉を最後に、生まれた時から母親だけだった僕の家族は、この世界から一人もいなくなった。
僕の母親は口数が多いとは言えない人だった。元々体が弱く、怒った姿どころか大きな声すら聞いたことがない。
いつも何を考えいるのか分からない不思議な人。
呆然と庭を眺めてお茶を飲んだり、僕が話しかけても振り向かないことが多かった。仕事もしていなかったし、どうやって生活費をやりくりしているのか、まだ幼い僕でも不安になるくらいだった。
父親の話は聞いたことがない。
ただいつも上の空の母が、一枚の写真とその横に飾る花を大切にしていたのを覚えている。
ご飯もまともに作らない母が、わざわざ着飾ったかと思えば、花屋に自ら出向き、毎週綺麗なお花を買ってきては、愛おしそうに飾っていた。
花の横に添えられた集合写真。
きっとこの中に自分の父親がいるのだろうと思ってはいたが、聞けなかった。
華奢な母の背中はいつも寂しそうで、同時に僕のことなんてこれっぽっちも見ていないことが、痛いほど伝わってきた。
一度だけ、母の愛情を試したことがある。
幼い自分の子が、夜遅くなるまで帰ってこなかったら、流石の母でも心配で家を飛び出してきてくれるんじゃないかと、僕はその安直な考えだけで、空が暗くなるまで、家の前で母が出て来てくれるのを待った。
結局、いつまで経っても母の姿はなく、暗くなった世界が怖くて、自分で家のドアを開けた。リビングに行くと、いつも通り庭を眺めて座っている母の後ろ姿があった。母の背中は相変わらず冷たくて、母にとって僕がどういう存在なのかやっと理解した。
「他人様に頼らずとも、強く生きて行ける大人になるのよ」
母はそんな強く真っ当に生きた人が言うセリフなんて、言えた立場ではないにも関わらず、僕にその言葉だけを残して息を引き取った。
僕が覚えている限りでは、それが最初で最後の、真っ直ぐ僕だけを見て放った言葉だった。
それから僕は、親戚を樽井回しにされながらも、母が残したお金で学校に通った。
母親は「産むな」という親戚の意見を聞かず、「彼との子供が私は欲しい」と僕を産んだらしい。だからか、母方の親戚には率先して僕を住ませていいと言う大人は誰一人としていなかった。
むしろ、どこに行っても邪魔者扱い、帰ってくるだけでため息をつかれて、お風呂に入るだけで気持ち悪がられた。もちろん、父親のことなんて何一つとして分からないのだから、父方の親戚を頼るなんて考えにすらならなかった。
そんな生活をしている内に、自分の感情を押し殺すことが得意になっていった。子供一人で家を借りられるわけがない。住む家を無くすよりかは楽なことだった。
なのに何故か、自分の気持ちを押し殺せば押し殺すだけ、不気味だと言われた。何を考えているかわからない、まるであの女みたいだと。「あの女」とは僕の母親のことだと思う。
家にいても家族の団欒に入れてもらえる訳がなく、隅っこでただ外を眺めた。月の光ですら眩しくて、目を細めた。
ふらっと外に出ても誰も何も言わない。
誰にも縛られない自由な生活をしていた。こんな性格だからか、学校でも特定で仲がいい人はいなかった。
あの日もふらっと夜に一人で外に出かけた。
雨が降っていても構わない。傘など必要ない。
雨に打たれると、僕のいらない感情が全て洗い流されていくようで好きだった。
学校でみんながグループを作っているのに僕だけ一人だとか、家に帰ると透明人間を演じていることとか。僕をそうさせている誰かに抱く感情が、全てスッと消え去っていく感覚になる。そんな雨の日が好きだった。
人通りが殆どない、廃墟ビルが建つ裏路地。
僕のお気に入りの場所だった。誰にも邪魔をされないし、透明人間を演じる必要もない。そこでただぼーっとするだけでよかった。
でもあの日は雨音とは別に何か変な音が耳に入ってきた。
不気味な音。奇妙な音。
雨が強くなるにつれ、その音までもが大きくなっているようだった。誰か声も聞こえる。悲鳴のようだ。
恐る恐るいつも通り角を曲がると、そこには赤い雨を浴びるオオカミがいた。
その日から僕の世界は変わった。
*
「ねえ聞いた?昨日隣町で人が殺されてたんだって」
「ええ!!こわーい。何処で見つかったの?」
「廃墟になってた病院だって」
「場所もホラーじゃん」
「うん、でもねその殺された人って奥さんにDVしてたんだって」
「え、じゃあ殺したの奥さんとか?」
「そう思うでしょ?でも奥さんは実家に逃げてたらしくてそもそも既に一緒に住んでなかったらしいのよ」
「じゃあまだ犯人見つかってないってこと?」
「そうみたい。怖いよね」
クラスの女子達が文化祭の準備で看板を作りながら話しているのが聞こえてきた。背筋が凍る話だ。
チラッと彼女の方を見る。
相変わらず美しく華麗で、みんなの中心。今日は髪の毛を一本に束ねていて、それもとても可愛い。
「おい黒崎、飲み物買ってきてくんね」
吉田が僕の肩に手を回して言った。
「え、でもまだ休み時間じゃ…」
時計を見ると二十分、休み時間までに時間があった。
「あ?お前何口答えしてんだよ、黒崎のくせに」
吉田は僕の耳元で言った。
「…ごめん」
「じゃあ俺ミルクティーで!」
僕が謝ると一瞬で声色を変え僕の肩をポンっと叩いた。
「なら俺はレモンティーで!」
続けて吉崎が手を上げて言った。チラッと神谷の方を見るとそっぽを向いている。
「神谷くんは何にする…?」
ここで神谷に聞かないと怒られるのは分かっている。どうせいつもの「…ココア」ってくるはずだ。見た目に似合わないチョイスにいつも笑いそうになる。
「…俺パス」
「え?」
「いらねーつってんだろ、さっさと行けよ」
神谷のまさかの回答に僕は驚いた。
お金を払うのはいつも僕で、飲みたい飲みたくないに関係なしに集るのが彼らなのに。吉田と吉崎も少し驚いた表情を浮かべていた。
「じゃあ二人分買ってくるね…」
自販機に着き、お金を入れてミルクティーとレモンティーを買った。
「ほんと弱虫」
彼女の声だ。背中に冷ややかな雰囲気も感じる。
僕はさっき女子達が話していた時のような背筋が凍る感覚になった。
「今度は何、また学級委員として?」
僕はお釣りを取りながらそう呟いた。
「いいえ?職員室に行く途中なの」
振り返ると彼女は出来上がった小物達を一つにまとめた大きな箱を手に持っていた。
「もしかして神谷くんに何か言った?」
神谷の不思議な行動から繋がるとしたら彼女だけだ。
「んーまあちょっとね、ほんのちょっと吹きかけただけよ」
やっぱり。神谷は彼女のことになると素直だ。
「僕も君みたいに強くなれたらな……」
思わずぼそっと呟いたが、なんとか聞き取れているようだった。
「私みたいになりたい?」
「……うん」
「じゃあ、私と同じことをするの。私と同じことをして、私になるの」
その言葉で思わず彼女の顔を見た。にっこり微笑んでいた。
「それって…」
彼女の口角が僕には歪んで見えて、どんどん酷くなっているようだった。でも不思議と怖くはない。むしろ、ワクワクするような、自分でも知らない感覚になった。
彼女が大きな箱を地面に置き、僕に近づく。
そして言った。
「大丈夫。私と貴方は同じ種類の人間よ」
背筋が伸び、さっきとは裏腹、体の底から何かが込み上げて来るようなそんな熱い気持ちになった。
今まで知らなかった何かが、すぐそこまできているようなそんな感覚。彼女に対する強い憧れ、気づいていないふりをしていたあの感情。
そして、初めて人間として認められたような感覚。
全てが彼女の言葉によって呼び起こされた、そんな気がした。全身の毛が逆立ち、まるで獣のような感覚だ。
今目の前にいて、僕に微笑んでいる彼女は、いつもクラスの中心で、誰からも愛される彼女ではない。
あの雨の日に見た、血まみれのオオカミだ。



