カラン、と甲高い音が狭苦しいグラスの中で弾ける。ぎゅっと握りしめているせいで、熱が内側に伝わりすぎているのかもしれない。
それでも私は、ぎゅうっと握りしめ続けた。
私達の間に降りている沈黙の中に、また一つ、カランと自然な音が弾ける。
「……その、本当にクリーニング代は良いんですか?」
「えぇ。もう随分色々ともらってるんで」
ズボンと靴にちょっと飛沫が飛んできたくらいで。と、彼は苦々しい面持ちで告げる。
皮肉だと言わなくても分かる皮肉だ。
「本当に色々とごめんなさい」
私はサッと笑みを浮かべて謝る。割と笑みが崩れないタイプだけれど、仕事でさらに磨きがかかったわ。なんて、しみじみと思った。
彼は「大丈夫です」と、ぴしゃりと返す。
そうして再び、サッと降ろされる沈黙。某有名映画でおばさまが乱暴に降ろすシャッターよりも素早く感じた。
私はストローでサクサクとグラスをかき混ぜて、小さい流れに乗る四角を追う。
冷たいのに、どんどんと小さくなっていく四角の冷たさ。
「あ、あの。正直、私、貴方がここまで付いてきてくれるとは思ってなかったんです。だからその、貴方がここまで来てくれて良かったな、なんて……」
勇気を出して沈黙を破るも、つかの間。再び、私達の間を沈黙が支配する。
うう、気まずい。
ストローに口をつけ、ちびっとカフェオレの甘さを流し込む。慰めの甘さは、少し苦々しく感じた。
私の口が、二口目を求めようとした時だった。
彼の口から「あのさ」と、ぎこちない言葉が飛ぶ。
「変な事言うって自覚あって聞くんだけど。もしかして、これって新手の逆ナンか」
「まさか!」
思いもよらない単語が飛び出し、私はギョッとして大きく突っ込んだ。
「……よね」
バッサリと遮ったばかりか、清々しいまでの一蹴に、彼はばつが悪そうに頷く。
私の方も、なんだか申し訳なくなってきた。
よくよく考えてみれば、これは逆ナンに取られてもおかしくない。というか、むしろ「それそのもの」じゃない?
だって、ねぇ。安っぽく作り込まれた展開から始まっているし、必ず冒頭に「いや」を付けて嫌がる彼を強引にここまで引っ張ってきているのだから。
私は、申し訳なさと居心地の悪さを誤魔化す様にして、ストローに口をつけた。
スルルッと流れ込むものに、今度は不思議と苦みを感じない。
何でだろう?
そんな風に思っていると、彼の方から「じゃあ」と漂っていた沈黙をパッと払われた。
「これで。コーヒー、ごちそうさまでした」
突然切り出された別れに、私は慌てて「えっ、あの!」と腰を上げた彼を引き止める。
見るまでも言うまでもなく、彼は「まだ何か?」を全身で訴えていた。
「こ。これから、どうするんですか?」
瞬時に彼の眉間が、マリアナ海溝の如く深い谷を作る。一文字に結ばれていたはずの唇だって、ぐにゃりと歪んでいた。
私をジッと貫く瞳からも「やっぱり、逆ナンじゃん」と言う想いが広がっているのが見える。
私は「あ~っと」と、射抜かれる気まずさから逃れようと言葉を吐き出し始めた。
「違い、ます。あの、本当にそんなんじゃなくて。邪な気持ちなんて、本当に一切ないんです。全く、微塵もなくて。けど、その……あの、なんて言うか」
まごまごと弱腰の言い分ばかりを紡いでしまう。
うまい言葉が見つからないのだ。
なんて言ったら、一番良いって言うの?
パッと見かけただけだけど、このまま放っておいたら貴方が死にそうなのが心配でって素直に言うべき?
私の気にしすぎかもしれないのに? そんな事するつもりないけどって言われるかもしれないのに?
じわじわと恥を感じ始めた。このままでは、とんでもない不審者役で終わるかもしれない……そんな恐ろしい恥を。
ピタリと水滴が張り付いた冷たい指先から、サーッと冷たさが登ってきた。
その時だった、彼の方から「もしかして」と言葉が飛ぶ。
「俺が何をしようとしているのか分かったから、声をかけてきた?」
ぶっきらぼうでまっすぐな言葉が、ドスンッと突き刺さった。
まごまごと動くばかりの唇が、ゆっくりと閉ざされていく。
嗚呼、やっぱりそう聞くって事は……私の想像した通りで「正解」なんだ。
私はサッと彼から目を落として、カランとも鳴らせなくなった小さな氷を見つめて言う。
「うん」
「何の為に?」
俺達、初対面だろう? と、彼の方から言葉をパッと重ねてきた。
私は「えっ?」と呆気に取られてしまう。
彼の方から言葉を続けられた意外さのせいって言うのも、少しはあるけれど。ぶつけられた問いに驚いてしまったのだ。
何の為、その答えは一つじゃないのかなぁ。
私は唾と共に生まれた驚きを奥へと押し込んでから、彼の疑問にまっすぐ応えた。
「今にも死にそうかもって人が近くに居たら放っておけません」
普通じゃないですか?
静かに重ねた言葉に、カランと、相手のグラスの中で相槌が打たれた。
彼の目が、じわっと大きく開かれる。
けれど、すぐに鋭い目元に戻った。
私はビクッと強張ってしまう。向けられた視線が、あまりにも冷たかったから。
「君の普通はよく分かった。けど、俺の普通とは違うんだよ」
彼は淡々と言うと、へらりと右の口角だけを押し上げた。
「傲慢な善意を押しつけられたせいで、大切な計画を狂わされたって思う。計画だけじゃない。あそこに立つまでの勇気だって、覚悟だって、天からケチをつけられた様に思うよ」
つらつらと吐き出される本音に、私は「えっ?」と耳を疑ってしまう。
ひどく愕然とするも、彼の言葉は止まらなかった。
「それに、俺は君みたいな人に引き止められる程の価値ある人間じゃないんだ。立派でも何でもない、居たって仕方ない。必要ないのに生まれてしまった、そんな惨めな存在なんだよ」
自分をズタズタに傷つける言葉が、何の躊躇いもなく、平然と飛び出す。
私は聞いていられず「そんな事ないでしょ」と、彼の否定を否定で封じ込もうとした。
「そんな事」
「あるんだよ。君は俺を知らないだろ、だから簡単にそう言えてしまうだけだ」
傷がバシッと容赦なく入った気がする。
私に、そして彼自身にも。
私はキュッと唇を結んだ。
彼は押し黙った私を一瞥すると、ストンと目を落とす。
「あの覚悟と勇気をまた奮い立たせなくちゃいけないと思うと、君の優しさが心底憎い」
唾棄された本音に、私は何も言えなくなってしまった。
ただ、カランカランッと悲しげに泣く音が遠くで聞こえる。
「もう、邪魔しないでくれ」
彼は静かに告げると、サッと席を離れた。
そして私が作り替えてしまった外れの道から、自分の敷いた「本来の道」をまた歩き出す。
「はぁあ。何してんだろ、私」
私はスッと冷たいグラスを持ち上げて、ストローに口をつける。
グラスが動いた事によって、グラスの中でぽちゃんぽちゃんと不思議を纏った甲高い音が弾けた。
彼の世界から役を降ろされた私も、また、自分の世界の主役に戻る。
ブレンドされた苦みと甘みを「はぁ」と奥歯で噛みしめて、何度も味わった。
けれど、まだ主役に戻った感じがしない。不思議と、彼の世界に残っている気がするのだ。
……耳奥に、心に、弱々しく届けられた去り際の一言が刻まれているからだろうか。
「ごめん」
心地よくもギュッと心を締め付けられる苦しさが、再び広がっていく。
私はふるふると小さく頭を振り、サッと立ち上がって歩き出したのだった。
新しい家となった我が家の手直しに取りかかってから数分後、私は我が家と同じ暖かなクリーム色の扉の前に立っていた。
呼び鈴をぐっと人差し指で押す。音の鳴らないタイプなのか、がつんっと押す部分だけが下がった。
クリーム色の扉は、開く気配が全くない。
これはどっちだろう。単純に留守なのか、それとも私の人差し指が伝えたものが無音のせいで伝わっていないのか。
もわもわとした不安に駆られた私は、もう一度、ぐっと人差し指を押し出した。
「……これ、私のも鳴らないのかな」
思わず、ぼそっと独り言が零れた。
その時だ、ガチャッとクリーム色から重々しい金属音が弾ける。
私の手にギュッと力が走り、手土産の持ち手の紐がクッと唸った。
「突然申し訳ありません、私、昨日隣に引っ越し……あ!」
じわぁと開かれていった扉が、挨拶を述べていた私に力強い衝撃をもたらす。
ぎゅうっと小指が締め付けられた。
心も「わぁっ!」と騒ぎだす。熱に浮かされた様にゆらっ、ゆらっと。けれど、ちゃんと自我を保つべく、芯にはビリビリと雷が迸っていた。
嗚呼、これはきっと単なる強い衝撃ってものじゃない。
本来であれば触れる事は愚か感じる事さえも出来ないものによる衝撃……そう。これは、運命だ。
それでも私は、ぎゅうっと握りしめ続けた。
私達の間に降りている沈黙の中に、また一つ、カランと自然な音が弾ける。
「……その、本当にクリーニング代は良いんですか?」
「えぇ。もう随分色々ともらってるんで」
ズボンと靴にちょっと飛沫が飛んできたくらいで。と、彼は苦々しい面持ちで告げる。
皮肉だと言わなくても分かる皮肉だ。
「本当に色々とごめんなさい」
私はサッと笑みを浮かべて謝る。割と笑みが崩れないタイプだけれど、仕事でさらに磨きがかかったわ。なんて、しみじみと思った。
彼は「大丈夫です」と、ぴしゃりと返す。
そうして再び、サッと降ろされる沈黙。某有名映画でおばさまが乱暴に降ろすシャッターよりも素早く感じた。
私はストローでサクサクとグラスをかき混ぜて、小さい流れに乗る四角を追う。
冷たいのに、どんどんと小さくなっていく四角の冷たさ。
「あ、あの。正直、私、貴方がここまで付いてきてくれるとは思ってなかったんです。だからその、貴方がここまで来てくれて良かったな、なんて……」
勇気を出して沈黙を破るも、つかの間。再び、私達の間を沈黙が支配する。
うう、気まずい。
ストローに口をつけ、ちびっとカフェオレの甘さを流し込む。慰めの甘さは、少し苦々しく感じた。
私の口が、二口目を求めようとした時だった。
彼の口から「あのさ」と、ぎこちない言葉が飛ぶ。
「変な事言うって自覚あって聞くんだけど。もしかして、これって新手の逆ナンか」
「まさか!」
思いもよらない単語が飛び出し、私はギョッとして大きく突っ込んだ。
「……よね」
バッサリと遮ったばかりか、清々しいまでの一蹴に、彼はばつが悪そうに頷く。
私の方も、なんだか申し訳なくなってきた。
よくよく考えてみれば、これは逆ナンに取られてもおかしくない。というか、むしろ「それそのもの」じゃない?
だって、ねぇ。安っぽく作り込まれた展開から始まっているし、必ず冒頭に「いや」を付けて嫌がる彼を強引にここまで引っ張ってきているのだから。
私は、申し訳なさと居心地の悪さを誤魔化す様にして、ストローに口をつけた。
スルルッと流れ込むものに、今度は不思議と苦みを感じない。
何でだろう?
そんな風に思っていると、彼の方から「じゃあ」と漂っていた沈黙をパッと払われた。
「これで。コーヒー、ごちそうさまでした」
突然切り出された別れに、私は慌てて「えっ、あの!」と腰を上げた彼を引き止める。
見るまでも言うまでもなく、彼は「まだ何か?」を全身で訴えていた。
「こ。これから、どうするんですか?」
瞬時に彼の眉間が、マリアナ海溝の如く深い谷を作る。一文字に結ばれていたはずの唇だって、ぐにゃりと歪んでいた。
私をジッと貫く瞳からも「やっぱり、逆ナンじゃん」と言う想いが広がっているのが見える。
私は「あ~っと」と、射抜かれる気まずさから逃れようと言葉を吐き出し始めた。
「違い、ます。あの、本当にそんなんじゃなくて。邪な気持ちなんて、本当に一切ないんです。全く、微塵もなくて。けど、その……あの、なんて言うか」
まごまごと弱腰の言い分ばかりを紡いでしまう。
うまい言葉が見つからないのだ。
なんて言ったら、一番良いって言うの?
パッと見かけただけだけど、このまま放っておいたら貴方が死にそうなのが心配でって素直に言うべき?
私の気にしすぎかもしれないのに? そんな事するつもりないけどって言われるかもしれないのに?
じわじわと恥を感じ始めた。このままでは、とんでもない不審者役で終わるかもしれない……そんな恐ろしい恥を。
ピタリと水滴が張り付いた冷たい指先から、サーッと冷たさが登ってきた。
その時だった、彼の方から「もしかして」と言葉が飛ぶ。
「俺が何をしようとしているのか分かったから、声をかけてきた?」
ぶっきらぼうでまっすぐな言葉が、ドスンッと突き刺さった。
まごまごと動くばかりの唇が、ゆっくりと閉ざされていく。
嗚呼、やっぱりそう聞くって事は……私の想像した通りで「正解」なんだ。
私はサッと彼から目を落として、カランとも鳴らせなくなった小さな氷を見つめて言う。
「うん」
「何の為に?」
俺達、初対面だろう? と、彼の方から言葉をパッと重ねてきた。
私は「えっ?」と呆気に取られてしまう。
彼の方から言葉を続けられた意外さのせいって言うのも、少しはあるけれど。ぶつけられた問いに驚いてしまったのだ。
何の為、その答えは一つじゃないのかなぁ。
私は唾と共に生まれた驚きを奥へと押し込んでから、彼の疑問にまっすぐ応えた。
「今にも死にそうかもって人が近くに居たら放っておけません」
普通じゃないですか?
静かに重ねた言葉に、カランと、相手のグラスの中で相槌が打たれた。
彼の目が、じわっと大きく開かれる。
けれど、すぐに鋭い目元に戻った。
私はビクッと強張ってしまう。向けられた視線が、あまりにも冷たかったから。
「君の普通はよく分かった。けど、俺の普通とは違うんだよ」
彼は淡々と言うと、へらりと右の口角だけを押し上げた。
「傲慢な善意を押しつけられたせいで、大切な計画を狂わされたって思う。計画だけじゃない。あそこに立つまでの勇気だって、覚悟だって、天からケチをつけられた様に思うよ」
つらつらと吐き出される本音に、私は「えっ?」と耳を疑ってしまう。
ひどく愕然とするも、彼の言葉は止まらなかった。
「それに、俺は君みたいな人に引き止められる程の価値ある人間じゃないんだ。立派でも何でもない、居たって仕方ない。必要ないのに生まれてしまった、そんな惨めな存在なんだよ」
自分をズタズタに傷つける言葉が、何の躊躇いもなく、平然と飛び出す。
私は聞いていられず「そんな事ないでしょ」と、彼の否定を否定で封じ込もうとした。
「そんな事」
「あるんだよ。君は俺を知らないだろ、だから簡単にそう言えてしまうだけだ」
傷がバシッと容赦なく入った気がする。
私に、そして彼自身にも。
私はキュッと唇を結んだ。
彼は押し黙った私を一瞥すると、ストンと目を落とす。
「あの覚悟と勇気をまた奮い立たせなくちゃいけないと思うと、君の優しさが心底憎い」
唾棄された本音に、私は何も言えなくなってしまった。
ただ、カランカランッと悲しげに泣く音が遠くで聞こえる。
「もう、邪魔しないでくれ」
彼は静かに告げると、サッと席を離れた。
そして私が作り替えてしまった外れの道から、自分の敷いた「本来の道」をまた歩き出す。
「はぁあ。何してんだろ、私」
私はスッと冷たいグラスを持ち上げて、ストローに口をつける。
グラスが動いた事によって、グラスの中でぽちゃんぽちゃんと不思議を纏った甲高い音が弾けた。
彼の世界から役を降ろされた私も、また、自分の世界の主役に戻る。
ブレンドされた苦みと甘みを「はぁ」と奥歯で噛みしめて、何度も味わった。
けれど、まだ主役に戻った感じがしない。不思議と、彼の世界に残っている気がするのだ。
……耳奥に、心に、弱々しく届けられた去り際の一言が刻まれているからだろうか。
「ごめん」
心地よくもギュッと心を締め付けられる苦しさが、再び広がっていく。
私はふるふると小さく頭を振り、サッと立ち上がって歩き出したのだった。
新しい家となった我が家の手直しに取りかかってから数分後、私は我が家と同じ暖かなクリーム色の扉の前に立っていた。
呼び鈴をぐっと人差し指で押す。音の鳴らないタイプなのか、がつんっと押す部分だけが下がった。
クリーム色の扉は、開く気配が全くない。
これはどっちだろう。単純に留守なのか、それとも私の人差し指が伝えたものが無音のせいで伝わっていないのか。
もわもわとした不安に駆られた私は、もう一度、ぐっと人差し指を押し出した。
「……これ、私のも鳴らないのかな」
思わず、ぼそっと独り言が零れた。
その時だ、ガチャッとクリーム色から重々しい金属音が弾ける。
私の手にギュッと力が走り、手土産の持ち手の紐がクッと唸った。
「突然申し訳ありません、私、昨日隣に引っ越し……あ!」
じわぁと開かれていった扉が、挨拶を述べていた私に力強い衝撃をもたらす。
ぎゅうっと小指が締め付けられた。
心も「わぁっ!」と騒ぎだす。熱に浮かされた様にゆらっ、ゆらっと。けれど、ちゃんと自我を保つべく、芯にはビリビリと雷が迸っていた。
嗚呼、これはきっと単なる強い衝撃ってものじゃない。
本来であれば触れる事は愚か感じる事さえも出来ないものによる衝撃……そう。これは、運命だ。



