日食が終わるまで、あと××時間

私の意識が、無意識に日常を手にした。



 ゆっくりと押し上げられ始める瞼が、いつもの日常を映し始める。

 いつも通りの私の部屋、いつも通りに差し込む太陽光。でも、眼前と言う部分だけには、まだ特別が象られていた。



 私は夢みたいな特別にパチパチと目を瞬く。それでも世界は瓦解を起こさず、ちゃんと在り続けた。

 ベッドの縁へりに額をもたせかけて突っ伏し、スウスウと小さな寝息を立てている彼が。



 幸せがワッと駆け巡り、急速に覚醒していく。



 まだここに居てくれているばかりか、ここで眠ってくれているなんて。今日は始まったばかりなのに、もうすでに頭の天頂から足先まで幸せでヒタヒタだわ。



 にやぁと、口角もだらしなく緩み始めた。奥歯を噛みしめて、緩みを律そうとするけれど。噛みしめれば噛みしめる程に、幸せの味が深まっていく。

 目の前に居る愛おしい存在を前に「好き」が零れそうになっていく、そんな時だった。フッと、突然噛みしめる味に変化が起こる。



 ゆっくりと奥歯の力が抜けていき、じわぁと口角が下がり始めた。



 思い出したのだ、この幸せが何を元にして出来ているのか。



 ……そうよね、この幸せは私が無理やり従わせたからあるだけなのよね。



「ごめんなさい」

 口先まで運ばれていた「好き」をバッと横切って零れたのは、謝罪だった。



 すると「ん」と小さな吐息が零れる。私の耳がハッとそれをキャッチするや否や、ガバッと飛び退く様にして沈んでいた彼の頭が跳ね上がった。



 パチッと、複雑な感情を持った視線と重なる。



「ごめん、いつの間にか落ちてた。いや、眠るつもりは毛頭なかったんだけど。本当にいつの間にか落ちてて。いや、ごめん」

 マズい事をしでかした、その一言が狼狽する彼から露わになっている。



 何もマズい事なんてしていないのに。あわあわと弁解する可愛い姿に、私は思わずぷっと吹き出してしまう。

 すると彼の弁解がピタッと止まった。その代わりに、「え? 何で笑ってんの?」と言う不信感でいっぱいになっている。



 今度は、私が弁解を紡ぐ番だった。

「ごめん、気にしないで。ちょっと、気持ちが溢れちゃっただけ」

 微笑を浮かべながら告げ、「何でもないの」と抱いた愛おしさを誤魔化す。



 目の前では、益々、彼の疑念が濃くなっていた。

 でも、私は「良いの、良いの」と彼の疑念を薄めようとせず、「それよりも」と別の方へと話を変えた。

 こればっかりは彼に分かってもらわなくて良い。だって、この愛しさは恋する女の子の秘密ってものだから。



「本当にずっとここに居てくれたのね。ありがとう、本当に。蓮斗のおかげで、とっても安心して眠れたし、今だって恐怖なんて全く感じないんだけど……ごめんね。無理やり、ここに居させ続けちゃったよね。本当にごめんね」

「いや、別に気にしなくて良いよ。そんな無理やりって程でもなかったし、あんな事があれば誰だって当然ああなるだろうから。君が謝る必要も気に負う必要もない」

 蓮斗は淡々と打ち返した。



 嫌なのに「嫌じゃない」を上手に見せてくる彼の姿に、私の胸はギュウッと痛くなる。



 嗚呼、蓮斗は本当に優しい人だわ。



 私はキュッと唇を軽く真一文字に結んでから、そのままぐっと押し上げた。眉も少し、八の字にして。

「本当にごめんね」

 嫌な思いばかりさせ続けて。



 ぽつりと項垂れた謝罪に、彼の口から「いや」が優しく吐き出された。

 その時だった。



 ガチャッと荒々しく玄関の扉が開かれた。かと思えば、瞬時にバタバタッと廊下を駆け込んでくる足音が堂々と弾ける。



 私達の身体がガチッと固まった……けれど。私の身体の強張りは、すぐに解ける事になる。

「結叶ぁぁぁぁぁぁっ!」

 近所迷惑を余裕で超える叫び声によって。



 あ、京子か。と、身体が納得で弛緩するや否や、バァンッとリビングの扉が勢いよく開かれた。



 ワンケーの間取りだからこそ、この部屋全体を余裕で震わせる響き。もしかしたら、このアパート全体に伝わっているかもしれない。

 私は息せき切らし飛び込んで、いや、突っ込んできた京子に「京子、どうしたのよ? こんな朝早くから来るなんて」と、問いかけた。



「なぁにがどうしたの、よ! アンタ、変態に襲われたんでしょ? ! 大丈夫なの? !」

 京子は平然とする私にガウッと大きく噛みつき、心配をこれでもかと言う程にドバッと私に浴びせる。



 私は京子から注がれる物に、「えっ」と目を丸くしてしまった。



「なんでもう知っているの? まだ誰にも言ってないのに」

「そりゃ知ってるわ、枢木家がどんな所か忘れた? !」

 枢木ウチを舐めんな! と、悲鳴の如く叫ばれる突っ込みに、私は「あ、だからか」と納得する。



 京子は納得に落ちた私を見るや否や「なんで早く言ってくれなかったのよ!」と、ガブリと噛みつき直した。

「そりゃアンタは爆発寸前までため込む質だけど! 今回の事は絶対にため込んじゃいけなかった事じゃない! すぐに言うべき事だったじゃない! なんで害が起きる前に言ってくれなかったのよ! 起き抜けに親友がそんな目に遭った事を聞かされた私の身になってみなさい! どれほど心配して、どれほど驚いたと思うの? !」

 ドバッと浴びせられる心配が、ただの心配じゃなくなった。言わなかった事への怒り、自分がこうなるまで気付かなかった事への苛立ちと後悔がドバドバと降り注がれる。



 私は京子から浴びせられる物を一つも拭わずに、全身でしっかりと受け止めた。



「ごめん、京子。私が馬鹿だった。本当にごめん」

 親友を傷つけてしまった、その反省を謝罪に変えて紡ぐ。



 すると「ふうっ」と勢いのある溜息が吐き出された。



「本当よ、しっかり反省なさい」

 刺々しくて荒々しい声音から一転、いつもの優しい声音で凜と紡がれる。口元も、いつも通りの温かさをふわりと描いていた。



 けれど、唐突にその口は「あ」と大きく開く。間が抜けた一言が向けられた先に居るのは、固まり続けている蓮斗だった。



 私の口からも同じ「あ」が零れるけれど、同じ「あ」でもこちらは焦りに染まった声色だ。



「京子、違うわよ。この人は」

「噂の王子様!」

 私の焦りをバンッと吹っ飛ばし、京子は嬉々とした声を蓮斗に浴びせる。おかげで、私の焦りはぺしゃんこだ。



「噂の王子様?」

 蓮斗の素っ頓狂な怪訝が繰り返される。そればかりか、助け船を求める様にこちらをチラと一瞥される。

 でも私は、その助けに手を伸ばせる余裕が微塵もなかった。私達だけの秘密の呼び名おうじさまを暴露した口にガバッと手を伸ばす事で精一杯だったから。



 けれど、京子はサッと持ち前の身体能力で避け、呆気にとられている蓮斗の前に立った。

「初めまして。私、枢木京子って言いますぅ」

「……雨澤蓮斗です」

 ああ、この人が例の規格外か。と言わんばかりの眼差しで京子を見据えている。



 私は知っている。京子はそんな視線一つで止まる人ではない、と。

 案の定、京子は浮かべる物を一つも崩さずに「私の事を色々と聞いているみたいで良かったです、手間が省けました」と打ち返していた。



 一方の蓮斗は、初めてのタイプと対峙しているみたいで反応に困り続けている。ちょっと可哀想って思うべきなんだろうけど、可愛らしく見えて仕方ない。

 私、盲目過ぎ?



「私も貴方の事をよく聞いてるんですよ。と言ってもまぁ、ほっとんどがもうベッタベッタの惚気なんですけどねぇ」

 またも唐突な暴露に、ほのぼのとしていた私がギョッと我に返った。

「京子!」

 今度こそ、バシッと暴露癖を持った口を強引に塞ぐ。押さえ込んだ掌で「照れちゃってぇ」と豪快な笑みがくぐもった。



 でも、それだけ。京子はすぐにするりと私の囲いから逃れ、「まぁ、会ってみて安心したわ」と言葉を継ぐ。

「変に危なくも、ヤバそうでもないし。それに確かに、出会うべくして出会った存在って感じがあるもの。この人と結叶」

「ちょっと、もう本当に変な事言わないでよ」

 フフッと高い所からのからかいに、私がムッとして返した。その時だった。



「多分、そうですね」

 と、後ろから声がした。

私も京子も、同時にそちらへ視線を注ぐ。



 完全に蚊帳の外だったのに、蓮斗は瞬く間に四つの瞳にガシッと捉えられ、中心に押し出された。

 そして意外な事に、蓮斗はそこで泰然と言葉を継ぐ。



「だからあの時、出会ったんだと思います。いや、出会ったんじゃないか……出逢わなきゃいけない存在と、俺は出逢えたんだ」

 結びに近づくにつれ、独り言みたいに囲われていく言葉。



 それでも確かに、蓮斗の心から零れていた。

 じぃんと、私の胸に穏やかな波紋が広がっていく。幾重にも広がる円に、ドクンドクンと脈を打つ恋心が重なった。



 七宝紋みたいに連なって、連なって、響いていく。



「出会わなきゃいけない存在、ねぇ」

 京子は満足げな笑みで蓮斗の言葉を噛みしめると、突然「くぅぅっ!」と変な声を上げた。



 蓮斗は勿論、慣れている私でも唐突すぎて流石にビクッと強張ってしまう。

 けれど、京子は唖然と固まる私達を気にも留めずに「たまらないわぁ、この青春アオハル! 最アンド高だわぁ!」と腕をぶんぶんと上下させて、興奮を爆発させた。



「私もこう言う恋に落ちたいわぁ、運命的な出会いをしたいわぁ! くあぁ、本当に羨ましい! いつか私も素敵な王子様と」

「京子!」

 私の絶叫が弾け、京子の興奮を遮断させるが。「本当に照れちゃって!」と興奮がワンランク上げられたばかりか、「あっ、今のは違うか! そうか、そう言う事よね!」と、また勝手に突っ走り始めた。



「私がお邪魔虫だから嫌って事よね。そうよね! 私もこれ以上、尊い二人のお邪魔虫になってちゃ駄目よね! リア充の邪魔はすんなって家訓にあるのに、うっかり!」

 ばーっと一息にまくし立てると、「じゃっ!」と意気揚々と片手を上げる。

「私は私のやるべき事に戻るわっ!」

 結叶は結叶のやるべき事を続けてちょうだい! と、京子は来た時と同じ様にバタバタとどこかへ突進していった。



 嵐が去った後に、必ず来るのは静けさだ。荒ぶる存在がパッと居なくなると、シィンと虚しい響きが際立つ。



 私は、広がりつつある気まずさに歯止めをかけるべく「あの」とおずおずと声をあげた。

「ごめんね? 本当に勢いが凄い子で、悪気とかは全くないんだけど。大変だったよね?」

「いや、まぁ。うん、大丈夫」

 ああぁ、やっぱり。大丈夫って言いつつも大丈夫じゃなさそう。

 私は「本当にごめん」と、ひたすら謝るしかなかった。



 嵐の後片付けは、いつも大変になる。そう、ヒシヒシと感じてしまったけれど……やっぱり私にとって京子は嵐じゃなくて、ずっと「頼りの親友」だ。

 後日、京子からこんなメッセージが送られてきたのである。

『自分だけに特別な笑顔を向けてくれたって勘違いした痛客もといストーカークソ男、バチボコにしてから逮捕してやったわよ。これでもうアンタと接近する事は出来ないし、アンタを陥れた恐怖以上の地獄を見る羽目になるわ。だからもう怖がらなくて良いの。ここからまた安心して、幸せを作り、作られる二人の日々を過ごしてちょうだいね』