日食が終わるまで、あと××時間

唐突にガチャッと弾ける荒々しい音が、私を覆う黒にピシピシッと衝撃を入れる。力強く、素早く走る稲妻形のヒビは、すぐに全体に広がった。

 あっという間に、ばらばらっと砕かれ落ちる。そのおかげで、ずっとそこにあったのに見えなかった世界がドンドンと見え始めた。



 ……あ、あぁ、嘘。あんな事、言っていたのに。何があっても、絶対に来ないって顔していたのに。



 私は、彼をまっすぐ見つめた。目を見開き、少し息を切らして佇む彼を。

「……何、してんだ」

 困惑が滲んでいながらも冷ややかで鋭い疑問が、縮まっている距離の中央にドンッと突き刺さった。

「いや良い。兎に角、すぐに彼女から離れろ」

 二撃目が飛びかかり、攻撃対象を捉える。

 それがドンッと貫いたおかげで、男が当たった攻撃に呻いて私から退いていく。刹那、ぶわっと安堵が心の奥底から溢れて、ボロボロと流れ出す。

 蓮斗、蓮斗と何度も彼の名を叫びながら。でも



「お前こそ、僕の彼女から離れてもらおうか」

 男は当たった攻撃に呻いて、離れた訳じゃなかった。辛辣な言葉を吐いて、自分を攻撃してきた蓮斗に反撃し始める。



「僕の彼女?」

 静かな怪訝が、素っ頓狂な言葉をすぐに繰り返した。確認される様に言われるのが嫌で、私の首は自然とふるふるっと横に振られる。

 けれど「そうだ、僕の彼女だ」と蕩々と続く否定のせいで、私の否定はぺしゃりと潰されてしまった。

「それなのに、ここまで入り込んでくるなんてあり得ないな。利用されているだけの男ともなると、それは殊更だ」

 意味不明な攻撃が、容赦なく蓮斗を襲う。

「全く、お前は結叶ちゃんに利用されていると言う事も分かっていないらしいな。結叶ちゃんは、僕がどこまで許してくれるのかを図りたくてお前を使っているだけなんだよ」

 ハンッと鼻で笑うと、「困ったねぇ」と急激な猫なで声が私にまっすぐ向けられた。ぞわりと粟立つ肌を押さえたいけれど、ガチガチに固められているままのせいで動けない。



「結叶ちゃんがいじらしくて可愛すぎるあまり、勘違いする馬鹿男が現れてしまったよ」



 はぁ? 何を言っているの? 馬鹿男は貴方でしょ、さっきからずっと意味不明な事ばかりを言っているし、し続けているんだもの。奥さんと子供も居るのにこんな事をするなんて、心底気持ち悪いし、本当に最悪よ。だから貴方なんてこれっぽっちも好きじゃない。死ぬほど無理な男だわ!



 心が遂に限界を迎え、ダーッと一気に怒りを並べ立てた。

 でも、双眸があまりにもくっきりと恐怖を捉えてしまっているせいで、怒りは恐怖の茨をくぐり抜けられない。



 叫びたいのに、「違う、全部デタラメよ!」って。否定したいのに、「私が好きな人は貴方なんかじゃない」って。

 茨の内側で募る想いが、出られない苦しみから逃れようとしてぎゅうっと丸まる唇を噛みしめだした。すると



「……アンタ、強いな」

 突然、蓮斗の低い声が淡々と弾ける。


 脈絡もない一言に、私は愚か私を押さえつけている男でさえも「はぁ?」と呆気にとられてしまっていた。

 それでも、蓮斗は「本当に強いと思うよ」と繰り返し、泰然と言葉を継いでいる。

「そんな風に自分の思いを目の前で全て吐き出せるばかりか、手を伸ばすだけでも焦がされてしまう太陽に直接触れられるんだから。強いよな。俺は出来ない。そんな事、やろうとすらも思わない。今、つくづく思い知らされたよ。嗚呼、俺は太陽の光を浴びて生きる事しか出来ない人間なんだって。とことん弱い人間クズなんだって」

 だから俺からその太陽を奪わないでくれないか。と、蓮斗は男をジッと見据えて静かに告げた。



「意味が」

「俺は、アンタと違って太陽に生かされている人間なんだよ。だからその太陽を沈ませたら、俺は生きられなくなる。明日を迎えようとすら思えない」

 つまりアンタはこの一度で二人分の命を殺す事になるんだ。

 男をまっすぐ射抜いたまま、彼はずいと一歩を踏みしめていく。まるで、紡ぐ言葉を補強するかの様に。



 男にとっては、それが異常な補強に思えたのだろう。「は?」と乾いた一言を零し、足をよたりと後退させていく。



 蓮斗は直ぐさま開いた距離を埋める様にして、一歩を着実に詰めた。

 男の足が、また一歩、下がっていく。

 それでも距離は均衡を保ち続けていた。



「アンタは強いから、人をぐちゃぐちゃに殺した後の重みにも耐えられるんだろうな。ああ勿論、この太陽がなくても生きていけるだろうし、この太陽を沈ませたとしても自分の力一つだけで別の場所に移って生きていけるんだろう?」

 俺には一つも出来ない。と、自嘲がフッと溢れる。



 その笑みが契機となって、保たれていた均衡が一方的に崩れだした。ドンドンと、男の背後にリビングの扉が迫っているから。

「なぁ教えてくれよ、どうしたらそんなに強くなれる? どうしたら人をぐちゃぐちゃに殺す感覚に慣れていくんだ? どうしたら人を殺しても、平然と笑って生きていけるんだ? どうしたら人を殺した罪悪感に苛まれないで済むんだ?」

 

 なぁ、教えてくれよ。

 静かに貫く声が、ドンッと弾ける鈍い音を相手の答えとして引き出させた。



 私の双眸に彼の顔は映らない。今の私に映るのは、どこにも逃げ場がなくなり、余裕が微塵もなくなっている醜い男の姿だけだ。



「さっさと答えてくれ、俺は今すぐ知りたいんだよ。どうしたらそこまで強くなれるのかを。どうしたら良いのかを。そして、どうしたら血に塗れたこの手を雪げて楽になれるのかを……ただ、知りたいんだよ」

 平然と吐き出されていながら、最後に紡がれた疑問は大いなる衝撃と成って私達を震撼させた。

 え? と、私の口から吐息混じりの驚きが零れる。



 血に塗れたこの手を雪げて楽になりたいって、どういう事なの? そんな言い方をしていると、まるで……

「……お前、人を殺した事があるのか?」

 同時に同じ雷に打たれたからなのか、私の心の続きが男の口から戦々恐々と紡がれた。すると



「あぁ」

 間を置かずに、すんなりと落とされる首肯が戦慄と化す。



「確実に殺したのは一人、結局生きているのか死んでいるのか分からないのが何人か」

 でも、全員死んでんだろうな。と、蓮斗は答えた。

 自分の方に向けて広げる掌に、ストンと目を落としながら。



 そうして数秒後に突然、ハッと乾いた笑みが弾けた。



「嗚呼。やっぱり俺は、残虐な殺人鬼になってんだ」

 そこまでのレベルじゃないって思っていても、いつの間にか、数すら数えられなくなってたんだから。



 静寂を纏っているかの様な声が淡々と紡いで吐き出した。人の心ばかりか、怯え固まっていた現実でさえもゾワッと震えさせて大きく進ませる威力を持った、恐ろしい言葉を。

 そしてその効力は、すぐにドンッと降りかかった。

 男が、呆然と立つ蓮斗の脇をぬけてダッと逃げ出したのだ。私に目を向ける余裕もなく、立ちはだかっていた異常な闇からただ必死に抜け出していく。

 その一方で私は、襲いかかる力にどうする事も出来ずに、その場で固まり続けていた。



 バンッと荒々しく閉まる扉が弾けて、ようやくハッとする。

 ゆっくりと蓮斗の方を見た。

 蓮斗は男に突き飛ばされたままの形で立っていた。何もしようとしていない、静かな立ち姿だった。

 今、蓮斗が居るのはここなのに。彼は、ここには居ない。

 白色がべたりと塗られた壁のはずなのに、とても真っ黒に見えてしまうのが最たる証だ。
 あの男が放っていた魔より、形がなくて、強い黒色。あの男が一方的に押しつけていた物と違って、怖いとは思わない。でも、強い恐怖があった。

 そこからこっちに戻ってこない、そんな恐怖が。

 私はゆっくりと息を呑んだ。いつの間にかストンと落ちていた静寂が、その音をゴクンと際立たせる。

 すると、ゆらりと上げられた視線が不安を注ぎ込む私の視線と重なった。
 刹那、彼の瞳の中央がじわじわと光に開かれていく。それだけじゃない。彼を中心にして現れていた闇が、一気に収束していった。

 白色が、ちゃんと見え始める。

「……大丈夫?」
 いつもの声音、いつもの口調。私を見つめる瞳も変わらない、いつもの彼だ。

 そうだと分かるや否や、ホッと心から溢れ出る安堵が巡り、一気に全てが弛緩してしまう。
 踏ん張ろうとする力も上手く入らず、私はドサッと膝から崩れ落ちて、その場でへたり込んでしまった。

「いや、ごめん。大丈夫じゃないよな。あんな事があったんだから」
 上からおずおずとした言葉がかかり、そっと淡い影が落ちる。
「この左頬の赤みって。もしかして、あのおっさんに殴られた痕? 大丈夫……じゃないよな。いや、ごめん。俺が、もっと……ごめん」
 いつもは詰まり一つなく、淡々と言葉を並べてくる口なのに。どんな言葉をかけるべきだろうか、そんな迷いが珍しく全面に現れている。
 そんな珍しい姿が可愛らしくて。
 そして温かみある彼の心を感じて、更に安心が巡っていく。

 ありがとう、もう大丈夫。さっきまでは本当に駄目だったけれど、今はもう本当に大丈夫なの。あれほど感じていた恐怖がね、私の中のどこにもないんだから。どっかに消えちゃったの、蓮斗が来てくれたおかげ。本当にありがとう。

 頭の中で並んだ感謝の言葉が、喉の方へと流れ込んでいく。
 けれど、じくじくと帯びだす高熱によって、じわぁとその場で溶かされてしまう。
 内側に帰って染みこむ温かさが、また内側で巡って、巡って……遂に決壊を起こしてしまった。

 ぽろっ、ぽろっと、目の縁からソレは静かに溢れ始める。

「あ。お、俺、保冷剤取ってくる。あ、あと警察に連絡入れてこなきゃ駄目だ。ごめん、咄嗟の事だったからまだしてなくて。あの、ごめん、本当に色々」
 サッと上からの影が引き、慌てた足がパッと玄関の方へと向いた。

「行かないで」
 まるで反射の様に、私は動いていた。
 ギュッと彼のズボンの裾を掴み、慌てた足を踏みとどまらせる。

 ここに。彼が、とても嫌がる場所に。
 そんな事、分かっているのに。

「どこにも行って欲しくないの」
 布を掴む指先に力が込められるばかりか、じわぁと熱い喉の試練に耐えきれなかった言葉達が変身し、ひょいと試練を乗り越えて外に出始めた。

「ここに居て、お願い。ここに居て」

 ……こんなわがまま、きっと嫌がられる。居たくない場所に居続けるなんて事、したくないだろうから。
 それに彼には嫌な事ばかりをさせた、嫌な事ばかりを言わせた。だからきっと、今すぐにでも自分の部屋に戻りたいはずだ。
 ここに来てくれた、それだけでも私は充分満ちたのだから。「ここに居て欲しい」は、本当にただのわがままだ。
 ほら、こう分かっているのに。

「ここに居て。どこにも行かないで、ここに居て。私の側に居て、私の隣から離れないで」
 私は止まらずに、わがままをボロボロとぶつけ始める。
「ここに居てぇ」
 こんな風に頼み込めば、彼はきっとこの想いを無下にしない。否が応でも受け入れ始める。

 だって彼は、本当に優しい人だから。

 すると「ほらね?」とばかりに、遠のいていた影が再び頭上からゆっくりと落ちてきた。

「分かった」
 ここに居るよ。と、吐息混じりにトプトプと注がれる優しさ。

 ソレをしっかりと受け取った瞬間、私の心にはぶわぁと後悔が広がっていく。

 嗚呼。馬鹿だ、私は。こんな風になるって分かっていたのに、どうしてこんな事ばかりしちゃうんだろうなぁ。

 こんな事、彼に強制させたくないのに。
 こんな事が、進展の一歩になって欲しくないのに。
 こんな事の為に、私達の時間を削りたくないのに。

 ぶわりと生まれる後悔と罪悪感がぐるぐると混ざり合って、一つに成っていく。
 それなのに、やっぱり私は溶け合った物を解そうともせずに、ギュッと腕の中に強く閉じ込めていただけだった。