日食が終わるまで、あと××時間

 初めての一人暮らしだったからこそ、沢山の部屋に足を運んで入念に内見をした。

 セキュリティとか、予算とか、利便性とか、色々な観点があったけれど。「ここは居心地が良さそう」、そんな漠然とした心地良さを決め手として選んだのがこの部屋だった。
 実際に住んでみると、漠然とした直感は確定に変わり、安心と安全がそこにぽちゃぽちゃと注がれていった。

 伽藍堂の寂しい部屋から私の部屋と成るには、あまり時間がかからなかったと思う。

 だから私は自分の部屋にマイナスを持った事なんてなかった。
 けれど、今は違う。

 好きな人と自分の世界を繋ぎ合わせる事が出来る部屋を知ったから。安心と安全だけじゃなく、「幸せ」がプラスされて並々と注がれる部屋で過ごせる様になったから。
 ぞわっとする大量の恐怖だって、入り込んでこないから。

 今の私の部屋は、ひたすらに居心地が悪い。

 雨澤さんが来てくれたら。雨澤さんが「大丈夫だよ」って側に居てくれたら。
 私一人になると、こんな願いばかりを自然と強く抱きしめている。

 無理やり押しかけている上に、また彼の方にだけ白旗をあげさせようとしているなんて最低最悪よね。
 幸せな想いで満たしてあげなくちゃいけない方にばかり、負担を強いているんだもの。

 嗚呼。私、雨澤さんに恋をしてから、ドンドンと傲慢になっている。
 でも、そうだと分かっているのに、この腕はやっぱり緩まらない。緩まるどころか、「雨澤さんがこっちに来て欲しいの。二人の時間が長くなって欲しいの」って、力と祈りが込められるばかりだ。

 ……理解しているのに。彼がこの願いを叶えてくれたとしても、私の心はきっと晴れない。
 雨澤さんの優しさに甘えて、また私が彼に白旗を強制的にあげさせた。
 叶えられた願いの代わりに、そんな罪悪感ばかりをぎゅうっと抱きしめる事になるだろうから。





 バンッとゴミ箱に全てを投げ入れた後に、私は直ぐさま風呂場へと駆け込んだ。
 数分前に雨澤さんがくれた幸せの温度をこれ以上冷ましたくない。
 私は恐怖と密着した服をババッと脱いで洗濯機に放り込むと、急いで扉を閉めた。

 何も温まっていない空間に、ひやりと肌が刺されるけれど。すぐにざあざあとお湯を流して、顔・髪・身体と全てを暖で包み込んだ。

 凍えが、じわぁと落とされていく。

 ポチャンと湯船につかれば、似た温もりに抱きしめられる。
「はぁ、最高」
 スルンと滑る様にして湯船に沈み込むと同時に、心からの一言がぶくぶくと溢れた。

 ちょっと前までは、お風呂にこんな想いを抱いた事なんてなかったのになぁ。
 私は少し上昇して、顔を水面からゆっくりと出した。
 ざぱぁと水が滝の如く滴り落ちる。けれど、ヒヤリとする物は何も貫いてこなかった。

 温もりだけを感じる安息地に、ようやく落ちつけた証だ。
 それを手にすると、凍えて固まっていた私の思考も走るべき回路へと戻り、いきいきと駆け始める。

「今日の雨澤さん、可愛かったなぁ」
 にへへとだらしない笑みが零れると同時に、数分前が脳内の映画館で放映される。

 電鉄ゲームで、私に貧乏神をなすりつけられて「今それは痛すぎる」って苦い顔で言う姿が映ると、場面が切り替わり、フッと口角を上げる美麗な横顔が映った。
 これは私に「あっ、しれっと貧乏神を付けないで!」と突っ込まれた時の映像だ。
「いや、元々君が付けた奴だから。俺はお返ししただけ」
 心地よい声音で紡がれる軽快な言葉と、フッと崩れる相好。
 胸が「これこれ」とばかりに、再びきゅうっとトキメキに縛りあげられる。

 痛いけど痛くない。そんな幸せな痛みに、私の口角は更にだらしなく下がった。

 雨澤さん、最近よく笑ってくれるようになったわよね。大した事じゃなくても、柔らかくフッて。

 時間と共に変わってきている現実を噛みしめるや否や、全身を包み込む温かさがピタリと密着し始める。
 私はそんな世界にトロンと弛緩し、全てを預けた。

 あぁ、私。本当に雨澤さんに惚れ込んでいるわよね。簡単な「好き」だったら、ここまでならないはずだもの。
 私は、彼が示してくれる「私」にフフッと笑みを零してしまった。

「明日は、どんな姿が見られるかなぁ」
 ゆっくりと浮上して縁に頬杖をつき、隣に居る彼に想いを馳せる。

 ねぇ、雨澤さん。私の「好き」と「幸せ」は、貴方にどこまで届いてる?
 
 絶対に届かないであろう言葉を彼に投げかけると、目の前にストンと数字が落ちてきた。
 思い出させられるタイムリミットに、私の口角は自然と下がっていく。
「会話が続くようになったのは良いけど、このままゲームだけに時間を食わせるのは絶対に良くないわよね」
 うんうん。良くない、良くない。と、私の首はコクコクと縦に動いた。
「そろそろ新しいアプローチをしてみなくちゃ」

 うーん、何が良いんだろう? 
 私は頬杖をつく腕を崩し、縁にだらんともたれかかった。「うーん」と小さな呻きが、への字に歪む口の端から漏れる。
 けれど、上がってくるのは体温ばかりだった。

「もう駄目、のぼせちゃう」
 心だけでなく物理的にも危うくなった為に、私は包み込んでくれていた温かさから抜け出す。

 ザパァと小気味よい音が弾けると共に、ポタポタッと雫が駆け落ちる。いくつもの航路から走り出しているのに、辿り着く先は床と言う名の大海だ。

 ただ、懸命にそこを目指して走っている。一方の私は、辿り着く場所が違うとばかりに、淡々と床を踏みつけて扉を開いた。
 ゴウッと吹き付ける突風と同じ程の強さを持つ冷気が、ピシピシと肌を刺してくる。
 それでも、寒くはない。

 私はサッとかけてあるバスタオルを身体に巻き付け、温もりが逃げない様に素早く身体を拭いていく。
 そうしてギュッと押さえ込んだ温もりの上にパジャマを重ねてから、程よく乾いた髪にドライヤーを当てていく。
 それが終わったら、次は顔に重ねていくのだ。明日も、雨澤さんに可愛く見られたいが為の努力を。
 パックに化粧水、乳液、保湿液、毛穴クリームを塗り込んでから、美顔器でコロコロと小顔のマッサージ。それから錫色の世界に閉じ込められた自分と対峙して、ぷるんっとした潤いを得られた事を確かめる。

「うん、オッケー!」
 よしよしと満足げに頷いてから、私は颯爽とリビングへ向かった。

 温もりは離れてこなかった……はずなのに。リビングへと足を踏み入れた瞬間、ぶわっと一気に温かさが消えた。

見張った目はいつも以上に世界を広く鮮明に捉えているはずなのに、捉えるものが「見間違いなんじゃないか」と疑ってしまう。



 でも、目に映る存在は「疑問を抱くなんて間違っているよ」と言わんばかりに、泰然と構え続けていた。



 だからこそ、疑問が「間違いなんかじゃない」と消え去り、「これは現実だ」と総毛立つ恐怖に襲われ始める。



 私のソファに座る、その人は……以前「落とし物を拾った」とやってきた男性のお客様だったから。



 なんで? どうして? 玄関は閉めていたはずなのに? あれ。待って、本当に鍵はちゃんとかけた? かけていたら、なんでここに入れているの? どうして、ここに入る事が出来ているの?



 ぶつ切りされた疑問がやたらめったらに巻き付いてきて、あっという間に身体を支配されてしまう。

 冷静にならなきゃと思うも、ギュッと不穏に強く締め付けられているせいで「平常」がボンッと圏外に飛び出してしまった。

 我が家とばかりに泰然としている男性いじょうを目にし続けていると言うのに。



「お帰り、待ってたよ」

 男性は滑らかに言うと、私にニコリと笑みを向けてきた。

 刹那、恐怖に染まっている私の世界が悲鳴をあげて更に縮んでいく。



「男の部屋に行くなと散々言っているのに、帰りはどんどん遅くなるばかり。だからもうちゃんと会って話すべきだと思ってね。幾ら僕達の間に愛があるからと言っても、君は僕を試しすぎだよ」

 彼は「こんな事までしてさ」とやれやれと肩を竦めると、テーブルからサッと紙を手に取り、ひらひらと弄んだ。ついさっきゴミ箱へと封じた邪悪がひらひらと踊り、悪意をまき散らされる。



 ぶわりと可視化する、邪悪な魔の手。



 ここにまで、そんな物を入り込ませちゃ駄目!

 遂に私こころが侵されそうになり、本能がバッと動き出した。

 地面に突き刺さっていた足が、動く。くるっと踵を返すや否や、リビングを飛び出し、玄関の方へと駆け走っていた。

 けれど、直ぐさま背後からも同じ音が弾ける。



 ヤバいと言う本能の警鐘が、「自分を護らないと」と言う護身に切り替わっていくのをハッキリと感じた。



 足が更に加速した、刹那。肩にぐっと鈍い痛みが走り、玄関を捉えていた視界が強引にぐるりっと反転する。

 あっと思った瞬間にはもうバンッと背中に痛みが駆け抜け、眼前には邪悪の本体が堂々と迫っていた。

 口から「キャアッ!」と甲高い悲鳴が飛び出す。



 でも、そんな攻撃は力強い魔にかすり傷一つもつけられなかった。



 ふうふうと荒い鼻息。逃げられないようにと押さえつけられる強い力がべたりと容赦なく覆ってくる。

「結叶ちゃんは本当に可愛い事をするね。わざわざそんな事をしなくても、君の望み通り、僕はすぐに君を捕まえてあげるよ?」

 逃げるは捕まえての裏返しだもんね、結叶ちゃん。と、一気に距離を縮めてくる恐怖を前に、本能がシュッと切り替わった。



 自分の力だけじゃ逃げられない、護る事も出来ない。だから

「あまっ……蓮斗!」

 いつだって私を包み込んでくれて、温めてくれる光に向かって縋った。

 必死に手を伸ばし、その光明の縁を掴んで助かろうとしたのだ。



 けれど、左頬からバシッと貫く痛みが「駄目」と思い知らせる。

「君の部屋にはもう絶対に行かない」

 嗚呼、そうだった。駄目だった。ここからじゃ、あの光は届かないんだった。



 絶望がドンと容赦なく落ちてくる。じんじんと痛む左頬のおかげで、その黒さを痛感してしまう。



「さて、次は君が僕の願いを叶える番だよ。僕はこんなに君の願いを叶え続けているんだからさぁ、ほら! 僕の願いを叶えてくれ!」

 首元に自分勝手な苛立ちがはぁはぁと荒く当たり、パンツ越しに気色悪さがやたらめったらに這い始めた。



 嗚呼、駄目。もう、動けない。

 じわっと歪む視界から、浸食され始めた私の「最後」が零される。



 そんな時だった、眩しい光が横から貫いたのは。