日食が終わるまで、あと××時間

寸分も狂わないはずの彼女の時計に、近頃、変化が起きている。



 きっかり六時に出勤していく音が、今は六時十分を超えてやっと弾けるとか。偶に、昼間に帰ってきている時があるとか。



 まぁ別段気にする程の物でもない、アハ体験の様なじわじわとした変化だ。

 彼女と出会う前はずっと、五分十分のずれなんて誤差と言うスタンスを日常に組み込んできていた身だからこそ、「いや、変化って言う程の物ではないだろ」と思ってしまう。



 思ってしまう、のに。どうしてか、いつもの考えになかなか落ち着く事が出来ない。



 昼に帰ってくると言う狂いだけは、唯一、落ち着ける。帰ってきて昼休憩なり何なり、自分の時間を取る様になっただけだろう。こちらに来なかったとしても、それは別に時間がないとかそういう問題だろうし。



 だが、あとの狂いはどうにも不可解だ。



 きっかり出勤していく人間が、そんな狂いを毎日続けるなんておかしくないだろうか。穏やかに外へ出て行く人間が、扉をバンと荒々しく閉め、まるで逃げ去るみたいにバタバタと出て行くなんておかしくないだろうか。



 もしかして、彼女に何か起きているのだろうか? 



 いや、流石にそれはないか。考えすぎだな。壁がまぁまぁ薄いからこそ「何かある」って鋭敏に貫いてくるだけかもしれない。それに実際こっちに来た時の彼女は元気だし、よく笑ってくれるじゃないか。何かあったとしたら、そんな風にはならないはずだ。



 だから大丈夫、彼女の身に「何か」なんて起こっていない。気のせいだ。

 太陽は、もの凄く強いんだ。



 ……でも、もし、もしも本当にそうだったとしたらどうする?



 ぽわっと唐突に生まれた不穏な疑問に、俺は「どうするって。どうする?」と面食らってしまった。



 どうするも何も、手があるのだろうか? こんな無能の価値なしに、一体、何が出来ると言うのだろうか?



 静かに放たれた自問。うんうんと唸るかと思えば、答えはスパンッと返ってきた。



 何もない、何も出来やしない。

 それが答えだ。

 そうだとも、俺に誰かを救う力なんてない。誰かの時間や大切を奪って生きていくしか出来ない人間なのだ。



 そうだそうだと、一気にさざめきが立つ。どうする? と考えた自分が、その荒波にガバッと攫われた。

 そうして異物を飲み込み、一つと成った荒波は静けさを取り戻していく。



 きっと、彼女が「助けて」と声を上げたとしても、俺はこの汚泥が纏わりつく荒波から出られず「嗚呼、大変だ。どうしよう、どうしよう」ってなるだけだな。



 フッと、嘲笑が零れた。



 今思った「どうしよう」は、きっと自分の事なんだろう。行きたいけれど、ここからは出られないから「どうしよう」ってさ。



 どこまでも自分本位な最低さを痛感すると、また一つ、歪んだ口からフッと零れた。



 自分を照らしてくれる太陽の恩恵を受けるだけで、何一つ返さないなんて。俺って奴は、本当に情けない。



 ぶわぁと忸怩が湧き上がり始める。けれど、ソレは汚泥を脱する為の浮力に変わってくれなかった。

 だからこそ、ただひたすらに汚れてしずんでいく。

 夕方に登り始める太陽が俺の世界から「じゃあ、また明日ね」と出て行ってしまうまでは、ずっと。ずっとだ。