日食が終わるまで、あと××時間

ふわっと落ちてくる卵のヴェールが、沈み行く夕陽を煌々と浴びている小山の様なご飯を包み込む。
 ふさりとかかったヴェールの一部がペラリと捲れてしまった所は、菜箸でちょっとずつ調整だ。
 箸先一つ、その数センチ単位の挙動でも破れやすい繊細なヴェールだからこそ、丁寧にちょんちょんと入れ込んでいく。
 そうして綺麗に覆いかかった卵のヴェールに、とろとろと煮込んでいたトマトソースをゆっくりと注ぎかけた。

「よし、完成」
 俺は出来上がった二つのオムライスを見下ろす。

 俺一人だけだったら、オムライスなんて作ろうとすら思わないが。彼女と料理をする様になってからは、割と家庭的な物にも手を出し始めた。
 勿論、男飯料理も辞められていないが。こういった料理の方が、彼女が見せてくれる笑みに釣り合える気がするのだ。
 それに「やろうと思った事に対しては凝り性な奴なんだよな、俺って」と、あれ以来見失っていた自分も思い出せた。

 やはり、隣の太陽が差し込んでくる光は強い。

 俺はチラッと壁にかかってあるカレンダーを一瞥した。

 あと一ヶ月ちょいだが、このまま行ったら俺は変わってしまう気がする。
 このまま生きていても良い。その指針に導かれて、ずんずんと進んでしまうのではなかろうか。
 あの時の自分が完璧に描く事を辞めた年《さき》まで。

 俺はパッとカレンダーから目を逸らし、ずらりと漫画が並んだ棚を見つめた。そしてその視線をそのまま、自分の作業机に移す。

 ゆらりと流れる視線が、過去を遡っていく。

 決して、忘れた訳ではない。何を起こされたか、そして何が起きたのか。忘れた訳ではない。
 だからこそ、俺は「生きたくない」と言う道に居る。
 まだ、外れた訳じゃない。
 別の道に進んでもいない。

 けれど、道の内側の状況が変わってしまってきているから、こんな予測《もしも》が生まれてしまうのだ。

 ハァと、重たい溜息を吐き出してしまう。
 刹那、ガチャンと玄関の扉が開閉される音が弾けた。

 やはり彼女の時間は正確だな。と思いながら、俺は「お帰り」と声を飛ばした。

「ただいまぁ」
 ニコニコと東から登ってくる笑みに、どこかホッとしてしまう。
「ねぇ、雨澤さん。今日の夜はゲームをやらない?」
 弟から借りてきちゃった。と、彼女は笑顔でゲーム機の入った袋を少し掲げた。

 成程、ゲームと来たか。
 面倒な事を言って折れさせた映画の代わりに、すぐ新たな手を打ってきた彼女に舌を巻いてしまう。

 普通であれば、もう「面倒な奴だ」と切り離しても良いレベルだ。ああしよう、こうしようと手を打つ事にもげんなりしてくるはずだ。
 だから俺自身ですらも、とうに俺を投げ捨てている。
 それなのに、彼女だけは、まだ俺を捨ててくれない。
 本当に温かい人だ。

「良いよ」
 彼女の温かさに、口元がほろほろと溶ける。

 すると彼女から「本当に? やった、嬉しい!」と可愛らしい笑みが弾けた。でも、その数秒後にはキュッと眉根を寄せて「あぁ、でも私」と弱々しい口調で言葉を紡ぐ。
「かなり弱いの。ゲームなんて本当に下手くそだから、手加減してくれる?」
 そうしたら良い勝負になるかもしれないわ。と、弱々しい表情から一転、きゅるんと愛くるしい笑みに変わった。

 彼女は、俺にはとても出来ない事を平然とやってのける。俺は、こんな数秒のうちにコロコロと表情を豊かに変えられないし、相手をこんなにぽかぽかとした気持ちにはさせられない。

 《《彼女の可能と俺の不可能の差》》に、俺の心がぎゅううっと低く唸った。
 ……いや、違う。唸っているんじゃない。これは、きっと。

「駄目そう?」
 唐突に降りかかる彼女からの追加によって、縛り付けられていた意識にビタンッと現実が貼り付けられた。

 俺は呆然としていた自分を完璧に捨て去るべく、軽く頭を振りながら「いや、良いよ」と答える。
「って言っても、俺も別にゲーム上手って訳じゃないから」
「えぇ? それは信じられないわ。だって、シューティングゲームが上手だったじゃない?」
 彼女は目を側めて、怪訝をぶつけてきた。
「それに雨澤さん、何でも上手に出来そうなのよね」
 料理だって、あっと言う間に上達したじゃない? と、彼女はひょこりと俺の背後をのぞき込んだ。
 そして「ほら!」とばかりに、顔を輝かせる。
 これに至っては、なんだか気恥ずかしい。

 俺は完成したオムライスをサッと机に移動させて、「そうでもないだろ」と苦々しく否定を述べた。
「君よりは下手くそだ」
 自分と彼女、両方の定位置にオムライスをコトンと置く。
 背後をてくてくと付いてきた彼女は、置かれたオムライスを見つめながら「どこが私より下手なの?」と笑い飛ばした。

「私、料理を始めたばかりの頃は、こんなに上手なオムライスは作れなかったわよ」
 自分のレベルを分かってないからそう言えちゃうのよね。と、まるで俺が凄い人の様に言ってくる。

 どこが凄いのか、どこが上手なのか。俺には到底理解出来なくて、ぎゅっと露骨に眉根が寄った。

「あ、信じてない顔してる。本当よ、雨澤さん。嘘じゃないからね」
 彼女は、すぐに俺の怪訝をふわりと柔らかな笑みで包み込む。
「雨澤さん、私だったら何十回やってやっとって事を二回足らず位で出来ちゃう人なのよ」
「いや、そんな事もないだろ」
 大げさだな。と、冷ややかに突っ込んだ。

「大げさじゃないわよ。雨澤さんってすごく器用なの、よく言われるでしょ? すごい器用だねって」
「そんな事は……言われてたな」
 そう言えばと忘れかけていた自分をまた思い出す。

 こんな些細な会話ですらも、彼女によれば、一人また一人と帰って来られるのか。
 君って人は本当に凄いな。そんな想いを目に乗せながら、俺は「でも」と言葉を継いだ。
「器用は器用でも、器用貧乏ってやつだから天井があるんだ。だから何をどれだけやっても、絶対に上にはいけない」
 だから何も凄くない。

 ハッと乾いた自嘲が零れる。

 すると「でも」と、力強い否定が俺の自嘲をピタリと止めてきた。
「雨澤さんまで辿り着かない人もいるんだから、充分じゃない?」
 雨澤さんは上ばかりを見すぎなのよ。と、優しい窘めが続く。
「まぁだから自分を支える努力の高さ(ながさ)と、その凄さが分からなくなっちゃうのよね。自分の足下にどんな物があるか、自分の手にどんな証が刻まれているか。偶には下を向いてみて、それらを確認してみると良いわよ」
 そうしたら今にもつりそうな首が「助かった」って息をつくし、踏みつけている自分が沢山居る事に気がつくわよ。きっとね?
 眩くも温かな光が俺の胸を貫いた。トスリと当たり前の様に命中するや否や、ほわぁと全てに輝きを広げ、ゆったりと廻っていく。

 だからじわじわと見えてきた。自分の裸足が踏みつけている物がどれほど分厚いのか、手がどれほど傷だらけで堅くなっているのか。

 いつの間に、こんな高さの物を踏みつけていたのだろうか。いつの間に、こんな傷だらけでカチコチに堅くなっていたのだろうか。

 言葉を失ってしまった。
 今まで見えなかった物が次々と現れ出した事に。
 けれど光が剥がせない程の強い黒に染められているせいで、思い返そうとしても出来ない場所がある事に。

 虚しさが作り出すぼっかりとした深みに、ドロドロと情けなさが滴る。
 嵩のある液体は、あっという間に満ちてきた。どろりと、縁から流れ出そうになる……が。

「ごめんなさい、なんか偉そうな事言っちゃったけど。私、兎に角雨澤さんは凄いって事を言いたかったの!」
 急に俺が押し黙ってしまったせいか、彼女が慌てて言葉を継いできた。
 その可愛らしい慌てに、俺はハッとする。
「あ。いや、別に」
「良いの、無理して分かろうとしないで!」
 弁解を紡ごうとしたが、彼女の優しい言葉によってバッサリと遮られた。益々、俺の口が「いや」と縮こまってしまう。

 なんとか口を開き、「嫌になんて思ってない、君の言葉には救われるばかりだ」と伝えなければ。
 急速する想いにせき立てられ、俺は遂にもごもごと飛び出す「いや」を止めた。刹那、「大丈夫」と明るい声が飛ぶ。
「私が雨澤さんの分まで雨澤さんを大切にするから!」
 ねっ? と、まっすぐに向けられる太陽の笑み。

 伝えると意を決したはずの口が、瞬く間にスッと閉ざされてしまった。
 どうすれば、この笑みを前に言葉を吐き出せるだろうか。いや、どうしようも出来ない。平常心を保つ事すらやっとのレベルなのだ。

 平気なのは、彼女ただ一人だけ。

「オムライスが冷めないうちに、パッと副菜を作っちゃうわね」
 あ、それともサラダだけにしちゃう? なんて、泰然と日常に戻っているのが良い証拠だ。

 やっぱり、太陽には勝てない。

 俺はゴクンと息を呑んでから、ゆっくりと足を踏み出した。

「なんだって良いよ」
 ただ、君が笑ってくれるのならば。