日食が終わるまで、あと××時間

「えっ?」

 朝。出勤しようとしていた私は玄関ポストに入れられていた物に驚き、目をパチパチと瞬かせる。



 けれどやっぱり瞬きの合間に消える事がなく、ソレはちゃんとそこに在り続けた。



 私はゆっくりと手を伸ばし、恐る恐るを纏った指先でソレを掴む。

 しっかりとした強さと凜とした紅色が美しさを放つ、一輪のバラ。しゃんと立つ茎に結ばれているのは、「いつもありがとう」とオシャレな字体で印字されたメッセージだ。



 信じられない心が顔の近くにゆっくりと運んできたバラに、私は「うそぉ」とばかりに息を呑んだ。



 コレ……もしかしてだけど、雨澤さんから? 雨澤さんが、いつもありがとうって事で送ってくれた? のよね?

 呆然とする心が点々と推理を並べる。

 いつもありがとう、なんて言ってくれる相手は今の所彼しか思いつかない。だから、きっと雨澤さんが送ってくれたのよね。そうよね。



 美しいバラを掴む指先に、ギュッと力が走った。

 ピキッと、茎が静かに唸る。凜と咲いている花弁ですらも、心地悪そうに揺れた。



「……違う、こんな事をする人じゃないわ」

 雨澤さんしか居ないけれど、雨澤さんじゃない気がする。

 私は訥々と並べられた推理に、どうにも頷けなかった。名探偵が「コレが正解だ」と力説しても頷けないと思う。



 きっと、この否定が多くを包含する曖昧からやってきているせいだ。だから「そうかも」が入り込む隙がないのだろう。

 そればかりか、「うーん」とも唸ってしまうと、余計に都合の良い推理に変わってきて居心地が悪くなってしまった。



「まぁ、取りあえず花瓶に差さなくちゃ」

 私は気持ち悪いモヤモヤから離れるべく、くるっときびすを返し、居間の方へと足を向ける。

 その時だった、私の視界に小さな紙が映り込む。



 何だろう、コレ。昨日何か鞄から落としちゃったかな?



 眉根を寄せながらも、私はソレをしっかりと拾い上げた。

 刹那、拾い上げなきゃ良かったと言う後悔がぶわっと襲いかかる。

「君の家は、こっちだよね……?」

 二次元にあるはずの文字が、次元を通り抜けて、こちらに牙を立ててきた。



 その牙の勢いと強さに驚き、急いで手放すけれど。その牙は、全身に回る神経毒がべたりと塗られていた毒牙だった。

 ぎゅおおっと素早いスピードで、毒が私の中を駆け巡る。

 辞めてと懇願しても浸食してくる毒きょうふに、ガチリと身を縛り付けられた。ぞわぁっと振り切れない苦しさに、カヒュッと浅薄な息が零れる。



 すると、そんな息を吐き出したと分かった本能が「コレは危険だ」と身をよじって、暴れだし始めた。



 私は本能が指揮するままに動き、不気味を帯びた紙とバラをバッとゴミ箱へ放り込んだ。



 恐怖は小さな箱に閉じ込められた。開けさえしなければ、さっきみたいに毒牙に襲われる事はない。



「もう大丈夫」

 安全地に逃れた本能が、ふっと一息をつく。

 けれど、指先から伝う恐怖は未だにビタビタと流れ続けていた。



 私は台所の蛇口に飛びかかり、思い切り捻って、滝の様な水流を吐き出させる。



 冷たい指先に、ざああっとお湯が降りかかってきた。

 それでもどうしてか、指先が温かみを感じてくれない。



 嗚呼、コレは一人じゃ逃げられない物なんだ。



 私はキュッとお湯を止めるや否や、適当にハンカチで水を拭き取り、そのままの勢いで外に飛び出した。







 いつも通り、幸せと楽しさばかりの世界に佇んでいる。なのに、まだ、私の体にはぬめりとした恐ろしさが纏いついていた。



 嫌に心がざわつき続けている。もう夕方なのに、朝からずっとだ。

 嗚呼、どうしよう。こんな素敵な所に居るのに、こんなに幸せな場面ばかりを見ているのに。



 私はぶんぶんと軽く頭を振り、引っ張られる過去を遠ざけた。



 大丈夫、大丈夫。たった一輪、たった一回の不気味な手紙じゃない。気にする事はないわよ。

 そうよ、きっと今回だけの事だわ。と、心に納得を落とし込もうとした。



 その時だった、「姉ちゃん!」と横から馬鹿でかい声が飛んでくる。



 この馬鹿でかくて、馬鹿みたいに明るい声が誰なのか。すぐに分かった。

 高校生になっても尚身長が伸び続け、サッカー部で汗水流す様になってからガッチリと逞しい体つきになった弟。そして近頃、モテを意識し始めた容姿に身を固めてきている弟でもある。



 ニカッと白い歯を見せて笑い、タタタッと元気に駆け寄ってくる大型犬の雰囲気だけは昔となんら変わらない。



 私は「よっ!」と軽やかに駆け寄ってきた結生に「アンタ、一人で来たの?」と、問いかけた。



「いくら俺でもそんな度胸は持てねぇわ! 友達だよ、友達!」

 愚問だなと言わんばかりに呆れを広げて言ってくる結生。

 私は「はいはい、そうですか」と、どうでも良い事には付き合わないとばかりに答えてから「それより、持ってきてくれた?」と、本題をズバッと切り込んだ。



 結生は言われるや否や、鞄を漁り「ほれ」と袋に入った何かを掲げる。ぐちゃぐちゃのビニール袋の中で窮屈そうにガシャッと縮こまっている物こそ、私が結生に「貸して」と所望した物品だ。



「ありがと、助かるわ」

 私は結生からソレを預かると、「いや、こっちも良かったよ」と結生は苦笑を広げる。

「勉強しなくちゃなって思ってても、ついこっちに走っちゃうし。それに最近、母ちゃんからもゲーム機壊すって脅されてたんだよ。まぁ嘘だろって思うじゃん、するする詐欺だって思うじゃん? でもこの前は目がマジだったし、ガチで風呂場に投げられそうだったんだよ。だから姉ちゃんって言う安全地に避難出来て良かったわ」

「うっわ。あまり口出ししてこない母さんからそこまでされるなんて、アンタ、よっぽどよ」

 今年受験生でしょ、大丈夫なの? と、安堵を平然と零す弟に眉を顰めた。

 すると結生は眉根を八の字にぐにゃりと曲げ、痛々しい表情を作る。



「姉ちゃんよぉ。楽しい夢の世界に居るのに、酷い現実を突っ込んでぶち壊そうとするのはキャストのタブーだと思わんのかね?」

「ほんと馬鹿ね、アンタ」

 私は情けない弟をピシャリと打ち落とすと同時に、受け取った手をハァと下げた。



「それにしても姉ちゃんがゲーム機を貸してくれ。なんて、珍しいよなぁ」

 京子姐さんとやるなら壊さない様にしてくれよ。と、結生は苦味から一転屈託のない笑顔で新たな話題を振ってくる。

「京子姐さんは絶対にバキッてやりそうだから。それかデータ全ブチかな」

「残念、京子ならどっちもするわよ。けどまぁ、安心して。京子とはやらないから」

「えっ」

 私の答えに、結生が直ぐさまギョッと噛みついてくる。大げさなって思う程に目を開いて「え、誰とやるの? 彼氏? まさか、彼氏出来た? 出来たの? 姉ちゃんに?」と、口早に重ねてきた。



 実家を離れてから、全く浴びなくなったこの鬱陶しさ。久しぶりにドバッと浴びると、懐かしくて微笑ましくなるのかなぁなんて思っていたけれど。全く、本当に全く! そんな事はなかった。辟易と嫌気が、実家の時よりも上回ってくるわ。



 私は、チッと打ちそうになる舌をその場で留まらせる事に全力を注いだ。私が余計な事を結生の前で口走ったのが悪いんだもの、と。



「まぁ、出来てもおかしくねぇかぁ。俺には理解出来ない物好きがこの世には居るんだし、姉ちゃんだって良いとこはあるからな。ま、そんな良さなんて一割にも満たないってもんだけど」

「誕プレのサッカーシューズがなくなっても良いなら、そのまま馬鹿な事を言い続けていたら良いわ」

 私はペラペラと勝手な妄想を垂れ流す弟に笑顔で言い放った。

 刹那、太平楽な口がスッと閉ざされる。



 この子って、本当に素直な馬鹿だわ。



 私は黙った口に「よし」と頷いてから、「結生。アンタ、友達といるんでしょ」と促した。

 結生は「帰れ」と言うアピールをすぐにキャッチし、「おう、これから新アトラクション行くんだよ」と笑顔を見せてくる。

「そ、楽しんできて。因みに、回る順番は右回りがオススメよ」

「分かった、ありがと! そんじゃな、姉ちゃん!」

 結生はニカッと笑うと、来た時と同じようにして去っていった。



 みるみる逞しい背が遠のいていく。「今度そっちに遊びに行くわぁ!」って言う、馬鹿でかい声は凜々と残り続けていたけれど。



 私は結生の残していった言葉に「来なくて良いわ」と嘆息してから、バックヤードに戻っていった。