日食が終わるまで、あと××時間

雨澤さんに幸せを注がなくちゃいけない立場なのに、最近は私の方ばかりが幸せを貰っている。



 幸せ豚丼の日を境に、彼が扉を開けて待ってくれているばかりか、必ず一つは料理を用意して待ってくれているのだ。



 また作るよって言ってくれた時にも、嬉しさが爆発しちゃって「私」が昇天しちゃったけれど。こんなレベルで昇天するなとばかりに、翌日からは「お帰り」までサラッと貰えるようになったし、手料理が食べられるようになった。



 雨澤さんのおかげで、目に見えない幸せがドンドンと可視化されていく日々を送れているのだ。



 だからとてもよく分かる。自分の幸せがどれほど温かくて、どれほど眩しい色に染まっているか。



 でも、彼はどうなのだろう。

 少しでも、幸せって感じてくれているのかな? 生きたいって思える様になってくれているのかな?

 私と過ごす時間は、もう苦じゃないのかな?



 分からない。私には、分からない。



 けれど、過ごしていく日々は間違いなく濃くなってきた。前よりも一緒に過ごす時間だって増えたし、会話も少しは長く続くようになったし、訪れる沈黙だって苦じゃなくなってきたのだから。



 幸せって感じてくれているわよね? 生きていたいって思えてくれているわよね?

 プラスの言葉だって、ほろりと零れるようになってきているのだから。きっと、大丈夫よね。



 私は「そうよ、大丈夫よ」と言い聞かせるけれど、なかなか内側から「そうだね」とは貰えなかった。



 違ったらどうしよう。彼の心がまんじりとも光の方へ動いていなかったらどうしよう。

 そんな不穏な言葉ばかりが、ポンポンと飛んでくる。



 約束してから、もう三週間は経った。つまり残された時間は、約一ヶ月。

 それなのに「生きる」の証明書が、まだ貰えていない。彼から発行されていない様にすら思う。

 決定打がないんだ。



 彼の心がプラスに動く事をしなくちゃ。その動きが、ちゃんと自分自身の目で見える事にしなくちゃ。

 それでいて、彼との距離をもっと縮められる様になったら良いわよね。

 だって雨澤さんは「お隣さん」じゃなくて、私の「好きな人」なんだから。





 「っていう事でね、これから私の部屋で映画でも見ない?」

 ドラマとかでも良いわ。と、私はひょいと泡まみれになった皿を隣に渡す。

「……いや、その接続詞はどこから来たわけ?」

 雨澤さんは受け取った皿をザブザブと流れ落ちる水で洗いながら淡々と突っ込んだ。



「私の心から。まぁ、そんな事どうでも良いの。それより、映画を見るって言うのはどう?」

「いや」

 流れ落ちる水は温かなお湯のはずなのに「君の部屋にはもう絶対に行かない」と、容赦ない冷たさを帯びた切り返しを続けるのは、とても雨澤さんらしい。

 そして私もまた、「そうは言っても、こっちにはテレビがないじゃない?」と強引に温め続ける。

「だから私の部屋でってなるだけよ。あ、それかこっちにテレビを持ってくる? そうしたら別に私の部屋じゃなくても良くなるわ」

「テレビなんて持ってこられても困る。それに俺、見たい映画とかもないし」

 大前提を打ち崩す言葉が、平然と飛んできた。



 私は壊されてしまった足場に「えぇっ」と悲鳴を上げてしまう。

 安定が崩れ、ヒュンッと体が落ちていくけれど。理性が咄嗟にバッと手を伸ばした、落ちていく今を止める為に。



「今は思いつかないだけじゃない?」

 なんとか、指先がガシッと縁を掴んだ。

「サブスクなんて、漁ってみたら意外と気になる物がドンドン出てくるわよ」

 不安定を掴む指先にぐっと力が籠もる。



 けれど、雨澤さんは崖っぷちの私に気がつきもせず、泰然と「いや良い」と言った。

「何を見ようと差に苦しめられる。だから、良い」

 踏ん張りも虚しく、掴んでいた場所もガラガラと切り崩れていく。



 とうとう、奈落へ真っ逆さまだ。

 けれど、ドスンと奈落へ落ちたからこそ痛感する。

 彼の闇が、こんな所にまでドプリと浸潤しているのだと。

 そうでもない限り、全てが楽しく明るい創りに徹底している訳でもない映画に、そんなマイナスは抱かないはずだ。



「映画も、駄目なの?」

 貴方の闇は、一体、どこから来ているの? 



 私は、その想いを乗せながら、彼の横顔をまっすぐ見つめて問いかける。



 雨澤さんはキュッとお湯を止めた。ストンと落ちていた目が小さく上がる。

 けれど

「まぁ、うん。そう言う事かな」

 返された答えには、明確がなかった。具体的に知る、その権利の一部ですらも与えて貰えなかったのだ。



 私の唇が、小さく内側に丸まっていく。



 嗚呼。やっぱりまだ、最奥は遠いままって事よね。完璧に心が開かれた訳じゃないって事なのよね。



 悲しさに、ぐわぁんと大きく重たい頭が振り回されていく。



「ほら、もう時間だろ」

 追撃の様に、帰宅を促す言葉がピシャリと落とされた。



 私は丸まった唇をぐにゃりと歪ませ、「えぇ」と不満を訴える。

「まだ八時じゃない」

「もう、八時だろ」

 にべもない拒否。彼からソレを貰うのは慣れているはずなのに、いつもよりずうんと重く感じてしまう。



 でも、それに囚われ続けて、今日の別れを悲しみで飾るのは良くない。ここはなんとか明るく「もうちょっと居たいから良いでしょ」って駄々をこねてから「はぁい、じゃあまた明日ね」って帰ろう。

 そうしようと言い聞かせてから、悲しみにギュッと結ばれていた唇を開いた。



「……まだ居たいのに」

 明るい声で軽口調に言うつもりが、ボソッと真剣味溢れた低い声に変わっていた。



 いつの間に、悲しみそちらへ切り替わってしまったのだろうか。

 分からないけれど。シィンと虚しいオノマトペが、私達の間にペタリと貼られている事だけは確かな事実だ。



 ヒヤリと凍えた現実に、私は「か、帰るわね!」と慌てて逃げ出す。

 彼の返しを聞ける余裕なんてなかった。勿論、彼の顔を見る事だって。



 我が家の扉が、バタンと勢いよく背面で閉ざされる。

 刹那、足の力がガクンッと抜け落ちた。踏ん張る隙もなく、ずるるっとその場で崩れ落ちてしまう。



「やっちゃった」

 なんとか食い下がり続けていれば、二人で過ごせる時間が作り出せていたはずなのに。こんな風に一人勝手にバタバタと慌てて、振り切っちゃうなんて。

「また時間を無駄にしちゃった」

 最悪と重々しいため息が零れた。



 そんなため息すらも無駄に感じて、私の心にチクチクと刺が突き刺さる。

 あまりに刺々しい痛みに、ギュッと胸元で手を丸めた。

「こんな風に後悔するのは、もう辞めなくちゃ。後悔なんてする時間が勿体ないんだもの」

 ドンと、拳が胸元で跳ねる。じわぁと熱い波動が届いた。

「何があろうと、前に進み続けなくちゃね」

 奥底から湧き上がってくる鼓舞に、私は強く応える。



 へたり込む時間は終わりだ。足に力を入れて、ぐっと強く地面を踏んで立ち上がる。



「それにしても映画で差を感じて辛いって思うなんて……今の自分が満足している生活じゃないって思っているとか? それで「良くなる」って言う展開にも嫌気が差しているとか、なのかなぁ。うーん、どうしよう。映画じゃなくて、ゲーム系に走ってみるべきかなぁ」

 私は歩を進め「明日を生きる為」に取りかかった。



 だから全く気がつかなかった、ヒタリと冷たいままの床に小さな紙がある事なんて。



『君の家は、こっちだよね』