日食が終わるまで、あと××時間

ぐっと、音の鳴らない呼び鈴を鳴らす。そうすると、五分も待たないうちにゆっくりと開かれた扉の間から、端正な顔がゆったりと現れるのだけれど。

 こんな日に限って、今日はいつもと違っていた。



「開いてるよ」

 顔ではなく、ぶっきらぼうながらも優しさを灯した声が扉の前に立つ私を出迎える。



 私は飛んできた物を受け止めるや否や、ギョッと大きく目を見開き、ドアノブを慌てて自分の方へ引っ張った。

 すると、何の躊躇いもなく、ガバッと見事に大きく開かれる。



 言うまでもなく、思い切りそちらへダイブ。

 バタバタッと、いつものリビングへ駆け込むと……私の勢いにギョッと驚き、見事にドン引きしている彼がいた。

 いつもよりは冷たくないけれど、いつもより少しだけ棘がある目に射抜かれた私はゴクリと息を呑む。そして



「あ、あの。か、鍵、鍵が、ね。開いてた、んだけど」

 自分の中にあった驚きを吐き出す、思っていた以上にかなり訥々と。

 雨澤さんは眉を顰めたまま「そりゃあ開けておいたからね」と言い放った、何の詰まりもなく淡々と。



 あんまりにも平然と言うものだから、私の方が益々おかしくなってしまう。



 開けておいたから? それはつまり、何? どういう事? 雨澤さんが自発的に開けてくれた、そう言う事? まさか、まさかそう言う事なの?



 言葉を咀嚼して飲み込む、ただそれだけの事に長い時間がかかってしまう。



 それだからか、雨澤さんが「いや」と気まずそうに口を開いた。

「その、君が入って気安いかなと思っての事なんだけど。別に、嫌だったら」

「嫌じゃない!」

 あれだけ呆然と固まっていたのに。嫌だったら、と紡がれそうになる続きに戦いた私が全てを振り払って答えた。



「嫌じゃない! すっごい嬉しい!」

 自分を覆い囲う衝撃全てから逃れた勢いだったから、自分でも驚く位の大声で、自分でも引いてしまう位の力強さだった。

 自分でさえそうなってしまうのだから、当然、雨澤さんだってドン引き。「……そう」と静かに独り言ちてから、かなり強張った面持ちのまま「じゃあ、まぁ、これからは開けとくよ」と言ってきた。



 私の顔が、一気にふわぁっと綻ぶ。

 無理やりから引き出した答えだって言うのに、苦々しい白旗だって言うのに。どうしよう、嬉しくて仕方ない。ぽわぽわとした綿毛に全身を優しくぎゅっと包まれるみたいな幸せだって感じ始めてしまう。

 だって「鍵を開けてくれる」なんて、心を許した人じゃないとしない事でしょ? 内側に踏み込む事を許してくれないと、こんな風にはさせないでしょ?



 雨澤さんの真意が分からないから、何が正解なのかは分からないけれど。今、この瞬間だけは自惚れさせて欲しい。



「初めて、雨澤さんの方から心を開いてくれたんだ」って。



 私の心が、幸せな世界にとろとろと溶けていく。

 仕事の終わりがなんとなく心地悪いものだったからか、余計に染みこんでいく様に感じた。すると

「大丈夫?」

 冷徹な声が、天に近づき過ぎた私の理性を引っ張り落とした。



 直ぐさまハッと我に返った私は「あぁ、うん」と、曖昧な答えを紡ぎ出す。

「大丈夫、ごめん。ちょっと、嬉しくなり過ぎちゃった」

「……そ」

 雨澤さんは静かに頷いた。



 私ってば、彼から突っ込まれる位に舞い上がっちゃうなんて。恥ずかしいわ。

 一撃目と余波の力が強い羞恥に襲われ始めた私は、「ごめん、もう台所借りるね」と台所へと逃げていく。



 けれど、そんな時に限って雨澤さんがスッと立ち上がって、私の隣にやってきた。

 桃色の熱に浮かされている私は「嗚呼、もうこんな今日に限って!」と軽いパニックに襲われてしまうが。



「これだけは作ってみたんだけど、どうかな」

 冷静沈着そのものの雨澤さんがガチャと開けた物を目にするや否や、ストンと落ち着いた。

 ううん、そうじゃない。数分前みたいに驚きすぎて落ちてしまったのだ。感情が追いつかない所にある、その先へ。



 そんな状態のまま、私は見つめた。冷静を装いながらも別の何かに襲われている雨澤さんを。

「一応、豚丼のつもり。だからコレを白米の上に乗っけて食うって感じで」

 どうかな? 

 さっきと同じ言葉なのに、今の「どうかな」には感じた。作った料理を誰かに初めて振る舞う時の、あの繊細な心の震えを。



 とても覚えのある揺らぎに、私は息をゆっくりと呑んだ。



「雨澤さんが作ってくれたの?」

 恐る恐る、ゆっくりと尋ねる。



「まぁ、うん」

 問いに問いを返されたせいか、雨澤さんはやや眉根を寄せて答えた。

「私が来る前に?」

「そうだけど」

 そうだけど。って言う事は、やっぱりコレは幻想じゃない。ちゃんとした現実なんだ。

 現実。そうだと証明されるや否や、私の鼻腔がふわりと残る香ばしい匂いにくすぐられ始める。



「うそぉ……」

 私は手で口元を覆って、嬉しすぎる現実をぎゅううっと閉じ込めて言った。

「嬉しい」

 幸せをぴったりと閉じ込める中から絞り出す様にして、心からの言葉を強く吐き出す。



 鍵を開けてくれた事だけじゃなく、料理を作って待っていてくれた。

 幸せに幸せが重なりすぎて、私自身がほわほわと蕩けて崩れていく心地に陥る。そして自分が溶け消えていく心地すらも、幸せに昇華されていく。

 だから今の私には「幸せ」しかなかった。



「いや、あのさ。自分で言うのもなんだけど。こんなの、そんなに感動する程の物じゃないだろ」

 ただ肉焼いて、既製品のタレを適当にかけただけなんだから。と、雨澤さんが苦みをぐにゃあと広げながら吐き捨てる様に突っ込んできた。

 冷淡とドン引きが見事な比率で混ざった突っ込みに、私は直ぐさま「何を言ってるの!」とばかりにカッと目を開け、口元から手をパッと外す。



「私の為に作ってくれた物に感動するな、なんて無理よ! しかも、こんなサプライズみたいな形で出されたら嬉し過ぎるし、幸せ過ぎるに決まってるわ!」

 目を爛々とさせ、奮然と一歩を縮めてしまう私。

 雨澤さんは、そんな私にやや強張りながら「言い過ぎだって」とズリッと後ずさる。

「君が作ってくれる物よりもうんと下手だし、うんと労力もかかってない。肉を焼いた、ただそれだけ。だから料理って言う程の物でも」

「ない、なんて大間違いだわ雨澤さん! 食べやすい大きさに切って、フライパンを出して、肉にしっかりと火を通して、タレをかけて、皿に盛る事のどこが料理じゃないのよ! ? やろうとしなきゃ出来ない事だし、洗い物だって発生するし、行程一つ一つに労力がかかるのよ! だからこれは歴とした料理って言うんです!」

 信じられないとばかりに、素早くガブリと噛みついた。



 容赦なく天頂から噛みついたせいか、何なのか。雨澤さんは「は、はい」と弱々しく頷いた。



 私は「分かれば良いの」とばかりに鼻息荒く結び、決着の終止符をバシッと打つ。



 そうして、ほわりと頬を緩めて「じゃあ、今日は」と朗らかに継いだ。

「豚丼に合う副菜を作るね」

 睫の毛先までどっぷりと浸った幸せを軽やかにパチンと弾けさせてから、私はルンルンと取りかかる。

 この幸せを彩る、サイドメニューに。