日食が終わるまで、あと××時間

 バタンと隣の扉が閉ざされる音がする。

 朝六時。彼女が勤め先の遊園地に出勤する、いつもの時間だ。狂う事があったとしても寸分だけで、常に俺の部屋の前を穏やかに遠ざかっていく。
 それが彼女の日常であり、俺の日常の始まりを《《正しく》》告げる音でもあった。

 俺は「相変わらず早いな」とボソッと呟いてから、だらりと腰をかけていた椅子からのそりと立ち上がる。
 ずうぅんと体が重い。鉛でも背負っているのかと思う程だが、俺の背には鉛以上の物がべたりと乗せられているはず。
 真夜中を引っ張り続けると言う事はそう言う事だ。そしてソレが一年と重なる度に、蓄積される加虐が深く染みてくる。

 俺は重たいのに沈み込もうともしない瞼をパシパシと軽く瞬いてから、備え付けの冷蔵庫をガチャと開けた。

 手にするのは、いつもの栄養ドリンク。以前と変わらず、お馴染みの慰みだ。
 俺は取ったドリンクをパキッと開けてから、冷蔵庫の中を一瞥する。

 ……賑やかになったよな、ここも。

 ほんの少し前までは伽藍堂と化していた空間なのに、今では調味料やら肉類やらが置かれている。
 見る度、不思議に思うし、脳内には劇的な変化を代表するあの音楽だって流れ始める。
 あの匠がじわじわと別世界に作り替えていく世界を見きってから、俺はバタンと閉ざした。

 そして調理器具が点々と置かれる様になった台所を横切ってから、定位置にドサリと腰を下ろす。

 俺のこの場所だけが、以前の日常と変わらない。
 あとは、じわじわと彼女の日常と混ざり合い始めているのだろう。

 一緒にご飯を作り、一緒に食べる。
 そんな温かみが溢れる行動が、まさか自分の日常に組み込まれるなんて思ってもいなかった。

 自分で言うのも何だが、自分の日常は冷たく暗い。だからこそ、この混ざり合う温かみに戸惑いが止まらない。不思議な心地になってくるのだ。

 自分の世界がこんなにも温かいなんて、と。

 きっと、今日も俺はその温かさに包まれるのだろう。
 自分の家へ帰る前にこっちにやって来て「今日は何する?」と、笑顔で腕まくりをする彼女のおかげで。目の前で「美味しい、美味しい」と幸せそうに食べる彼女を見たら、その温かみは更に増していくのだろう。

 フッと、何かが零れる。
 それが自分の口から勝手に零れた物だと分かると、少々目が丸まった。

 ……どうかしている。
 ついさっき、彼女が出て行ったばかりなのに。俺はもう、今日の夕方を思い描いているのか。
 今日も朝から自分の時計だけが前に進んでいる事に気がつくと、右の口角だけがクッと歪んだ。
 本当にどうかしている。
 約束と成った日から一週間が経っても尚この調子だ。

 交互に行き来していたものを「俺の部屋に固定しないか」と頼み込み、開催地を固定したのが契機になっていると思う。

 時計を戻したいのなら「交互」へ戻せば良いのだろうが……そうしたくない。

 太陽の内側に、人間は踏み込めないだろう?
 つまりは、そう言う事だ。
 俺は、太陽の内側に居られない。イカロスだって、太陽に近づきすぎたから死んでしまったのだ。神話に出てくる存在でさえも太陽相手にはそうなってしまうのだから、ただでさえ弱い人間の俺がそんな場所に居られる訳がない。

 だからこそ提案したのだが、彼女は何の躊躇もなく快諾。嘘みたいに軽やかな流れで「良いわよ」と言ったし、「じゃあ器具とか移して良い?」なんて調理器具とかを搬入してきた。それはもう、意気揚々と。

 これで自分の心地悪さが解消出来た。
 出来たはず、なのだが……完璧に男として見られていないのが、ここまで可視化されるとなんとも言えない心地になった。
 いや、別に男として見られたい訳ではない。何度でも繰り返すが、彼女は太陽みたいな存在だ。そんな存在に「ちゃんと男として扱ってくれ」なんて言えない。男だと意識してくれと言うのも、かなり心地が悪い。
 だから別に、これで良いのだ。
 そう、良いのだ。

 けど、まぁ。愚かな勘違いを抱えていたせいで、どうしようもない羞恥が湧き上がってくる。

 フッとした瞬間でもドンッと一気に突き上げてくる羞恥を止めようと、前髪を片手でかき上げてからギュッとその場で縛り付けた。

 運命だとか言って初手からぐいぐい来ていたから、彼女は俺の事を好きなのかと思っていた。
 それらの言動は全て、完璧に彼女の《《心からの優しさ》》だったと言うのに。なんとも甚だしい勘違いだし、つくづく愚かしい。

 指の隙間を縫って、するりと落ちてくる想いにチッと舌が鋭く打たれた。
 もうどうしようもなくて、遂にだらりと弛緩して大きく仰ぐ。
 この世界にはまだ、彼女の手が及んでいない。

 案の定、広がる白天井がじわじわと大きく差し迫ってきた。

「……良かった。捨てきった訳じゃないな」
 ボソッと零れた独り言に、嗚呼と心から安堵する自分がいた。

 そんな自分を内側で封じる様に、ゆったりと瞼を閉ざす。真白がフッと真黒に追いやられると、ストンと恐ろしいまでの速さで何かが落ちてくるのを感じた。

 思い知った、と言うべきか。
 どれだけ温かい想いを抱えても、寒さを霞ませる温かさが染み込んできても……俺の根底は、何も変わらない。

 俺の口から吐き出された息が、ふうっと天に登っていく。

 どこに辿り着いてくれるのだろうか。緩やかに力尽きて、どこにも着けないのだろうか。それとも、ふわふわと四方へ寄り道をしていくのだろうか。

 寄り道、そんな単語がポンと脳内に現れた瞬間。仕事で疲れているだろうに、ここへ元気に飛び込んでくる彼女の姿が現れた。

「雨澤さん、今日は何にする? 昨日のメインが魚だったから、お肉系はどう? ハンバーグとか鳥の照り焼きとか。あ、待って。ビビンバとかもアリかも!」
 なんて、溌剌とした笑みで言ってくる。

 別に、何だって良い。君が作る物なら、君が美味しそうに食べる姿を見られるのなら何だって。

 俺は、ふぅと小さく息を吐き出して座り直した。
 それと同時に、頭の中で先ほどの賑やかな冷蔵庫の世界を思い返す。

「少しはこっちでも作るべきか」
 まぁ、とは言え、俺は未だに下手くそのプールをジタバタと泳ぎ回っているレベルだ。
 けれど、俺と違って外で働く彼女を少しは休ませてやりたいし、こんな手でもあるのとないのとでは違うはずだ。恐らく、きっと……。

「やるだけやってみるか」
 小さく決意を吐き出し、やるだけやってみた後をふわりと想像してみる。
 刹那、フッと口角が上がった。

 自分とは、どこか外れた緩み。隙間からしれっと入り込んだくせに、どっかりと中央に居座った異物。
 その気持ち悪さに、俺は直ぐさま反応し、バシッと片手で封じ込む。

「……いや。マジで壊れてるな、俺」
 情けないと言わんばかりに、頬骨辺りに伸びた指先がぎゅうっと背を丸めたのだった。