日食が終わるまで、あと××時間

 特別な事をしようとしなくて良い。今はただ、隣に居て「貴方がいてくれると幸せ」と伝えよう。
 だから私は私らしく、彼の隣に居続けよう。



「は?」
 扉を開けた先の雨澤さんは、ギョッと固まる。いや、どの感情を一番に出せば良いのか分からなくなっている顔だった。

 感情が迷子になっている雨澤さんに、私は更にニコッを弾けさせる。
「だから、夕飯を一緒に食べようと思って」
 もう一度同じ言葉を繰り返し、両手に持つ袋を少し掲げて、提案の現実味を強くトッピングしてあげた。

 がさっと、小気味よい音が弾ける。

 雨澤さんは目をパチパチと瞬いてから、のろのろと首の後ろに手を当てて「困惑」にシフトチェンジした。

「それは、二ヶ月のうちの作戦ってやつ?」
「うーん。まぁ、作戦って程じゃないけど。折角だから、どうかなぁって」
 駄目? と、私はしゅんと手を落として答える。
 刹那、雨澤さんの中で「嫌」と「でも」がせめぎ合っている様に見えた。
「ご飯を誰かと食べると楽しいし、お互いの壁を手早く取っ払う意味でも良くない?」
 せめぎ合いの前で、私はすかさず利点をドンドンと重ねる。
 ちょっとだけ、いや、かなり「駄目」と言いにくい状態に追い込んでいるのは自覚済みだ。
 でも、こうしていかなきゃいけない。無駄な時間を取り返しつつ、ドンドンとプラスに進んでいかなきゃいけないのだから。
 スタート地点から何も出発していない、むしろ後退しているから仕方ない。と、自分の強引さに免罪符をペシリと張りつつ、彼を見つめた。

 雨澤さんは、未だにぐるぐると荒い渦潮に溺れている。
 私は「まぁ、もう買ってきちゃったから。うんって言ってくれないと困っちゃうんだけどね」と、ぐいっと一歩を踏み出した。

 雨澤さんはギョッとした表情で、一歩後退する。
「いや、待って」
 奮然と前のめりな私に、パッと両手で壁を作って宥めてきた。

「俺の部屋でやるつもり?」
「勿論!」
 当たり前とばかりに速攻で頷く私。「マジかよ」と青ざめ始める雨澤さん。

「私の部屋でも良いけど?」
「絶対嫌だ」
「って言うと思ったから」
 私は噛みつく様な拒絶に肩を大きく竦めて「だからこっちなの」と吐き出した。
「いや、君的には良いの?」
 その、色々と。と、弱々しくなっていく語勢で問いかけられる。

 私は「勿論」と、またあっけらかんと打ち返した。

 まぁ、本当の事を言うと、私の部屋でやるのはなんだか色々と恥ずかしい。見られて困る物とかは全然ないけど、なんとはなしに、私の部屋じゃなくてちょっぴり良かったって思うのよね。

 心が小さく安堵すると同時に、「うわ……」とおののき始める雨澤さんから「あの、分かってる?」と重ねられた。
「俺、男なんだけど」
 何を言われるかと思えば、とても「知っている」事を言われる。
 すぐに、私は前からの確認に「そうね」と頷いた。

 すると彼の顔が百面相の如く、くるくると変わっていく。けれど徐々に終幕に近づいていき、緞帳がゆっくりと降ろされた。

「……どうぞ」
 と、たった一言をえらく時間をかけて言われる。それもかなり苦々しい面持ちで。

 私は「ありがとう」と、笑顔で内側に踏み入ったのだった。

 
同じ間取りのはずなのに、眼前に広がっている部屋は私の部屋と全く違っていた。



 素っ気ないが溢れているって言うか、全体的に冷たいって言うか。でも、男の人の部屋ってこの感じが普通なのかもしれないわよね。



 私は、自分が見てきた普通こと弟の結生ゆきの部屋を思い浮かべて、彼の部屋と重ね始めた。



 すぐに、サッカーと音楽が好き放題に入り乱れて絵的にも音的にもうるさい部屋とは大違いだと痛感する。



 家具が少なくてシンとしているのと、全体的に物が多くてうるさい部屋のどちらが普通なのか。

 分からないわね。なんて、小さな苦笑が零れた時だった。



 瞼裏の部屋と眼前の部屋が、ピタリと重なった一角に「あ」と気がつく。

「漫画が凄くあるのね」

 そう、壁際にピタリと置かれた本棚にビッシリと漫画が並べられているのだ。漫画には明るくない私も知る大人気少年漫画もあれば、全く違うジャンルの漫画もある。長い巻数なのにしっかりと揃えられている物もあれば、この巻数で終わっているのかな? なんて短さの物もあって、本当に色々だ。



 私は中央に置かれた丸机にドサッと袋を置きながら、雨澤さんの意外な一面に驚く。

「漫画好きなの?」

「まぁ」

 雨澤さんは素っ気なく答えた。相変わらず短い時間で会話終了を突きつけられる。



 私は「ふぅん」と相槌を打ちながら、話の裾を少しでも広げるべく棚の方へ近づいてみた。



 ずらぁっと並べられた背表紙が、徐々に壮観になっていく。



「本当に凄い巻数……あ、これ。ぐらびっと、弟も読んでるやつだ。面白いからって、結構オススメされてるの」

 結生にごり押しされた過去を思い返しながら、壮観の中からふと発掘出来た一つを挙げてみた。すると

「ぐらびっとが、面白い?」

 弟がそう言っていたの? と、雨澤さんが突っ込んでくる。



 ほぼ初めてと言える話の広がりに、内心で「え? 返された?」と小さく驚いてしまった。



 なんとか続けようと思っての事だったけれど、本当に続けられるとは思っていなかったもの。「ふぅん」か「そうなんだ」か、無言だと思っていたもの!



 私は「そうなの」とぎこちなく頷き、彼の方に向き直った。

「弟も雨澤さんと同じ位に漫画が大好きでね。面白いのがあったら、すぐに読んでくれ読んでくれってうるさい奴なの。私はハイハイって感じで、読まない時が多いんだけど。ずっとプレゼンしてくる子だから、嫌でも色々と覚えちゃってさ。このぐらびっとは最近プレゼンされた物だから、印象強くって」

 あははと苦笑を零していると、瞼裏にじわぁと結生の顔が現れてきた。しかも、やけに勝ち誇ったドヤ顔でムカつく。



 何よその、「姉ちゃんは本当に分かってないよなぁ。男と話すなら、こう言うネタから始めないと駄目だよ? 分かる?」って感じは。

 イライラッと煮えていくマグマに、結生のドヤ顔を飲み込ませた。そうでもしないと、奴への怒りは冷めない。



 一方で雨澤さんは、そんな私の勝手な苛立ちに気がつく事もなく……「そっか」と頷き「これを面白いって言う人がいるのか」と、ボソッと独りごちていた。



「うん、弟はかなり大絶賛。面白すぎる、これは神作品だって。でもなんだっけ、なんか最近あってなんとかって。えーっと、なんだっけ」

 適当に流していたが故、途端に話が曖昧になってしまう。「なんか」の部分を思い出そうとしても、「面白いんだって、マジで!」と熱弁してくる結生の鬱陶しい顔しか蘇ってこなかった。



 抱えている苛立ちが、更に温度を上げていく。



 こうなったらもう、今年奴にあげるお年玉を減額するしかないわね。

 よしっと決意すると共に、「まぁ、兎に角面白いらしいの」と締めくくった。



 雨澤さんは「そっか」と、小さく頷く。



 ストンと、顔が小さく落とされたからかな。なんだか雨澤さんの顔に影がかかり始めている気がする。



 私はもわっと感じた気配を払うべく、「雨澤さんは?」と尋ねた。

「ぐらびっと、面白くないの?」

「俺は駄作だと思ってる」

 雨澤さんはすぐに淡々と答える。



 いつも通りの冷たい口調、冷たい声音……なのに、どうしてか。いつも通りには聞こえない。



 なんとなく、そんな漠然とした感性がじわぁと胸にシミを作っていくのだ。



 いやいや、別に「おかしいな」って思う事はないわよね。人の感性なんて色々なんだし、結生みたいに言わない人だって普通に居るでしょ。寧ろ、結生だけが外れている可能性の方が高いわよ。



 そうしてどことなく不審がる自分をペイッと軽く叩いて、更に「重く」「暗く」囲ってくる内側から抜け出した。



 私は「やっぱり、人の感性って色々ね」と笑って打ち返してから、「さてと!」と腕まくりする。

「これから、カレーを作ろうと思います!」

 ガラッと強引に入れ替えられる空気と話に、雨澤さんは「はぁ」と間の抜けた返事を発した。



 私は「鍋にするかカレーにするか、結構迷ったの」と小さく苦笑する。

「でも、鍋はまだちょっと時期が違うかなって思って。ほら、今は十一月だし」

 だからカレーかなって。と、荷物を置いた丸机に向かって、パッと足を進めた。

「駄目だった?」

 大きな袋を掴んでから、ちらっと肩越しに彼を捉える。

「いや、別に」

 雨澤さんはいつも通りに答え、いつも通りキュッと唇を一文字に結んだ。



 私は「なら、良かった」と微笑を投げかけ、「台所借りるね」と私の部屋と同じ作りの台所に向かう……けれど。

 辿り着いた台所で、愕然としてしまった。



「ねぇ、包丁もまな板も鍋もフライパンもないんだけれど? ! 炊飯器もないし! それに、必要なお皿とかも全然ないんだけど!」

 嘘でしょ? と、驚きをぴょんと越えてもはや戦慄の域に到達する私。



 野菜やカレールウは、なさそうと踏んで買ってきたけれど。器具が一つもないとは思ってもいなかったわよ! 少なからず、包丁とか鍋はあるかもって思っていたのに!



「自炊しないから」

 ビリビリと戦慄が迸る私の背後から、とても端的な真相が飛んできた。

「気が向いたら、コンビニとかスーパーで適当に買ってくるだけだし」

 あぁ、成程。だからレンジだけはしっかりあって、埃もかぶってないのね……って、そうじゃない! 

「これじゃ作れないわ!」

 どうしようと絶叫してしまう私を前に、雨澤さんは「いや、知らん。勝手に押しかけてきたの、そっちだろ」と言わんばかりに飄々と佇んでいた。



 そんな涼しい顔を見てしまうと、私の中で沸々と「どうしよう」が塗り替えられていく。



 ストンと落ちてくる宥めが、あわあわと大きく揺れ動く器に受け止められたのだ。そしてソレはコォンと受け止められてから、ぐるぐると弧を描きながら中央に向かって徐々に収束していく。



 大きく揺れ動く器は、気がつけば、もうピタリと止まっていた。



 ……うん、そうね。こうなったら、もう仕方ないわ。



 私は「よし、それじゃあ」と自分に言い聞かせてから、ニコッと両方の口角を上げた。



 何かを察知したのか。彼の顔が、ぐにゃりと歪み始める。



 それでも私は笑みを崩す事なく、彼の前でハッキリと告げた。

「そうしたら、雨澤さん」