アトーンメント -警視庁捜査一課・千木良藍-


 板橋区前野町七丁目――前野池(まえのいけ)公園。

 敷地外周はどこも一車線道路で、路上に停まっている警察車両はなかった。首都高五号線の高架下、公園の正面出入り口付近に、すし詰めになった緊急車両があった。規制線は公園敷地外をぐるっと一周囲んでおり、捜査関係者以外は立ち入りが禁止されている。

 捜一の腕章をはめ、白い手袋を装着した。大平の後に続き、規制線をくぐる。

「お疲れっす」

「お疲れ様です」

 規制線と車両の向こう側には、見渡す限りの池が広がっていた。池の向こう側には緑葉樹が林立しており、水面に緑を落としている。その水面の上を、ボートに乗った鑑識課員たちが浮遊していた。マル害(被害者)と思しき遺体はない。

「おう、お疲れ」

 キョロキョロと辺りを見渡す大平と藍のもとに、聞き馴染みのある声が届いた。

 池の東側からこちらへと歩いてきたのは、警視庁捜査一課第五強行犯捜査殺人犯捜査第九係、主任の南波(なんば)隆之介(りゅうのすけ)警部補だ。藍が所属する、同九係布施班の内海(うつみ)浩司(こうじ)巡査部長とは同期で、第九係が「男前集団」と囁かれる大元だ。甘いマスクと、フルオーダーしたという濃紺のスリーピーススーツは、立たせる場所よってはモデルに見えるだろう。実際、南波の後ろを歩く三人の班員たちは、もはや彼を際立たせる背景にしか見えない。

「なんだ、千木良も一緒か」

「どうも、ご無沙汰してます」

「なんや、こうやって三班集結するんは珍しいですね」

 九係は、大平が所属する少数精鋭の園田班三名、新人育成班とも言われている布施班五名、九係の顔とも呼べる南波班四名、そして係長の柳内(やない)直孝(なおたか)。計十三名で構成されているが、全員が捜一の大部屋に揃うことなど滅多にない。世間を震撼させる大事件であれば一つの係がまるまる捜本に投入されることはあるが、ありがたいことに、今の日本はそこまで物騒ではない。普段は、それぞれの班が、所轄署を本部とした捜査に赴いているのだ。

「ご遺体は?」藍が聞く。

「あっちだ」

 答えたのは、この中では藍と一番年齢が近い秦野(はたの)だ。彼が指差しているのは、池の中央。高い草に覆われた中島だった。そこには、木も二本生えており、遠目に様子を確認することはできなかった。上空を旋回する報道ヘリの目隠しにはなるが、遺体の状況が捜査員から見えないのは、ストレスだ。何より、今回の場合は、未解決事件の被疑者である可能性がある。

「園田主任から、うちが担当してる事件の容疑者ちゃうか確認してこい言われとるんですわ」

「ああ……確か、後藤田晋也か。生憎、俺らはまだご尊顔すら見れてない。第一発見者に聞くといい」

「第一発見者は?」藍が横から聞く。

「機捜からの聴取が終わって、ボート乗り場の事務所で休んでる」

 池の向こう側、ちょうど対岸に、ログハウス調の建物がある。そこが、ボート乗り場受付兼事務所だそうだ。

 第一発見者は、ボート乗り場の受付・貸出業務を行っている、シルバー人材センターから派遣された長塚(ながつか)修造(しゅうぞう)。六十五歳。今朝、営業前に相勤とボートで巡回をしていたところ、中島の草陰に人が倒れいているのを発見したという。

 長塚は、事務所でコーヒーを飲んでいた。とても、遺体を目の当たりにした後とは思えない落ち着きようだ。

「すんません、警視庁の大平言います」

「千木良です」

 警察手帳を出して名乗ると、長塚は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした。

「どうも、長塚です」矍鑠(かくしゃく)とした口調だ。「お話でしたら、先ほどの刑事さんたちにしたのですが……」

 大平は苦笑いを浮かべた。

 捜一は特に、初動捜査を行う交番勤務の地域課や、機動捜査隊の後に追って話を聞くことが多い。このように、長塚と一言一句同じことを口にする市民は少なくないのだ。

「すんません。警察っちゅうもんは縦割り社会なもんでして、僕らはまた別の事件を追ってるもんなんですわ」

「ほほう」

「同じことは聞きません。長塚さん、ご遺体の顔はよく見られましたか?」

「ええ。わたしがボートから降りて、脈を確認しましたから」

「その人は、この男ではありませんでしたか」

 大平が、手帳から川原(かわはら)健二(けんじ)――もとい後藤田晋也の運転免許証写真のコピーを差し出した。

 長塚が、かけていたメガネを頭にずりあげ、目を細める。
 藍は、その様子を生唾を飲み込んで見守った。

 しかし、長塚から出たのは「ううん」という唸り声だった。

「こんな顔は濃くなかったし、齢もこの人よりかは一回り――下手しらた二回りほど違うとは思いますが」

「そうですか」大平が返却された写真を受け取った。「すんません。ご協力感謝します」

「いえ。お役に立てずすみません」

 頭を下げ、立ち去ろうとする大平には目もくれず、藍は長塚を見つめる。

「まだ、何か――」

「遺体を見ても、驚かないんですね」

「はい?」好々爺(こうこうや)の顔が、わずかに歪んだ。「えっと……何がおっしゃりたいんですか」

「ボートの管理は、どのように? 営業時間外、誰でも乗れてしまうほど杜撰(ずさん)な管理をされているんでしょうか」

「おい、千木良」大平が止めに入る。

「未使用のボートは、桟橋にロープで繋いでいるようですね。あれでは、管理者の目が離れている営業時間外は乗りたい放題じゃないですか?」

「営業中はスムーズにお客さんを案内するためにロープを使っていますけど、時間外はチェーンと南京錠で管理をしています。決して、杜撰な管理をしているわけじゃありませんし、営業終了の午後五時を過ぎたら、必ず元に戻しています」

「南京錠の鍵はどこに?」

「ここです」

 事務所入り口のキーフックに、五本の鍵の束がある。

「チェーンで、何艇かまとめて鍵をかけています」

「事務所の鍵は誰が管理していますか」

「外に、ダイヤル式のキーボックスがあるんで、毎朝シフトに入っている者が開けて取り出します」

「ということは、もし今回の犯人がボートを使って死体を遺棄した場合、容疑者はこのボート乗り場で受付と貸出業務をしている誰か、ということになりますね」

「あの……」長塚が眉根を寄せた。「それでは、わたしが犯人みたいじゃないですか」

「え、違うんですか」

「おいチビこら」横から、大平が小突く。

 長塚は、長く深いため息をついた。短気でない人間であっても、今の藍の態度は罵倒しても然るべきだ。長塚は、怒りを言葉にせず吐き出している。かなり、思慮深い人間だ。

「……失礼だとは思いませんか」

「ええ、もう、おっしゃるとおりです」藍の後頭部を掴み、無理やり下げさせる。「申し訳ありませんでした。自分の方で指導はしますんで――」

 藍は大平の手を払いのけた。

「最後に、一つお聞きしてもいいですか」

「……何でしょう」

「――今の南京錠とか、鍵の話、さっきの刑事達に話しましたか」

 その問いを最後に、藍たちは事務所を出た。

 長塚の答えは、ノーだった。