「あーあ、一足遅かったか」
千木良藍は、まだ若い緑葉を前に肩を落とした。
後ろに倒していた首を元に戻す。ちょうど同じ視線の高さの幹に、樹名板が掛けられている。木製の楕円形の板には、角丸フォントで【エドヒガン】と記されており、その周りには手書きの桜の花びらの絵が散りばめられていた。
あれから十年以上が経っているせいか、色褪せ、ところどころ剥げている。
その板にそっと触れると、あの頃の思い出が走馬灯のように――。
「おい、何しとんねん」
懐かしい思い出の数々に思いを馳せようとしたその瞬間、背後から鼻にかかった関西弁が聞こえた。
藍は閉じていた目をそっと開き「はぁ」と小さく息を吐くと、もう一度その木を見上げてから、声の主のもとへと歩み寄る。
パンプスの中に砂が入り込んで気持ち悪かったけれど、せっかちな関西人を前にやすやすとそれを取り除くこともできずに、横に並んで歩き始めた。
園庭では、小さな子どもたちが太陽の下を駆けまわり、鬼ごっこで遊んでいるようだ。職員が鬼役を買って出ており、子どもたちもキャッキャと騒ぎながら遊びを楽しんでいる。
「広いなぁ」
「大平さん、ここ来るの初めてなんですか?」
まるで初見のような反応を見せた関西人――大平広喜は、お世辞にも綺麗とは言えない並びの白い歯を輝かせ「実は腐るほど来てる」と、語尾を伸ばし、間の抜けた声を発した。その答えに、藍は思わず笑みがこぼれる。彼女自身も、まだここで暮らしていたころ、腐るほど足を運んでいた警察官を知っている。
埼玉県草加市谷塚にある児童養護施設『かなう学園』は、入居児童三〇名以上の大舎制で、小学生・幼児は『りす棟』、中学生は『ぱんだ棟』、高校生は『きりん棟』の三棟が、園庭を囲むように建てられていた。その園庭の真ん中には、先ほど藍が見上げていたエドヒガンが植えられている。創立の年に植えられたため、樹齢五〇年。山梨県北杜市にある山高代桜はエドヒガンの古木で、推定樹齢二〇〇〇年とも言われている。それに比べたら、かなう学園のエドヒガンはりす棟の子どもたち――いや、それよりも小さい、ひよっこだ。
藍と大平がまず向かったのは、りす棟の隣に建つ本舎。舎内は木目調のものが積極的に採用されていて、彩りも豊かだ。それは本舎に限ったことではなく、子どもたちが生活する棟内も同じで、学校と家を混ぜ合わせたような、温かい空間が維持されている。壁に設置されている掲示板には、おたよりに交じって、おりがみで織られた淡紅色の桜や、さまざまな動物が貼られていた。りす棟の子供たちが、職員とともに作ったものだろう。中には、お世辞にも桜とは言えない、歪な形のものもあった。小さな手で頑張って作ったのかと思うと、温かい気持ちで胸がいっぱいになる。
「お待たせしました」
しばらく掲示物に視線を滑らせていると、廊下の先からグレーのリネンシャツを着た、おかっぱヘアの中年女性が現れた。邪念など微塵も感じられない、いかにも人が好さそうな雰囲気を纏うその女性は、大平に会釈をし、次に藍を見て親し気な笑みを浮かべる。藍もつられて口角が上がり「お久しぶりです」と頭を下げた。
平野暁美。
藍がかなう学園で過ごしていたときからの施設長で、警察学校卒業の報告に来て以来、約五年ぶりの再会だった。すでに還暦を迎えた暁美だが、最後に会ったときとそれほど見た目に変化はない。多少は老け込んでしまっているかと思ったが、変わらず快活な人だった。
「友思くん、今日は掃除当番なんです。もう少ししたら、職員が連れてくると思うのですが」
「ああ、お気になさらず。いくらでも待ちますんで」
大平が顔の前で手を振る。
言っているそばから、友思は職員に連れられ、本舎へと姿を現した。
「おはようございます!」
大平の姿を見つけるなり、友思は駆け寄る。その様子から、かなり大平に懐いてることが窺えた。腐るほど来てるという言葉は、あながち間違いではなさそうだ。
「小さな刑事さんも、来てくれたんですね」
ふと、友思の視線が藍へと向けられる。晴れ晴れとした笑顔に、藍は「小さいけど、名前は千木良だから」と訂正しながらも、胸を撫でおろした。
彼と最後に会ったのは、三か月前。高田馬場メディカルセンターの一室だった。
友思は、年始に発生した新宿区百人町都営アパート夫婦殺人事件の被害者、中井岳郎と実和子の一人息子だ。金銭トラブルと思われた当該事件は、実和子の地元である徳島県白峯村で隠蔽され続けていた児童買春が関わっており、友思は実母である実和子に村へ売られるすんでのところだった。
藍の胸を締め付けたのは、その事実よりも、友思がそれを知った上で実和子を庇おうとしていたことだ。実和子の実父であり、十四年前から身をくらましていた後藤田晋也に夫婦殺害を指示したうえ、のちに晋也の殺害を供述した麻植小百合が殺人教唆などの罪で逮捕されたあと、友思はこの施設へ預けられた。事件の内容が内容だけに、児相側の判断で、都外の施設への入所が認められたのだ。
「新しい学校はどう? 友達できた?」
友思は、首を傾けて唸った。
「微妙、かな。みんな話してはくれるけど、それは変な時期の編入だったから気遣ってくれてるのかもしんないし」
「まあ、そうだろうね」
「おい、何言うてくれとんねん」すかさず、大平からツッコミが入る。「友思くん、あんま真に受けんでええからな。小さな刑事さん、だいぶ捻くれとって友達おらんねん。せやから、あんま気利いたこと言えんだけで」
「残念ながら、友達の一人や二人くらいいます。勝手に決めつけないでください」
「はあっ? おまっ、先輩に口答えすんのか」
藍と大平の間に火花が散り始めたところで、暁美がふふっと笑う。
「本当に藍ちゃんは、昔から変わらないわね。誰に対しても、すぐ抗戦態勢に入ってしまう。――大平さん、ご迷惑おかけしていないですか?」
「いえ、自分は……普段は、別の班なので」
大平に変に気を遣われ、なんだかこそばゆい。ここは「本当に迷惑してますよ」と、ガハハと笑い飛ばしてほしいところだ。
「小さな刑事さんって、もしかして問題児なの?」
少々気まずくなった雰囲気を切り裂くように、友思がいたずらっぽい表情で藍に聞く。大平も暁美も、なぜだか笑いを堪えていた。
「問題児じゃないし、小さな刑事さんじゃなくて千木良ね、千木良藍」



