父は部屋には入らなかった。
玄関で分厚い封筒を渡された。
睦美はすぐに封筒を開けた。中には、家賃や水道光熱費の書類や契約書と通帳が入っていた。
「毎月一日に振り込むから、これで生活しなさい。家賃も水道光熱費もここから引かれるから無駄遣いはしないように」
通帳を開いた。十五万入っていた。
睦美が不服そうにしていると、父は念を押すように言った。
「これ以上は渡さない。足りない分は自分でなんとかしなさい」
睦美は、父を睨みつけた。
勝手に追い出しておいて、命令までされていることに反感しか湧かない。
どうして自分がこんな目に遭っているか、納得できなかった。
「君を引き取ると決めたことは、間違いだった」
父は暗い影を背負っていた。
「なぜこんなことを言うか、分かるね」
睦美は頷かなかった。
「君が、麦を苦しめ続けたんだ。私たちの大切な娘を」
「……」
「そんなことしなければ私も李加も、そして麦も、君を家族だと思っただろう」
「アナウンススクールのお金は?」
睦美は父のすべての言葉を無視して、用件だけ聞いた。
「……」
父の目に、失望とも絶望とも取れる動揺が広がっていた。
「睦美……、麦に謝る気はないのか」
「強要されることじゃないんで」
睦美は正論を唇に乗せた。
その途端、父は目を真っ赤にして裏返ったような声を向けてきた。
「なぜあんな残酷なことができたんだ。仮にも、自分の妹だろう。私たちが憎いのは仕方ない。だが麦にはなんの罪もなかったじゃないか」
「――罪がない?」
聞き捨てならない、と睦美は思った。
だから吐き捨てるように教えた。
「“あの日”、麦が私を見捨てたの」
口にしたら、氾濫したドブ川のように記憶と言葉が溢れてきた。
「自分だけ助かって、倒れた私をあの場所に置いてった。醜い、汚い、最低な子に育てたのは自分たちじゃない。なのになんで私が謝らないといけないの」
「睦美……よく聞きなさい」
父は抑揚を抑えた声を向けた。
「麦はちゃんと君のことを、“大人”に伝えた。伝えたことに安心して気を失った。
君をその場に残してしまったのは、それを伝えられた人が、気が動転して麦を先に他の大人に託しに行ったからだ。そうして公園に引き返した時、君は自らの足で家に戻っていった――そのことを私も李加も、報告を受けた」
「……え?」
「君は覚えていないだろうが、李加は一度家に戻って、眠っている君が本当に怪我をしていないか確認し、また病院へ戻ったんだ」
「!」
「そのことに触れなかったのは、君が、怪我をした麦に罪悪感を持っては可哀想だと思ったからだ」
「……」
「アナウンススクールの授業料は出そう。――それで最後だ」
睦美は、徐に部屋の中へと戻った。
いつ父がそのドアを開けて出て行ったのか分からなかった。
頭の中がジジジジ……と乱れている。
スマホを再び手にした。
父が訪問する前に見ていた画面が出てきた。
両手で持って、スクロールした。
下の方に、見覚えのある外観とカフェの店名が出てきた。
飲み会の様子が載せてあった。
!
心臓がばくん、と音を立てた。
投稿の日付は、睦美が碧と待ち合わせた日だった。
睦美は血走った目で背景を凝視した。
会場の背後にスクリーンが見える。誰もいない“あの”部屋が映っていた。
碧と待ち合わせて、麦がやってきて、麦を罵倒し頬を張ったあの――
……なに、これ
……まさ、か……?
指を動かして、他になにか――、映っているかもしれない写真を確認するも、途中からスクロールがうまくいかなくなった。
自分の指が大きく震えているのだ。
止めようと思えば思うほど腕全体に、それは広がっていった。
思わずスマホを手から離した。
床に落ちたスマホが鳴った。
……え?
画面に見知らぬアカウントからのコメントが流れていた。
『動画見ました、ひどいですね』
『人間じゃない』
『妹にここまでするって引く』
『アナウンサーとか無理でしょ、ここまでバレたら』
通知が止まらない。
睦美は両手で頬を覆った。
そうして知った。
味方がひとりもいなくなった世界に、残されたことを。
麦ちゃん……
睦美は『妹』の名を無意識に呟いていた。
こんな世界に、麦はずっといたのだと、気づいたからだ。
全身の力が抜けていった。
睦美は部屋の隅に座り込んだ。

