――少し前、勝負服に身を包んだ睦美がカフェの中へと入っていった。
見たことのないワンピースは今日のために買ったものだろう。
出掛ける間際、洗面台を占領していた睦美は「麦ちゃん、バイト? がんばってね」と上機嫌で声を掛けてきた。
「……」
私は黙っていたが、返事は求められていないようだった。
睦美は“ゆるふわ”なヘアスタイルにするのに忙しく、視線はすぐに鏡に戻った。
『その日常、今日で最後だよ、睦美』
私は心の中で伝えた。
迷いはない。
今日は、私が奪われたものを取り戻す記念日だ。
*
ダイニングカフェの前で身なりを整えた。
今日の私も、足元から髪型まですべて“スタイリストまかせ”のコーディネイトだ。
私を守る戦闘服のようなそれに励まされている。
一歩前に足を踏み出した。
ふう、と息を吐ききる。
緊張しながらも心は急かされていた。
この日この時を、ずっと待っていた。
店のドアを開け、個室で待ち合わせだと伝えた。
案内を断って廊下を進む。
マイクを仕込んだサコッシュをもう一度確認する。――うん、大丈夫
引き戸の取っ手に手を掛けた。
――さあ、始めよう。
ドアは流れるように、静かに開いた。
睦美は大きな二重瞼の目を縦に開き、甘ったるい表情でこっちを見た。もちろん碧のために作ったものだろう。
「……」
睦美は私を見て口を半開きにし、間の抜けた顔で固まった。
人間は予測不可能な出来事に遭うとこんな顔付きになるのかと、睦美を無言で見る。
「……なに? なんでここに……」
睦美がようやく声を発した。
だがまだ何が起きたか分からないという顔だった。
私はたっぷりと言った。
「アオくんは来ないよ。私が彼の代わりに来たから」
これは嘘じゃない。
このぐらいなら、別室で見ている碧が不快になることはないはずだ。
「は……? あんた、いったい」
睦美がようやく、私の前でだけ発するぞんざいな言葉遣いになった。
「まさかアオくんに会ったの?」
「……」
「どういうことか説明しなさいよ」
睦美がヒールを鳴らして寄ってきた。
「なんでアオくんと私がここで会うこと知ってんのよ」
睦美はぎらついた目で迫ってきた。
「あんた、耳ないの?」
「私は……伝言、伝えに来ただけ」
私は縮こまって俯く。
……まだだ。まだ、睦美に支配されているように見せなければ
「アオくんに余計なこと言ってないでしょうね」
「……言って、ないよ」
目の端で、睦美がほっとしたことが分かった。
心配が晴れたからか、睦美は私の身なりに目を光らせた。胸倉を掴まれる。
「っ」
胸元に抱えたサコッシュを守りながら睦美にされるがままになる。
「ねえ、なんなの、この服。これもっ」
と言って、乱暴に私の耳からイヤリングをもぎ取って床に投げ捨てた。
「誰に断って服買ったの? 髪を勝手に切ったことも許したから調子に乗った?」
「……そういうわけじゃ」
「だったらなんなの、これ」
睦美はネイルの爪で私のニットのシャツを皮膚ごと鷲掴みにした。
「あっ」
突き飛ばされ、私はその場に倒れこむ。
睦美が私の前にしゃがんだ。
「もしかしてアオくんの気を引こうとしてんの? アオくんはもう私の男だから」
「で、でも、ずっと前から私の――」
バチン、と頬に平手打ちを受けた。
……痛いっ
心の中で叫んだ。
「……」
あの夜は我を忘れた衝動だったようだが、今日の暴力には完全な意思があった。
私は、じいん、と熱を持った頬を手のひらで抑えた。
……いい絵が撮れたかもしれないけど、せっかく、おしゃれしてきたのにな、
そのことを残念に思う冷静さに、――大丈夫、私は負けてない、と勇気が出た。
「麦ちゃん」
しゃがんだまま、至近距離で睦美が私の名前を呼んだ。
「わかってるよね」
「……」
睦美がよく口にする『わかってるよね』には、私を雁字搦めにするに効果的な響きがあった。
――私が麦ちゃんに“当たる”のは、麦ちゃんのせいだからしょうがないよね
――こんなことしたいわけじゃないんだよ
私の罪悪感が薄れないように、睦美は定期的に私に『言い聞かせる』。
「麦ちゃん、痛いでしょう? 痛いのは、嫌でしょう?」
「……」
「もうこんなことさせないで? 麦ちゃんがわかってくれないと、わかってもらうまでこうするしかないよ?」
不気味なほどの、撫でるような声。
「……」
ここから先の制裁には、暴力が加わると宣言しているのだ。――だからいつものように――いや、それ以上に服従しろ、と。
私はぐっと顔を上げた。
「ねえ、睦美……、どうしてこんなに私のこと嫌うの?」
「いまさら?」
睦美は貼ったような笑みを作り、子供に分からせるような口調を向けた。
「麦ちゃんが、私の《《ここに》》醜い傷痕を付けたからでしょう」
睦美は自分の胸を指した。
「……」
……よくも、すらすらと嘘を、
私はぐっと我慢して、俯いて続ける。
「それ以外にはないの?」
「それ以外?」
睦美はきょとんとした。
「睦美の胸の傷痕を治せば、もう私にひどいことしないの?」
「ひどいことって、言葉遣いに気を付けて?」
睦美の我慢のスイッチはあっという間に入る。
ほんのちょっと私が言い方を間違えただけでも許せない。
――だから!
次の言葉をトリガーにしなければ。
「……私これまでずっと、睦美の言うこと聞いてきた。でも、もうつらいよ」
私はすうっと息を吸う。
ここからは、“ギャラリー”へ向けての台詞だ。
「睦美が私にひどいことされた、って嘘つくから、私はみんなに嫌われた」
「……」
睦美が怪訝な顔つきになった。
唐突過ぎたかもしれないと一瞬焦るが、押し切ろうと判断する。
「だから私、ずっと誤解されたまま、ひとりだった」
「……」
「睦美のカレシだった人たちにも、なんであんな嘘ついたの? 私、睦美のカレシを好きになったことなんて、一度もないのに」
不穏な沈黙が流れた。
……もしかして、私の計画、気づかれた?
私は嫌な予感と共に、そっと顔を上げた。
私を見下ろしていた睦美が、急に立ち上がった。そのまま部屋を見回している。
カメラがあるのは観葉植物の影、テーブルの花瓶の下、窓枠の隙間。
睦美の動きが止まる。
……っ、
息が詰まる……
私の体に力が入る。
「麦ちゃん、立って」
感情の見えない声が言った。
「……」
私はミニスカートを直しながら、よろよろと立ち上がった。

