「こんな時間から?」
睦美は焦りを滲ませる。
……麦がなにか言っても鵜呑みにしないよう、毎日少しずつ洗脳するつもりだったのに。
「あなたたちも大学生になったし、もう一度フルタイムで働くことにしたの」
「……」
ここへ来て母も自分の監視下から外れてしまうことに、睦美は激しく落胆した。だがそれを隠し、――そうなんだね、がんばってね、ママ、と取り繕った。
偽の母は、睦美にとって“味方でいてくれる人”だった。
祖父母が言っていた『あんな子』に警戒していたのはいつまでだったか――。
血が繋がっているはずの父はどこかよそよそしくて頼りにならず、生きるためには母を味方につけるしかなかった。必死で『良い子』を演じていたら、母はとうとう実の娘である麦と同じに――いや、それ以上に、大切にしてくれるようになった。
実の娘の麦より自分の言葉を信じた最初の日、睦美は多幸感に酔いしれた。
そこからは母の歓心を得ることを優先した。
そうやって積み上げてきた『親子関係』を今更手放すわけにはいかない。
「じゃあ、よろしくね」
母は慌ただしく準備をし、あっという間に出て行ってしまった。
「あ……、いってらっしゃい」
誰もいなくなった家が急に広く、淋しくなった。
強くなる不安感に、睦美は再び爪を噛んだ。
ひとりでいるのは苦手だった。
また捨てられそうな気がしてしまう。
周りにどれだけたくさん人を置いても安心できなかった。
睦美は手に持っていたスマホに意識を向けた。
誰かに連絡をし、出掛けようか――そんなことを考えながらふと、麦に会わせた須賀を思い出した。
「……」
睦美は、誰もいないリビングで顔を歪めて舌打ちした。
過去に、あの男だけだった。
麦と会わせたのに、――いったいどういうことかと怒ることも、説明を求めることもしてこなかったのは。
あの日、睦美はわざわざ大勢がいるところで待機しながら、スマホが鳴るのを今か、今かと待っていた。
シナリオは完璧だった。
大学にはまだ“麦のことを知らない”生徒がいる。これまでのように麦は全員から嫌われ、蔑まれなければならない。だから須賀が連絡を入れてくれば、皆の前で泣きながら“事情”を説明できたのだ。
それなのに須賀は、簡単に睦美をあきらめた。
……麦の顔を見て、絆されたの?
そう思うだけで、勝手に髪を切ってきた麦に腸が煮えくり返る思いだった。
別に須賀を切りたかったわけではない。
外見も性格も悪くはなかったし、家も裕福で、睦美を喜ばせようとプレゼントを惜しまなかった。弁護士志望で頭も良いようだった。キープしておくべき男だった。――だが、それらすべて上回る碧が現れた。だから切ったのだ。
……別にいいわ、私にはアオくんがいる
睦美は不快な記憶を消すように頭を振った。
碧さえ手に入れば、すべてが思い通りだ。
麦を壊せるし、自分のステイタスも上がる。
それに――
睦美は焦がれるような胸にそっと手を置いた。
ゲームのように始めた碧との関係だったが、なかなか恋を始めてくれない碧にいつのまにか自分の方が本気になってしまった。
育ちの良さが表情や口調に滲み出ている碧は、基本とても優しい。だがその優しさに溺れさせてはくれない。
時々見せる突き放すような視線――けれど髪や首筋に触れてくる手にためらいはなかった――うっとりすると、無言のまま見下ろされる――それと同じ数の、蜂蜜のような笑顔――そしてまた唐突になげやりになるのだ。もどかしくて、どうにかなってしまいそうだった。
碧はまだ、自分に本気になってない……
そう分かるからこそ、碧を完全に手に入れたかった。
碧のアパートに初めて行った日、自分の“失敗”で恋人になれなかった。
白けさせてしまったのか、あれ以降碧から求められることはなくなった。
一度、睦美は自分からキスをした。
キスは上手な方だ。体にだって自信はある。
けれど碧は、困ったように言ったのだ。
「俺は、追いかけられるより追いたいかな」
碧の言葉が耳の奥にずっと張り付いて消えなかった。
それからは、楽しみにしていたデートや旅行をドタキャンされても、拗ねたり怒ったりできなくなった。
感情的になれば、碧は簡単に『終わり』を口にするはずだから。
睦美は手の中のスマホをみつめた。
……アオくん、お願い、今、連絡してきて
どのくらい執念にも似た『願い』を送り続けていただろうか、
広いダイニングテーブルでひとりで夕ご飯を食べながら、お風呂に浸かりながら、何度もスマホをチェックした。
そうしてベッドに入った時、碧からメールが入った。
碧:今度の金曜日空いてる?
大切な話があるんだ。
記念日になるような店を予約したよ。
来てくれる?
睦美はベッドから飛び起きた。
心臓が、ドクドクドク、と波打った。
……いよいよ、アオくんが私に落ちた
ああ。
睦美は両手で顔を覆った。笑みがこぼれ、胸がいっぱいになった。
【第三章終わり】

