***
部屋に敷かれた布団の上で、華夜は毛布に包まることもなく、光の一滴も宿らない瞳で天井の染みを見つめていた。燈明の灯はとっくに消えている。丑三つ時を回り、深い夜の帳に包まれたこの部屋の中では、時折障子から入る隙間風が啜り泣くような声を上げていた。
(これで良かったの……)
御影の家に来てから一週間が経った。それはつまり、今日に至るまで、何度も繰り返されてきた惨劇が起こることもなく、紘一が生存し続けているということを意味している。
顔合わせでの仮病に始まり、婚礼の宴の後の宣言。翌朝の食事の席でも、その後も、華夜は徹底して紘一を拒絶し続けた。
こんなに冷たい態度を取り続けているというのに、なおも自分に声をかけようとする紘一が不思議でならなかったが、それでも最近は屋敷内で顔を合わせることも随分と減った。良い加減、愛想を尽かしたのだろう。この屋敷を追い出されるのもそう遠くないかもしれない。そうなったら、両親は何と言って華夜を罵倒するだろうか。いや、そんなことはさしたる問題ではない。それよりも、勘当された後のことを考えた方が良いだろう。こんな小娘を住み込みで働かせてくれるような場所などそうそうないかもしれない。行き着く先は物乞いか、この身を売るか。それでも良い。甘んじて、この呪われた人生を受け入れよう。
どんな未来を選んだとしても、この先自分が紘一と関わることさえなければ、彼が死ぬことはない。
それで良いのだ。誰も、傷つかない。誰も――
「っ、……ひっ、……」
ならばこの頬に流れて止まらぬ涙は、一体何なのだろうか。
せき止めていた濁流が決壊したように、華夜の喉の奥から嗚咽が漏れ出る。冷え切った肌を伝う熱い雫の感触に、今更ながらに気がついた。それを拭う気力すら湧かず、涙は耳の裏へとただ静かに流れ落ちていく。
完璧に心を殺し、冷徹な機械人形になり果てたつもりでいた。紘一を突き放す度に、自分は正しい選択をしているのだと必死に言い聞かせてきた。それが、誰も傷つくことなく彼を守れるただ一つの正解なのだと。
だが華夜は、その『誰も』と思い浮かべる人々の中に、自分の姿だけが見当たらないことにようやく気づく。薄紅の唇から残酷な拒絶を吐き出す度、氷の仮面の下で、ぐちゃぐちゃに抉れて悲鳴を上げていた自らの心の傷口に触れた瞬間、ずっと気付かぬふりをしてきた胸の痛みが、何倍にも膨れ上がって全身を突き刺した。
人を愛することが、こんなにも苦しいものなのだと、知りたくなかった。
一度目の婚礼で、琥珀色の瞳に焦がれたあの瞬間、自らの魂にそっと芽生えた小さな恋慕。それが今、これほどまでに自分を内側から引き裂き、生きたまま肉を削がれるような地獄の業火に変わるなど、どうして想像できただろう。
愛する人の幸せの中に、自分が踏み入れることが叶わぬのなら。
彼の歩む健やかな未来の景色に、自分の居場所がどこにもないというのなら。
(もう、消えてしまいたい)
華夜は糸の切れた人形のように、ふらりと布団から体を起こした。上着を羽織ることも、足袋を穿くことも忘れたまま、取り憑かれたような足取りで自室の襖へと手をかけた。
冷たい夜露を含んだ土の感触が、裸足の裏に直に伝わってくる。見上げる夜空には月もなく、御影の屋敷を囲む庭園は、まるで墨汁を流し込んだかのような闇に包まれていた。笹の葉が肌を掠め、泥濘んだ土が爪を汚していく。小石や木の枝が容赦なく足の裏を切り裂き、じわりと温かい血が滲むのが分かった。けれど、不思議と痛みは感じない。心に負った無数の傷に比べれば、肉体の痛みなど微々たる愛撫のようなものだった。
どれほど歩いただろうか。気がつくと、華夜の目の前には、暗黒の森へと続く茂みが広がっていた。一歩、また一歩と、光のない森の奥深くへと進んでいく。
("彼ら"も、こんな気持ちだったのかしら)
森の奥深くへと足を進めながら、華夜は二度目の婚礼でのことを思い出していた。紘一との二人で街へ繰り出し、芝居を見終えて歩いていた時に、紘一から問われた言葉が今になって蘇る。
『――あの二人の選択は、正しかったと思うか』
身分違いの恋の果てに、心中という終わりを選んだ悲恋の主人公たち。
あの時、自分はなんて答えたっけ。
(……ああ、そうだった)
思い出したあの時の自分の言葉に、華夜は暗闇の中でぽつりと自嘲を浮かべた。
『――私は絶対に、共に生きることを諦めないと思います』
あの時は、運命は変えられると思っていた。彼の手を握りしめ、前を向いてさえいれば、どんな残酷な因果からも逃げ切れると、本気で信じていたのだ。
けれど、現実はどうだ。
三度目の婚礼の果て、華夜の腕の中で血を吐き、光を失っていった彼の姿が、鮮明な悪夢となって脳裏を過る。そして今、抗うことのできない運命を前にして、華夜はあの二人と同じ選択を辿ろうとしていた。……自分のは心中ですらない、ただの一方的な、独りよがりの逃亡だけれど。
『――死んでしまったら、何も、残せないんです』
残せないから、何だと言うのだ。自分の存在も、この実ることのない恋心も、全部塵になって消えてしまったとしても、彼がこの世界に残ってくれれば、それで良いじゃないか。
生い茂る木々の隙間から、冷たい夜風が吹き抜けて白い寝衣を激しく揺らす。その風はまるで、この世のすべての未練を削ぎ落としていくかのように、冷ややかに澄みきった色をしていた。獣道からも外れた暗い雑木林の中を、華夜は何かに誘われるように足を進めていく。すでに御影の屋敷に張られた結界の境界はとうに通り過ぎているだろう。ここならもう、誰の手も届かない。
鬱蒼とした黒い木々を掻き分け、さらに歩みを進めていると、急に視界が開けた。吸い込まれるような広がりの向こうに、白く立ち込める霧のたった大池が、華夜の眼前にその姿を現した。
その時だった。それまで空を重く覆っていた厚い雲が、夜風に流されてゆっくりと割れていく。その隙間から顔を出した淡い月光が、天から一筋の光の帯となって降り注ぎ、霧のかかった池の周辺一帯を、静かに照らし始めたのだ。
遮るもののない月明かりの下、乳白色の霧が妖しく、そして神々しくきらめいている。この世のものと思えぬほど美しい光景に、思わず心を奪われる。
(綺麗。最期にこんな景色を見られて良かった)
ざわついていた胸の奥が、嘘のように凪いでいく。こんなにも美しい柩の中へと身を投じられるのなら、恐怖はない。
華夜は一人、静かに池の淵へと足を踏み入れる。凍てついた水が裸足の甲を浸し、寝衣の裾をじわりと染めていく。心臓が縮み上がるような冷たさのはずなのに、不思議と心地よささえ感じていた。
水が膝を叩き、腰を包み込んでいく。深夜の森の奥深くに、たった一人。もう、誰の手も届かない孤独の深淵へと足を踏み入れていく。華夜は夜の静寂に向かって、ずっと胸の奥に閉じ込めていた本当の、たった一つの想いを、祈るようにして唇から溢れさせた。
「さようなら、紘一さん。……今度こそ、幸せに生きて」
誰にも届かぬと分かっていながら、最愛の人へ向けた、最初で最後の心からの別れの挨拶。
言い終えると同時に、華夜はこれ以上の未練を断ち切るように、冷たい水の底へ身を沈めようと──強く一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「──何を、している」
冷気を鋭く切り裂くような低い男の声が、池の周囲一帯に響き渡った。
華夜の身体が、恐怖とは違う強烈な衝撃で凍りつく。
忘れるはずのない、忘れられるはずのない、地を這うような深い声音──。
ゆっくりと振り返った華夜の、光を失っていた硝子玉の瞳に、霧を割って狂おしいほどの覇気を纏い、こちらを凝視している御影紘一の姿が映し出された。
「なぜこんなところへ……死ぬ気か!?」
紘一は肩で激しく息をしながら、鬼気迫る表情で華夜の元へと駆け寄る。
ばしゃばしゃと容赦なく冷たい水を撥ね退け、池へと迷いなく飛び込んできた彼は、華夜の華奢な肩を掴み、乱暴に揺さぶった。その掌は驚くほど熱く、そして、壊れ物を扱うかのように激しく震えていた。
(嘘……。なんで、あなたがここに……)
心臓が爆発しそうなほどの動揺が華夜を襲う。すでに結界の外のはずだ。一週間、徹底して冷酷に振る舞い、関わりを断ってきたはずなのに。なぜ彼は、自分の失踪に気づき、この深い暗闇の森を抜けて、ここまで追いかけてこられたのか。
掴まれた肩から、彼の狂おしいほどの体温が、凍りついた寝衣を透かして直に伝わってくる。その熱さに、華夜の胸の奥の傷口が再び、どくどくと血を流すように疼き出していた。
今すぐ、その胸にしがみついて泣き叫びたかった。生きたかった。あなたと、ただ普通に、愛し合う夫婦になりたかった──。
けれど、そんな本能を、華夜は必死の思いで圧し折った。
強引に岸辺へと連れ戻そうとする紘一に、華夜は必死で反抗する。
「放してください。私は、ただ自由になりたかっただけです。貴方と同じ空気を吸うくらいならば、貴方のいない場所で、死にたかっただけ」
冷酷な言葉をぶつける華夜を、紘一は射抜くような瞳で見つめた。やがて、彼は絞り出すような声で、絶望を分かち合うように囁いた。
「……たとえお前に憎まれようと、構わない。だが、お前が死ぬことだけは――俺が許さない」
「っ、……!」
華夜が息を呑む間もなく、紘一の腕に強い力が込められた。二人で岸辺に上がると同時に、華夜の華奢な身体が、彼の屈強な胸の中へと引き寄せられる。
気付けば、彼女は紘一の大きな両腕の中に、隙間なく抱きすくめられていた。二度と離さないと誓うような、あるいは、腕の中の存在が幻ではないと確かめるような、悲痛なほどの抱擁だった。
(どうして、そんな風に抱きしめるの……。私を憎んで、捨ててくれなければ、あなたが死んでしまうのに……!)
どんなに冷たい言葉を浴びせても、紘一は傷つきながら、それでもなお、全力で華夜の命を繋ぎ止めようとしてくるのだ。
凍えて感覚のなくなっていた全身に、紘一の体温の熱が容赦なく流れ込んでくる。あまりの熱さに、華夜が必死で彼の胸元に顔を伏せて唇を噛み締めていた、その時だった。
ひゅ、という鋭い音が、夜の冷気を引き裂いた。華夜がその音を耳元で捉えたのとほぼ同時に、パシッ、と肉と硬質的な何かがぶつかる鈍い音が響く。
(なに……まさか、あの妖魔が――)
「――っ!」
何が起こったのか分からず、恐る恐る音の方へと目を向けた華夜は、驚愕のあまり息を呑んで声を失った。
それは池の浅瀬、二人のすぐ真横の闇から突如突き出された、どす黒い触手のようなもの。鋭い刃のような形をしたそれを、華夜を左腕で強く抱きすくめたまま、横から迫ったその凶刃を紘一の右手が真っ向から受け止めていたのだ。
紘一の掌からは、刃に切り裂かれた鮮血がボタボタと容赦なく零れ落ち、冷たい水面へと滴っていく。だが、彼は眉一つ動かさず、ただ鬱陶しそうに右手に霊力を込めると、掴んだ触手ごと水底の本体を衝撃波で粉砕した。その刹那。
ドプ──、という、不気味に重い音が水底から湧き上がる。それを合図にするかのように、大池の水面が墨汁を流し込んだようにみるみる黒く濁り、激しい渦を巻き始めた。
同時に、大気を震わせるような恐ろしい気配が周囲の雑木林から一斉に湧き上がる。
異変の原因は、紘一の血だけではなかった。獣道を押し通った際、木の枝に切り裂かれた華夜の寝衣の袖口。そこから覗く細い手首の切り傷から、一筋の鮮血が水面へと滴り落ちていたのだ。
その芳しい鉄の香りが、御影の強固な結界の外側に潜む飢えた妖魔たちを狂わせ、一斉に呼び寄せてしまった。
「ギ、チ、チ、チ……!」
「肉ダ、極上ノ肉ダ──ッ!!」
霧の向こうから、無数の怪異が次々と姿を現す。
あるものは肉塊のような巨体に何十枚もの人の顔を張り付け、あるものは蜘蛛のような足で水面を滑りながら、狂ったように顎を鳴らして。
血の香りに惹かれた凶悪な妖魔の群れが、津波のように一斉に牙を剥いて二人に襲いかかってきた。
(こんなに妖魔が潜んでいたなんて……!)
あまりの禍々しさに、華夜の身体が恐怖で硬直する。しかし彼女を抱きすくめる紘一の腕は、微動だにしなかった。
「ああ……五月蝿いな」
地獄の底から響くような、冷徹極まりない低音が紘一の唇から零れ落ちる。
直後、周囲の空気が激変した。
それまで華夜に向けていた痛々しいほどの哀しみは跡形もなく消え去り、御影の家を統べる現世最強の退魔師としての、暴力的とすら言える凄まじい霊圧が爆発した。
――ドンッ!!
不可視の衝撃波が円状に広がり、大池の霧が一瞬にして消し飛ばされる。
襲いかかってきていた妖魔の最前列が、紘一がまだ指一本動かしていないにもかかわらず、その圧倒的な霊気の圧だけで肉体を粉砕され、絶叫を上げて霧散した。
「華夜、目を閉じていろ。低級妖魔だ。すぐに終わらせる」
鼓膜を揺らす紘一の声には、恐怖などない。ただ自らの領域を汚されたことへの不快感と、腕の中に居る女を守り抜くという意思だけが滲んでいた。
紘一は華夜を右腕一本で強く抱き寄せ、その顔を自分の胸元へ隠すように庇うと、空いた左手をゆるやかに天へと掲げた。その指先が、漆黒の闇のなかで黄金色の霊光を眩いばかりに放ち始める。
「――爆ぜろ、」
短く、冷徹な言霊が紡がれた。次の瞬間、池の全域が黄金の烈光に染まった。妖魔たちの足元から、神々しいまでの熱量を帯びた霊力が一斉に膨れ上がり、立っていられぬほどの爆風が巻き起こり、夜の森が、一瞬にして昼間のような閃光に包まれる。爆発に呑まれた妖魔たちは、悲鳴を上げる暇すら許されないまま肉体ごと内側から木っ端微塵に吹き飛ばされ、次々と光の粒子となって消滅していく。ほんの数十秒の前、あれほど絶望に満ちていた霧の大池は、跡形もなく静まり返っていた。
これが“冷徹“と恐れられ、政府の軍も慄くほどの、最強の退魔師の力か。どれほど強大な妖魔であろうと、彼の前では等しく塵に過ぎないのだ。
紘一は掲げていた左手を静かに下ろすと、まだ微かに震えている華夜の肩を、先ほどよりもずっと優しく、包み込むように強く抱き直した。
「もう、大丈夫だ」
妖魔を屠った冷酷な声音から一転して、華夜にだけ向けられる、蕩けるように甘く温かな声音だった。
「どうして……どうして来たんですか!」
華夜はそう叫ぶなり、だらりと下げられている彼の右手を引ったくるようにして持ち上げた。先程の妖魔の強襲により、ぱっくりと切り裂かれた掌。そこへ、自らの白い寝衣の裾を力任せに引き裂き、強く押し当てる。心許ないボロボロの布は、じわりじわりと白から赤へと染まっていく。その鮮血の熱さに、華夜は堪えていた感情を一気に叩きつけた。
「どうして追ってきたんですか……! あんなに酷いことを言ったのに! 放っておいてくれれば、貴方は傷つかずに済んだのに! やめてください、やめて……もう、お願いだから……」
それは堰を切ったように溢れ出した、一人の女としての慟哭だった。だが、そんな華夜を静かに見つめていた紘一は、痛々しそうに微かに目を細めて呟く。
「……本当のお前は、そんな風に泣くのだな」
その言葉に、華夜の呼吸がぴたりと止まる。
「ならばなぜ、そんな顔をしてまで俺を突き放そうとした。俺を嫌っているのでは、なかったのか」
胸が引き裂かれるような激痛と共に、隠していたはずの心が、彼のどこまでも澄んだ琥珀色の瞳に見透かされていく。もう、嘘はつけなかった。
「違う……違うんです! 私は……私はただ、貴方を死なせたくないんです!」
大粒の涙がポロポロと零れ落ち、彼の傷口を覆う布に落ちて、赤を滲ませていく。
「私が側にいるから、貴方はいつも私のせいで……! だから、もう私に関わらないでください! 私のことなんて、忘れて……っ」
必死に拒絶の言葉を並べ立てる華夜の濡れた頬に、紘一は血に濡れた右手をそっと添えた。熱い血の感触が、彼女の冷え切った肌に伝わる。
「……できないな。それは、一番難しい命令だ」
彼は少しだけ困ったように、けれど狂おしいほど愛おしそうに目を細めて笑った。
「な、んで……」
「なぜだろうな。自分でも分からないのだ。俺とお前は、昨日の婚礼の儀で初めて出会った。頭では、そう分かっている」
紘一はそこで一度言葉を切り、愛おしさを確かめるように華夜の頬を親指で撫でた。
「それなのに……俺は知っているのだ。お前が小さな妖魔を掌に乗せて、愛おしそうに眺める優しい顔を。滅多に食べたことがないという甘味を口にして、幸せそうに頬を緩める顔を。行ったことがないと言っていた芝居小屋で、胸を打たれて涙を浮かべる泣き顔を……。花を貰うのは初めてだと、一輪の花を大事そうに抱きしめる笑顔も。熱を出して、離れないで欲しいと懇願する、あの弱りきった顔も」
一つ、また一つと紡がれる言葉に、華夜は目を見開いたまま震える唇を戦慄かせる。それはすべて、かつての時間の中で、二人が確かに積み重ねてきた記憶の断片だった。
「知っている気がするのではない。──俺の魂が、全部覚えているのだ。頭がおかしいと笑ってくれ。それでも俺は……お前がどれだけ俺を罵ろうと、拒もうと、俺の魂はお前を探してしまう。お前がそんな風に一人で泣いているのを知っていて、見捨てられるような男に……俺は、どうしてもなれそうにない」
されるがままに、彼の温かい胸へと縋るように抱き寄せられていた、その時だった。
紘一の強靭な肩越しに、開けた視界の先、夜の闇のさらに奥を見つめていた華夜の瞳が、恐怖に大きく見開かれた。
──そこに、いた。
先ほどの妖魔たちに、最初から紛れ込んでいたのだろうか。あるいは、少し離れた影の中で息を潜めていたのか。それとも、たった今気まぐれに、空間を割って唐突にそこへ出現したのか。
いつからそこに存在していたのかさえ判別できない「それ」は、月明かりすらも吸い込むような、どろりとした濃密な『闇』の塊として、静かに、ただ不気味にそこに佇んでいた。
全身の血が一瞬にして凍りつく。顔面から一気に生気が失われ、華夜は言葉を失ったまま、ひゅう、と喉を鳴らした。
抱きしめていた華夜の身体が、先ほどとは明らかに違う、尋常ではない恐怖で硬直したのを、紘一の鋭い感覚が即座に察知した。
「華夜……?」
彼女の視線の先を追うようにして、紘一が鋭く背後を振り返る。
その琥珀色の瞳が、霧の晴れた水面の向こうに佇む、不気味な闇の輪郭を捉えた。
先ほど蹴散らした有象無象とは、明らかに様子が違う。ただそこに在るだけで周囲の空間をじりじりと腐食させていくような、不浄の気配。御影の歴史に名を残す数々の大妖とも一線を画す、正体不明の禍々しさだった。
紘一の顔から、先ほどまでの甘い温もりが完全に消え去る。彼は華夜を背後に庇うように一歩前に出ると、その琥珀の双眸に冷徹な殺意の火を灯し、冷気を鋭く切り裂くような声で言い放った。
「――お前は、何者だ」
紘一の背に隠された華夜の胸中では、止めることのできない破滅への秒読みが始まったかのような、激しい絶望の警鐘が鳴り響いていた。
(ああ……今回も、終わってしまった――)
理解した瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。
底知れない絶望と恐怖が一気に脳を侵食し、逃れる術のない凄絶な目眩が華夜を襲う。立っていることさえできず、世界が急速に光を失っていく。
紘一の背中が、急速に遠ざかる。
――ブツリ。
肉の裂けるような音を最後に、華夜の意識はぷつりと途切れ、冷たい闇の底へと引き摺り込まれていった。
***
そこから先のことは、よく覚えていない。だが今、自分以外に誰も居ない、この真っ白な思考の海の中にいるという事実に、華夜は悟った。
四度目も、だめだったのだ。
感情を押し殺して、愛を持たない“人形”として振る舞い続けたというのに、その徹底した拒絶は何ひとつ結末を変えることができなかった。何度繰り返しても、どれほど条件を変えても、自分と彼にほんの一瞬の心の交わりが生まれた瞬間、アレは必ず現れるのだ。そしてそこからの展開は何も変わらず、最終的に彼は必ず死んでしまう。
いや──本当に、何も変わっていなかっただろうか。
この死の輪廻の中で、彼の自分に対する言動は確実に変化している。これが四度に渡って育んできた記憶の残滓による綻びなのかは分からない。だが、輪廻を繰り返すたびに、彼が自分に向けてくる感情が、より早く、より濃く、より狂おしいものへと変容しているのを華夜は肌で感じていた。
そしてそれは同時に、彼の死の運命が、より確実で強固なものへと縛り付けられ始めていることを意味している。
逃げることでは回避できない。会わないことでも回避できない。自分を消そうとしても、その前に必ず彼に引き戻され、心が触れ合ってしまう。
(……この死の円環を繰り返すのも、そろそろ限界なのかしら)
次の朝が来たら、目が覚めたその瞬間に、間髪入れずに舌を噛みちぎって死んでやろうか。紘一と顔を合わせるよりも早く、彼が私の存在を認識するよりも前に、私が完全に消えてしまえばいい。そうすれば、今度こそ彼は死なずに済むはずだ。
安寧にも似た自死への誘惑に身を委ねようとした、その時だった。
『やっぱり、籠の中の金糸雀ね』
いつから居たのだろうか。華夜の目の前には、かつて頭の中で毒づいてきたもう一人の自分が立っていた。それは、これまでの敗北の記憶をすべて引きずった、華夜自身の“臆病さの化身“だった。彼女は冷たい歪な笑みを浮かべながら、華夜の心の傷口に塩を塗り込むようにして再び囁く。
『金糸雀は、自由を求めて外界に憧れを抱くけれど、籠の外では生きられない。世界は自分が思っているよりもずっと自由で、残酷なことを知らないから。何も知らずにぬくぬくと生きてきた者は、大きな壁が立ちはだかった時、その恐怖に耐えられない。所詮、貴方は金糸雀よ。過酷な運命に耐えきれず、絶望して、自分で自分の喉を掻き切ろうとする……羽の毟られた、哀れな鳥。可哀想に。未練を残したまま死んで、来世に期待でもするつもり?』
(っ……、……!)
胸を鋭利な刃で抉られたような痛みが走る。自分は運命に立ち向かうなどと言いながら、結局は壁の高さに絶望し、次の朝には早々に退場することを考えていた。
そんな自分の情けなさを正面から突きつけられ、華夜は返す言葉もなく閉口する。
『ねえ。本当にこのまま、諦めるの?』
真っ白な世界に、凛とした声が響き渡る。華夜はゆっくりと顔を上げ、目の前に居る声の主の方へ目を向けた。
『彼と生きることを諦めないんじゃなかったの。その程度の覚悟であんなこと言ったわけ?』
「……だって、仕方ないじゃない」
華夜は冷めきった心で、もう一人の自分に反論する。
「何をしたって変えられない。今回だって、私の心を擦り潰してまで拒絶したのに、結局ダメだった。これ以上、私に何をしろと言うのよ」
『嘘よ』
彼女は、諦観に染まる華夜を真っ向から睨みつけ、力強く言い放った。
『まだ一つだけ、試していないことがあるの。──本当は、気づいているでしょ』
華夜はハッと息を呑んだ。それはずっと、怖さのあまり無意識に目を背け、思考の奥底に封印してきた、たった一つの選択肢。
『ねえ。貴女は、彼のことを信じてあげないの?』
その問いかけに、華夜の胸の奥で、カチリと凍りついていた歯車が音を立てて回り出した。
――信じる。
そうだ。自分はいつだって、彼に傷ついてほしくない一心で、彼を死の因果から遠ざけることばかり考えていた。彼の強さを、彼の優しさを、誰よりも知っていたはずなのに。自分一人で世界の理と戦うことばかりに躍起になって、肝心の“彼自身“を、本当の意味で信じて頼ることをしていなかった。
瞼の裏に、これまで紘一が自分に掛けてくれた言葉たちが、眩い光の帯となって次々と溢れ出してくる。
『待っているから』
『一人で、何かと戦っているような顔をしないでくれ』
彼はいつだって、私の張り詰めた心に気づき、信じて待ってくれていたのだ。私がどれだけ冷酷に突き放そうとも、魂に刻みつけられた記憶の断片を頼りに、私を求め、守ろうとしてくれた。
最強の退魔師であり、誰よりも深く私を愛してくれた男。
そんな彼を巻き込むまいと一人で抱え込むこと自体が、彼の愛に対する不誠実だったのではないか。
(……一緒に、戦う。紘一さんと共に――)
胸の奥から、今までにない確固たる熱い衝動が湧き上がってくる。
どうせ、一度は捨てようとした命だ。突拍子もない未来の話をして、今更狂人だと笑われたって構わない。最初は信じてもらえなくたっていい。それでも、彼の手をもう一度握りしめて、あの地獄のような暗闇の因果を、二人で叩き潰しに行くのだ。
華夜はゆっくりと立ち上がり、五度目の朝の待つ闇の深淵へと歩き出した。その瞳はもう、涙で濡れていない。
『そうよ。それでこそ、御影の当主に相応しい花嫁――いきなさい。“御影“華夜』
もう一人の自分が、満足そうにふっと微笑み、白い光の中へと溶けていった。
刹那、世界を埋め尽くしていた白光が弾け、凄まじい轟音と共に現実の境界が融解していく。
意識が急速に引き戻される感覚の中で、暗闇の向こうから──あの始まりの日の、青く透明な旻天を渡る雁の声が、華夜の魂を呼び戻すように力強く響き始めていた。
部屋に敷かれた布団の上で、華夜は毛布に包まることもなく、光の一滴も宿らない瞳で天井の染みを見つめていた。燈明の灯はとっくに消えている。丑三つ時を回り、深い夜の帳に包まれたこの部屋の中では、時折障子から入る隙間風が啜り泣くような声を上げていた。
(これで良かったの……)
御影の家に来てから一週間が経った。それはつまり、今日に至るまで、何度も繰り返されてきた惨劇が起こることもなく、紘一が生存し続けているということを意味している。
顔合わせでの仮病に始まり、婚礼の宴の後の宣言。翌朝の食事の席でも、その後も、華夜は徹底して紘一を拒絶し続けた。
こんなに冷たい態度を取り続けているというのに、なおも自分に声をかけようとする紘一が不思議でならなかったが、それでも最近は屋敷内で顔を合わせることも随分と減った。良い加減、愛想を尽かしたのだろう。この屋敷を追い出されるのもそう遠くないかもしれない。そうなったら、両親は何と言って華夜を罵倒するだろうか。いや、そんなことはさしたる問題ではない。それよりも、勘当された後のことを考えた方が良いだろう。こんな小娘を住み込みで働かせてくれるような場所などそうそうないかもしれない。行き着く先は物乞いか、この身を売るか。それでも良い。甘んじて、この呪われた人生を受け入れよう。
どんな未来を選んだとしても、この先自分が紘一と関わることさえなければ、彼が死ぬことはない。
それで良いのだ。誰も、傷つかない。誰も――
「っ、……ひっ、……」
ならばこの頬に流れて止まらぬ涙は、一体何なのだろうか。
せき止めていた濁流が決壊したように、華夜の喉の奥から嗚咽が漏れ出る。冷え切った肌を伝う熱い雫の感触に、今更ながらに気がついた。それを拭う気力すら湧かず、涙は耳の裏へとただ静かに流れ落ちていく。
完璧に心を殺し、冷徹な機械人形になり果てたつもりでいた。紘一を突き放す度に、自分は正しい選択をしているのだと必死に言い聞かせてきた。それが、誰も傷つくことなく彼を守れるただ一つの正解なのだと。
だが華夜は、その『誰も』と思い浮かべる人々の中に、自分の姿だけが見当たらないことにようやく気づく。薄紅の唇から残酷な拒絶を吐き出す度、氷の仮面の下で、ぐちゃぐちゃに抉れて悲鳴を上げていた自らの心の傷口に触れた瞬間、ずっと気付かぬふりをしてきた胸の痛みが、何倍にも膨れ上がって全身を突き刺した。
人を愛することが、こんなにも苦しいものなのだと、知りたくなかった。
一度目の婚礼で、琥珀色の瞳に焦がれたあの瞬間、自らの魂にそっと芽生えた小さな恋慕。それが今、これほどまでに自分を内側から引き裂き、生きたまま肉を削がれるような地獄の業火に変わるなど、どうして想像できただろう。
愛する人の幸せの中に、自分が踏み入れることが叶わぬのなら。
彼の歩む健やかな未来の景色に、自分の居場所がどこにもないというのなら。
(もう、消えてしまいたい)
華夜は糸の切れた人形のように、ふらりと布団から体を起こした。上着を羽織ることも、足袋を穿くことも忘れたまま、取り憑かれたような足取りで自室の襖へと手をかけた。
冷たい夜露を含んだ土の感触が、裸足の裏に直に伝わってくる。見上げる夜空には月もなく、御影の屋敷を囲む庭園は、まるで墨汁を流し込んだかのような闇に包まれていた。笹の葉が肌を掠め、泥濘んだ土が爪を汚していく。小石や木の枝が容赦なく足の裏を切り裂き、じわりと温かい血が滲むのが分かった。けれど、不思議と痛みは感じない。心に負った無数の傷に比べれば、肉体の痛みなど微々たる愛撫のようなものだった。
どれほど歩いただろうか。気がつくと、華夜の目の前には、暗黒の森へと続く茂みが広がっていた。一歩、また一歩と、光のない森の奥深くへと進んでいく。
("彼ら"も、こんな気持ちだったのかしら)
森の奥深くへと足を進めながら、華夜は二度目の婚礼でのことを思い出していた。紘一との二人で街へ繰り出し、芝居を見終えて歩いていた時に、紘一から問われた言葉が今になって蘇る。
『――あの二人の選択は、正しかったと思うか』
身分違いの恋の果てに、心中という終わりを選んだ悲恋の主人公たち。
あの時、自分はなんて答えたっけ。
(……ああ、そうだった)
思い出したあの時の自分の言葉に、華夜は暗闇の中でぽつりと自嘲を浮かべた。
『――私は絶対に、共に生きることを諦めないと思います』
あの時は、運命は変えられると思っていた。彼の手を握りしめ、前を向いてさえいれば、どんな残酷な因果からも逃げ切れると、本気で信じていたのだ。
けれど、現実はどうだ。
三度目の婚礼の果て、華夜の腕の中で血を吐き、光を失っていった彼の姿が、鮮明な悪夢となって脳裏を過る。そして今、抗うことのできない運命を前にして、華夜はあの二人と同じ選択を辿ろうとしていた。……自分のは心中ですらない、ただの一方的な、独りよがりの逃亡だけれど。
『――死んでしまったら、何も、残せないんです』
残せないから、何だと言うのだ。自分の存在も、この実ることのない恋心も、全部塵になって消えてしまったとしても、彼がこの世界に残ってくれれば、それで良いじゃないか。
生い茂る木々の隙間から、冷たい夜風が吹き抜けて白い寝衣を激しく揺らす。その風はまるで、この世のすべての未練を削ぎ落としていくかのように、冷ややかに澄みきった色をしていた。獣道からも外れた暗い雑木林の中を、華夜は何かに誘われるように足を進めていく。すでに御影の屋敷に張られた結界の境界はとうに通り過ぎているだろう。ここならもう、誰の手も届かない。
鬱蒼とした黒い木々を掻き分け、さらに歩みを進めていると、急に視界が開けた。吸い込まれるような広がりの向こうに、白く立ち込める霧のたった大池が、華夜の眼前にその姿を現した。
その時だった。それまで空を重く覆っていた厚い雲が、夜風に流されてゆっくりと割れていく。その隙間から顔を出した淡い月光が、天から一筋の光の帯となって降り注ぎ、霧のかかった池の周辺一帯を、静かに照らし始めたのだ。
遮るもののない月明かりの下、乳白色の霧が妖しく、そして神々しくきらめいている。この世のものと思えぬほど美しい光景に、思わず心を奪われる。
(綺麗。最期にこんな景色を見られて良かった)
ざわついていた胸の奥が、嘘のように凪いでいく。こんなにも美しい柩の中へと身を投じられるのなら、恐怖はない。
華夜は一人、静かに池の淵へと足を踏み入れる。凍てついた水が裸足の甲を浸し、寝衣の裾をじわりと染めていく。心臓が縮み上がるような冷たさのはずなのに、不思議と心地よささえ感じていた。
水が膝を叩き、腰を包み込んでいく。深夜の森の奥深くに、たった一人。もう、誰の手も届かない孤独の深淵へと足を踏み入れていく。華夜は夜の静寂に向かって、ずっと胸の奥に閉じ込めていた本当の、たった一つの想いを、祈るようにして唇から溢れさせた。
「さようなら、紘一さん。……今度こそ、幸せに生きて」
誰にも届かぬと分かっていながら、最愛の人へ向けた、最初で最後の心からの別れの挨拶。
言い終えると同時に、華夜はこれ以上の未練を断ち切るように、冷たい水の底へ身を沈めようと──強く一歩を踏み出した、その瞬間だった。
「──何を、している」
冷気を鋭く切り裂くような低い男の声が、池の周囲一帯に響き渡った。
華夜の身体が、恐怖とは違う強烈な衝撃で凍りつく。
忘れるはずのない、忘れられるはずのない、地を這うような深い声音──。
ゆっくりと振り返った華夜の、光を失っていた硝子玉の瞳に、霧を割って狂おしいほどの覇気を纏い、こちらを凝視している御影紘一の姿が映し出された。
「なぜこんなところへ……死ぬ気か!?」
紘一は肩で激しく息をしながら、鬼気迫る表情で華夜の元へと駆け寄る。
ばしゃばしゃと容赦なく冷たい水を撥ね退け、池へと迷いなく飛び込んできた彼は、華夜の華奢な肩を掴み、乱暴に揺さぶった。その掌は驚くほど熱く、そして、壊れ物を扱うかのように激しく震えていた。
(嘘……。なんで、あなたがここに……)
心臓が爆発しそうなほどの動揺が華夜を襲う。すでに結界の外のはずだ。一週間、徹底して冷酷に振る舞い、関わりを断ってきたはずなのに。なぜ彼は、自分の失踪に気づき、この深い暗闇の森を抜けて、ここまで追いかけてこられたのか。
掴まれた肩から、彼の狂おしいほどの体温が、凍りついた寝衣を透かして直に伝わってくる。その熱さに、華夜の胸の奥の傷口が再び、どくどくと血を流すように疼き出していた。
今すぐ、その胸にしがみついて泣き叫びたかった。生きたかった。あなたと、ただ普通に、愛し合う夫婦になりたかった──。
けれど、そんな本能を、華夜は必死の思いで圧し折った。
強引に岸辺へと連れ戻そうとする紘一に、華夜は必死で反抗する。
「放してください。私は、ただ自由になりたかっただけです。貴方と同じ空気を吸うくらいならば、貴方のいない場所で、死にたかっただけ」
冷酷な言葉をぶつける華夜を、紘一は射抜くような瞳で見つめた。やがて、彼は絞り出すような声で、絶望を分かち合うように囁いた。
「……たとえお前に憎まれようと、構わない。だが、お前が死ぬことだけは――俺が許さない」
「っ、……!」
華夜が息を呑む間もなく、紘一の腕に強い力が込められた。二人で岸辺に上がると同時に、華夜の華奢な身体が、彼の屈強な胸の中へと引き寄せられる。
気付けば、彼女は紘一の大きな両腕の中に、隙間なく抱きすくめられていた。二度と離さないと誓うような、あるいは、腕の中の存在が幻ではないと確かめるような、悲痛なほどの抱擁だった。
(どうして、そんな風に抱きしめるの……。私を憎んで、捨ててくれなければ、あなたが死んでしまうのに……!)
どんなに冷たい言葉を浴びせても、紘一は傷つきながら、それでもなお、全力で華夜の命を繋ぎ止めようとしてくるのだ。
凍えて感覚のなくなっていた全身に、紘一の体温の熱が容赦なく流れ込んでくる。あまりの熱さに、華夜が必死で彼の胸元に顔を伏せて唇を噛み締めていた、その時だった。
ひゅ、という鋭い音が、夜の冷気を引き裂いた。華夜がその音を耳元で捉えたのとほぼ同時に、パシッ、と肉と硬質的な何かがぶつかる鈍い音が響く。
(なに……まさか、あの妖魔が――)
「――っ!」
何が起こったのか分からず、恐る恐る音の方へと目を向けた華夜は、驚愕のあまり息を呑んで声を失った。
それは池の浅瀬、二人のすぐ真横の闇から突如突き出された、どす黒い触手のようなもの。鋭い刃のような形をしたそれを、華夜を左腕で強く抱きすくめたまま、横から迫ったその凶刃を紘一の右手が真っ向から受け止めていたのだ。
紘一の掌からは、刃に切り裂かれた鮮血がボタボタと容赦なく零れ落ち、冷たい水面へと滴っていく。だが、彼は眉一つ動かさず、ただ鬱陶しそうに右手に霊力を込めると、掴んだ触手ごと水底の本体を衝撃波で粉砕した。その刹那。
ドプ──、という、不気味に重い音が水底から湧き上がる。それを合図にするかのように、大池の水面が墨汁を流し込んだようにみるみる黒く濁り、激しい渦を巻き始めた。
同時に、大気を震わせるような恐ろしい気配が周囲の雑木林から一斉に湧き上がる。
異変の原因は、紘一の血だけではなかった。獣道を押し通った際、木の枝に切り裂かれた華夜の寝衣の袖口。そこから覗く細い手首の切り傷から、一筋の鮮血が水面へと滴り落ちていたのだ。
その芳しい鉄の香りが、御影の強固な結界の外側に潜む飢えた妖魔たちを狂わせ、一斉に呼び寄せてしまった。
「ギ、チ、チ、チ……!」
「肉ダ、極上ノ肉ダ──ッ!!」
霧の向こうから、無数の怪異が次々と姿を現す。
あるものは肉塊のような巨体に何十枚もの人の顔を張り付け、あるものは蜘蛛のような足で水面を滑りながら、狂ったように顎を鳴らして。
血の香りに惹かれた凶悪な妖魔の群れが、津波のように一斉に牙を剥いて二人に襲いかかってきた。
(こんなに妖魔が潜んでいたなんて……!)
あまりの禍々しさに、華夜の身体が恐怖で硬直する。しかし彼女を抱きすくめる紘一の腕は、微動だにしなかった。
「ああ……五月蝿いな」
地獄の底から響くような、冷徹極まりない低音が紘一の唇から零れ落ちる。
直後、周囲の空気が激変した。
それまで華夜に向けていた痛々しいほどの哀しみは跡形もなく消え去り、御影の家を統べる現世最強の退魔師としての、暴力的とすら言える凄まじい霊圧が爆発した。
――ドンッ!!
不可視の衝撃波が円状に広がり、大池の霧が一瞬にして消し飛ばされる。
襲いかかってきていた妖魔の最前列が、紘一がまだ指一本動かしていないにもかかわらず、その圧倒的な霊気の圧だけで肉体を粉砕され、絶叫を上げて霧散した。
「華夜、目を閉じていろ。低級妖魔だ。すぐに終わらせる」
鼓膜を揺らす紘一の声には、恐怖などない。ただ自らの領域を汚されたことへの不快感と、腕の中に居る女を守り抜くという意思だけが滲んでいた。
紘一は華夜を右腕一本で強く抱き寄せ、その顔を自分の胸元へ隠すように庇うと、空いた左手をゆるやかに天へと掲げた。その指先が、漆黒の闇のなかで黄金色の霊光を眩いばかりに放ち始める。
「――爆ぜろ、」
短く、冷徹な言霊が紡がれた。次の瞬間、池の全域が黄金の烈光に染まった。妖魔たちの足元から、神々しいまでの熱量を帯びた霊力が一斉に膨れ上がり、立っていられぬほどの爆風が巻き起こり、夜の森が、一瞬にして昼間のような閃光に包まれる。爆発に呑まれた妖魔たちは、悲鳴を上げる暇すら許されないまま肉体ごと内側から木っ端微塵に吹き飛ばされ、次々と光の粒子となって消滅していく。ほんの数十秒の前、あれほど絶望に満ちていた霧の大池は、跡形もなく静まり返っていた。
これが“冷徹“と恐れられ、政府の軍も慄くほどの、最強の退魔師の力か。どれほど強大な妖魔であろうと、彼の前では等しく塵に過ぎないのだ。
紘一は掲げていた左手を静かに下ろすと、まだ微かに震えている華夜の肩を、先ほどよりもずっと優しく、包み込むように強く抱き直した。
「もう、大丈夫だ」
妖魔を屠った冷酷な声音から一転して、華夜にだけ向けられる、蕩けるように甘く温かな声音だった。
「どうして……どうして来たんですか!」
華夜はそう叫ぶなり、だらりと下げられている彼の右手を引ったくるようにして持ち上げた。先程の妖魔の強襲により、ぱっくりと切り裂かれた掌。そこへ、自らの白い寝衣の裾を力任せに引き裂き、強く押し当てる。心許ないボロボロの布は、じわりじわりと白から赤へと染まっていく。その鮮血の熱さに、華夜は堪えていた感情を一気に叩きつけた。
「どうして追ってきたんですか……! あんなに酷いことを言ったのに! 放っておいてくれれば、貴方は傷つかずに済んだのに! やめてください、やめて……もう、お願いだから……」
それは堰を切ったように溢れ出した、一人の女としての慟哭だった。だが、そんな華夜を静かに見つめていた紘一は、痛々しそうに微かに目を細めて呟く。
「……本当のお前は、そんな風に泣くのだな」
その言葉に、華夜の呼吸がぴたりと止まる。
「ならばなぜ、そんな顔をしてまで俺を突き放そうとした。俺を嫌っているのでは、なかったのか」
胸が引き裂かれるような激痛と共に、隠していたはずの心が、彼のどこまでも澄んだ琥珀色の瞳に見透かされていく。もう、嘘はつけなかった。
「違う……違うんです! 私は……私はただ、貴方を死なせたくないんです!」
大粒の涙がポロポロと零れ落ち、彼の傷口を覆う布に落ちて、赤を滲ませていく。
「私が側にいるから、貴方はいつも私のせいで……! だから、もう私に関わらないでください! 私のことなんて、忘れて……っ」
必死に拒絶の言葉を並べ立てる華夜の濡れた頬に、紘一は血に濡れた右手をそっと添えた。熱い血の感触が、彼女の冷え切った肌に伝わる。
「……できないな。それは、一番難しい命令だ」
彼は少しだけ困ったように、けれど狂おしいほど愛おしそうに目を細めて笑った。
「な、んで……」
「なぜだろうな。自分でも分からないのだ。俺とお前は、昨日の婚礼の儀で初めて出会った。頭では、そう分かっている」
紘一はそこで一度言葉を切り、愛おしさを確かめるように華夜の頬を親指で撫でた。
「それなのに……俺は知っているのだ。お前が小さな妖魔を掌に乗せて、愛おしそうに眺める優しい顔を。滅多に食べたことがないという甘味を口にして、幸せそうに頬を緩める顔を。行ったことがないと言っていた芝居小屋で、胸を打たれて涙を浮かべる泣き顔を……。花を貰うのは初めてだと、一輪の花を大事そうに抱きしめる笑顔も。熱を出して、離れないで欲しいと懇願する、あの弱りきった顔も」
一つ、また一つと紡がれる言葉に、華夜は目を見開いたまま震える唇を戦慄かせる。それはすべて、かつての時間の中で、二人が確かに積み重ねてきた記憶の断片だった。
「知っている気がするのではない。──俺の魂が、全部覚えているのだ。頭がおかしいと笑ってくれ。それでも俺は……お前がどれだけ俺を罵ろうと、拒もうと、俺の魂はお前を探してしまう。お前がそんな風に一人で泣いているのを知っていて、見捨てられるような男に……俺は、どうしてもなれそうにない」
されるがままに、彼の温かい胸へと縋るように抱き寄せられていた、その時だった。
紘一の強靭な肩越しに、開けた視界の先、夜の闇のさらに奥を見つめていた華夜の瞳が、恐怖に大きく見開かれた。
──そこに、いた。
先ほどの妖魔たちに、最初から紛れ込んでいたのだろうか。あるいは、少し離れた影の中で息を潜めていたのか。それとも、たった今気まぐれに、空間を割って唐突にそこへ出現したのか。
いつからそこに存在していたのかさえ判別できない「それ」は、月明かりすらも吸い込むような、どろりとした濃密な『闇』の塊として、静かに、ただ不気味にそこに佇んでいた。
全身の血が一瞬にして凍りつく。顔面から一気に生気が失われ、華夜は言葉を失ったまま、ひゅう、と喉を鳴らした。
抱きしめていた華夜の身体が、先ほどとは明らかに違う、尋常ではない恐怖で硬直したのを、紘一の鋭い感覚が即座に察知した。
「華夜……?」
彼女の視線の先を追うようにして、紘一が鋭く背後を振り返る。
その琥珀色の瞳が、霧の晴れた水面の向こうに佇む、不気味な闇の輪郭を捉えた。
先ほど蹴散らした有象無象とは、明らかに様子が違う。ただそこに在るだけで周囲の空間をじりじりと腐食させていくような、不浄の気配。御影の歴史に名を残す数々の大妖とも一線を画す、正体不明の禍々しさだった。
紘一の顔から、先ほどまでの甘い温もりが完全に消え去る。彼は華夜を背後に庇うように一歩前に出ると、その琥珀の双眸に冷徹な殺意の火を灯し、冷気を鋭く切り裂くような声で言い放った。
「――お前は、何者だ」
紘一の背に隠された華夜の胸中では、止めることのできない破滅への秒読みが始まったかのような、激しい絶望の警鐘が鳴り響いていた。
(ああ……今回も、終わってしまった――)
理解した瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。
底知れない絶望と恐怖が一気に脳を侵食し、逃れる術のない凄絶な目眩が華夜を襲う。立っていることさえできず、世界が急速に光を失っていく。
紘一の背中が、急速に遠ざかる。
――ブツリ。
肉の裂けるような音を最後に、華夜の意識はぷつりと途切れ、冷たい闇の底へと引き摺り込まれていった。
***
そこから先のことは、よく覚えていない。だが今、自分以外に誰も居ない、この真っ白な思考の海の中にいるという事実に、華夜は悟った。
四度目も、だめだったのだ。
感情を押し殺して、愛を持たない“人形”として振る舞い続けたというのに、その徹底した拒絶は何ひとつ結末を変えることができなかった。何度繰り返しても、どれほど条件を変えても、自分と彼にほんの一瞬の心の交わりが生まれた瞬間、アレは必ず現れるのだ。そしてそこからの展開は何も変わらず、最終的に彼は必ず死んでしまう。
いや──本当に、何も変わっていなかっただろうか。
この死の輪廻の中で、彼の自分に対する言動は確実に変化している。これが四度に渡って育んできた記憶の残滓による綻びなのかは分からない。だが、輪廻を繰り返すたびに、彼が自分に向けてくる感情が、より早く、より濃く、より狂おしいものへと変容しているのを華夜は肌で感じていた。
そしてそれは同時に、彼の死の運命が、より確実で強固なものへと縛り付けられ始めていることを意味している。
逃げることでは回避できない。会わないことでも回避できない。自分を消そうとしても、その前に必ず彼に引き戻され、心が触れ合ってしまう。
(……この死の円環を繰り返すのも、そろそろ限界なのかしら)
次の朝が来たら、目が覚めたその瞬間に、間髪入れずに舌を噛みちぎって死んでやろうか。紘一と顔を合わせるよりも早く、彼が私の存在を認識するよりも前に、私が完全に消えてしまえばいい。そうすれば、今度こそ彼は死なずに済むはずだ。
安寧にも似た自死への誘惑に身を委ねようとした、その時だった。
『やっぱり、籠の中の金糸雀ね』
いつから居たのだろうか。華夜の目の前には、かつて頭の中で毒づいてきたもう一人の自分が立っていた。それは、これまでの敗北の記憶をすべて引きずった、華夜自身の“臆病さの化身“だった。彼女は冷たい歪な笑みを浮かべながら、華夜の心の傷口に塩を塗り込むようにして再び囁く。
『金糸雀は、自由を求めて外界に憧れを抱くけれど、籠の外では生きられない。世界は自分が思っているよりもずっと自由で、残酷なことを知らないから。何も知らずにぬくぬくと生きてきた者は、大きな壁が立ちはだかった時、その恐怖に耐えられない。所詮、貴方は金糸雀よ。過酷な運命に耐えきれず、絶望して、自分で自分の喉を掻き切ろうとする……羽の毟られた、哀れな鳥。可哀想に。未練を残したまま死んで、来世に期待でもするつもり?』
(っ……、……!)
胸を鋭利な刃で抉られたような痛みが走る。自分は運命に立ち向かうなどと言いながら、結局は壁の高さに絶望し、次の朝には早々に退場することを考えていた。
そんな自分の情けなさを正面から突きつけられ、華夜は返す言葉もなく閉口する。
『ねえ。本当にこのまま、諦めるの?』
真っ白な世界に、凛とした声が響き渡る。華夜はゆっくりと顔を上げ、目の前に居る声の主の方へ目を向けた。
『彼と生きることを諦めないんじゃなかったの。その程度の覚悟であんなこと言ったわけ?』
「……だって、仕方ないじゃない」
華夜は冷めきった心で、もう一人の自分に反論する。
「何をしたって変えられない。今回だって、私の心を擦り潰してまで拒絶したのに、結局ダメだった。これ以上、私に何をしろと言うのよ」
『嘘よ』
彼女は、諦観に染まる華夜を真っ向から睨みつけ、力強く言い放った。
『まだ一つだけ、試していないことがあるの。──本当は、気づいているでしょ』
華夜はハッと息を呑んだ。それはずっと、怖さのあまり無意識に目を背け、思考の奥底に封印してきた、たった一つの選択肢。
『ねえ。貴女は、彼のことを信じてあげないの?』
その問いかけに、華夜の胸の奥で、カチリと凍りついていた歯車が音を立てて回り出した。
――信じる。
そうだ。自分はいつだって、彼に傷ついてほしくない一心で、彼を死の因果から遠ざけることばかり考えていた。彼の強さを、彼の優しさを、誰よりも知っていたはずなのに。自分一人で世界の理と戦うことばかりに躍起になって、肝心の“彼自身“を、本当の意味で信じて頼ることをしていなかった。
瞼の裏に、これまで紘一が自分に掛けてくれた言葉たちが、眩い光の帯となって次々と溢れ出してくる。
『待っているから』
『一人で、何かと戦っているような顔をしないでくれ』
彼はいつだって、私の張り詰めた心に気づき、信じて待ってくれていたのだ。私がどれだけ冷酷に突き放そうとも、魂に刻みつけられた記憶の断片を頼りに、私を求め、守ろうとしてくれた。
最強の退魔師であり、誰よりも深く私を愛してくれた男。
そんな彼を巻き込むまいと一人で抱え込むこと自体が、彼の愛に対する不誠実だったのではないか。
(……一緒に、戦う。紘一さんと共に――)
胸の奥から、今までにない確固たる熱い衝動が湧き上がってくる。
どうせ、一度は捨てようとした命だ。突拍子もない未来の話をして、今更狂人だと笑われたって構わない。最初は信じてもらえなくたっていい。それでも、彼の手をもう一度握りしめて、あの地獄のような暗闇の因果を、二人で叩き潰しに行くのだ。
華夜はゆっくりと立ち上がり、五度目の朝の待つ闇の深淵へと歩き出した。その瞳はもう、涙で濡れていない。
『そうよ。それでこそ、御影の当主に相応しい花嫁――いきなさい。“御影“華夜』
もう一人の自分が、満足そうにふっと微笑み、白い光の中へと溶けていった。
刹那、世界を埋め尽くしていた白光が弾け、凄まじい轟音と共に現実の境界が融解していく。
意識が急速に引き戻される感覚の中で、暗闇の向こうから──あの始まりの日の、青く透明な旻天を渡る雁の声が、華夜の魂を呼び戻すように力強く響き始めていた。
