円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

 頬を伝う冷たい感覚と共に、華夜の視界が徐々に色を取り戻していく。四度目の婚礼の朝が幕を開けていた。
「華夜? どうしたのです。なぜ泣いて──」
 白無垢の支度を整える部屋の中で、驚いたように話しかけてくる母の声が聞こえる。けれど華夜はその言葉に耳を傾けることなく、ただ、三度の死の果てに辿り着いた一つの残酷な真実に、一人呆然と涙を流していた。
(……やっと、分かった)
 これは、罰だ。誰もが期待する五条の家の、完璧な、意思を持たぬ人形であるはずの自分が、ほんの一瞬でも、ありのままの素顔で愛されることを望んでしまったから。
 これまで息苦しいとさえ感じていた両親の教えは、何もかもが正しかったのだと今更ながらに気づく。所詮、自分は周囲の期待する姿を愛でられるだけの、ただの着せ替え人形に過ぎなかったのだ。
 人形には、自らの欲を願う資格など最初からありはしない。現に、その身の程知らずな欲を引き金にして、自分は紘一を何度も、何度も、残虐に殺してしまった。だからこれは──人形が『愛されたい』などという身勝手な願いを持ってしまったことへの、正当な天罰なのだ。
 そもそも、愛だの恋だのと、目に見えもしない不確かなものに縋って、一体何になると言うのか。
 勝手に胸を高鳴らせて熱に浮かされたかと思えば、勝手に裏切られたような気分になって悲しみに暮れる。相手の言動一つを拾い集めては、いちいち心に荒波を起こして一喜一憂するなど、人形にとっては最も必要のない、愚かで無駄な時間じゃないか。
 もし、自分が一切の愛を持たずに紘一さんに接することで、彼に愛想を尽かされてこの屋敷を追い出されたとしたら──?
(それこそ、好都合じゃない)
 そうなれば紘一は自分に愛情を向けることもなく、あの悍ましい死の運命に巻き込まれることもない。
 実の両親から勘当されたとて、この広い世界のどこかで生きていく術など、いくらでも見つけられる。
 ……自分もまた、紘一の存在にこれ以上心を掻き乱され、苦しめられなくて済む。
 なぜこんな簡単なことに、もっと早く気づかなかったのだろう。
(私が彼を愛する限り、私が彼を殺してしまう。それならもう、全部――)
 捨ててしまおう。
 三度に渡る血塗られた輪廻の中で、必死に積み上げてきた彼との思い出も、彼から受け取ったあの不器用で温かな愛情も。自分が彼を恋い慕い、焦がれてしまったこの心も、全て、綺麗に擦り潰して捨て去ってしまおう。人形は人形らしく、愛を必要としない生涯を全うする。それこそが、愛しい彼を死の輪廻から永遠に救い出す、たった一つの道だった。
 華夜はゆっくりと顔を上げ、鏡の中の自分を真っ直ぐに見据えた。そこに映る白塗りの顔には、これまでの迷いも期待も、一滴たりとも残っていない。ただの硝子玉のような、冷めた両眸がこちらを無機質に凝視しているだけだ。
(私が泣いてばかりいるから、紘一さんが手を差し伸べてしまうの。彼が私を慈しみ、その温かな掌で触れたくなるような隙を、一分一秒、爪の先ほども見せてはいけない)
 その決意を胸に抱くと共に、華夜はこれまでの紘一との思い出の断片を、心の最深部へと水葬した。
「華夜。本当に、大丈夫ですか?」
 華夜は素早く手拭いで涙を拭き取ると、なおも不安げに声をかけ続けている母の方へと振り返り、ふわりと春の陽だまりのような微笑みを浮かべてみせた。
 その眼差しは極限まで磨き上げられた硝子のように澄み渡り、そこには一切の反抗も、絶望さえも映し出さない。ただ、すべてを呑み込んだ純白の闇だけを深く湛えている。
「申し訳ございません、お母様。今日でこの家を離れてしまうのだと思うと、少しだけ気持ちが昂ってしまいました。ですが五条家の娘として、そして御影様の花嫁として、精一杯幸せになってまいります」
 母が長年、耳に胼胝ができるほど説いてきた『男に無条件に守られることこそが女の幸せ』という教えを、華夜はあえて完璧になぞって見せた。
 母は、自分の期待した通りの言葉を口にし、美しく微笑む娘の姿に、至極満足げに目を細めた。
「ええ、ええ。それでこそわたくしの娘です。御影の当主に深く愛され、その腕で守られる存在になりなさい。それが五条の繁栄に繋がるのですから」
「はい。それこそが、私の幸福ですから」
 口先から、つらつらと耳障りの良い言葉が並べられていく。だがそう答える唇の裏側で、華夜はその言葉とは真逆の決意を飲み込んでいた。
 男に深く愛され、守られること──それこそが、紘一を無残な死へと追いやる絶対の引き金だ。ならば自分は、愛なき人形としてこの生涯を全うし、彼の愛を永遠に拒絶し続ける。
 華夜は再び鏡に向き直ると、静かに紅を引いていく。
 鏡の中の『五条家の娘』は、自らの心を殺した血の赤を唇に纏い、生気を感じないほど整った口角を、美しく釣り上げていた。

 ***
 
 祝言の儀を控えた御影家の奥座敷には、一人の男の姿があった。庭園の蹲踞から響く規則正しい水の音を聴きながら、上座に座る御影紘一は、静かに五条家からの花嫁を待っていた。
 五条華夜――これから初めて顔を合わせる、自分の妻となる女。
 しかしその名前を頭の中で反芻する度、紘一の胸は正体不明の切なさに苛まれていた。この所、厄介な妖魔が立て続けに現れていたせいだろうか。少し疲れているのかもしれない。そうでなければ、姿も名も知らぬはずの花嫁に思いを馳せて、なぜこれほどの焦燥と狂おしいほどの既視感を覚えているのか、彼自身にも説明がつかなかった。
 そんな奇妙な感覚に軽い目眩と動悸を覚え、眉間に手を当てて心を落ち着かせていると、二つの足音が閉じられた廊下の奥から近づいてくるのが聞こえてきた。やがてその音がこの部屋の襖の前で止まると、一拍置いて、低く落ち着いた老女の声が廊下に響く。使用人の如月だった。
「旦那様、失礼致します。奥様が到着いたしました」
 その言葉を合図に襖がゆっくりと開かれると、先ほどの如月の声とは違う、鈴の鳴るような柔らかい女の声が部屋に滑り込んだ。
「お初にお目にかかります。五条華夜にございます」
 入ってきた白無垢の姿を視界に収めた瞬間、紘一は頭を殴られたような衝撃と、信じがたい感情が自分の胸を突き刺すのを感じた。それはまるで、不条理に引き離された最愛の女にようやく再会することが出来たかのような、暴力的なほどの慕情だった。
 華夜は畳に手をつき、恭しくお辞儀をする。頭の天頂から指先に至るまで、計算され尽くしたような美しい所作だった。五条の夫妻が縁談を取り付けようと必死になる娘がどれほどの者かと思っていたが、なるほど、確かに褒めちぎっていただけのことはある。
 だが、何故だろうか。頭を下げている彼女の纏う空気には、血の通った人間らしさがまるで感じられなかった。
 紘一は内心の激しい動悸を押し殺しながら、平静を装ったまま声をかける。
「五条華夜。顔を上げろ」
 紘一の言葉に、華夜はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐとこちらを見据えた。その表情を見た瞬間、思わず息を呑む。
 目の前にいる彼女は、これまで脳裏に思い描いていた彼女の表情のどれとも違う、初めて見る目を──。
(“初めて見る目“、だと?)
 彼女の顔を見るのは今日が初めてだ。何故自分は、見たこともないはずの彼女の様々な表情を、当然のように思い浮かべ、あまつさえ今現実に存在している彼女の表情に驚いているのだろうか。自分の思考の破綻に紘一は思わず眉を顰める。
『――綺麗な瞳』
 その時だった。砂嵐のような雑音の波が押し寄せる思考の中で突如、静かな囁きが紘一の耳元に零れ落ちたのだ。それはつい先程耳にしたものと同じ声をしているのに、もう随分と昔に聞いたような、不思議な懐かしい響きをしていた。
(これは、この娘の声か? いや……そんなはずはない。では一体誰の……)
 存在しないはずの記憶に、頭はますます泥沼の思考に沈んでいく。
 一体自分はどうしてしまったのだろうか。そんな激しい自己疑念が脳内を支配し、耳の奥で自分の心音がうるさいほどに跳ね上がった。
 しかし、そんなこちらの混乱などお構いなしに、目の前に座る女は淡々と挨拶の言葉を並べていく。
「旦那様。本日はこのような良き日を迎えられましたこと、五条家一同、深く感謝しております」
 あらかじめ書き上げられた台本をなぞるような、抑揚のない声だった。漆黒を湛えたぬばたまの瞳は、美しくも硬質で、命の揺らめきを感じない。紘一は、花嫁の醸し出す奇妙な気配の正体を測りかね、その顔をじっと凝視していた。
 どうしても、胸のざわつきが収まらない。心の片隅でずっと眠っていた自分の魂が、彼女を“知っている“と声高に叫んでいる。
 気づけば、抑えきれない衝動のままに口を開いていた。
「華夜。無粋なことを聞いて申し訳ないが、お前は俺と、以前どこかで会ったことはあるか」
 その質問を投げかけた瞬間、漆黒の瞳が、わずかに見開かれたように見えた。
 だがそれもほんの一瞬のことで、華夜はすぐに元の無表情へと戻り、淡々と答える。
「……どなたかと、お間違いではありませんか。私が旦那様とお顔を合わせるのは、本日が初めてでございますが」
 そう口にする彼女の言葉は丁寧だが、突き放すような冷ややかな声だった。
「そ、そうだな。すまない。おかしなことを聞いた」
(当たり前だ。自分は何を聞いているんだ)
 初対面の、それも政略結婚で輿入れしてきたばかりの娘に、何を口走っているのか。激しい自己嫌悪が押し寄せ、紘一は心の中で一人自嘲する。しかし、そう自分に言い聞かせてもなお、胸の奥のもやもやとした違和感と切なさは、どうしても拭い去ることができなかった。
 二人の間に、気まずく重苦しい沈黙が走る。静まり返った室内とは対照的に、廊下からはバタバタと使用人達が忙しなく準備に駆け回る音が聞こえていた。その襖の外から聞こえる物音に、華夜はチラリと一瞬だけ視線を向けると、これ以上自分に追及されるのを遮るように、急かすような口調で口を開いた。
「旦那様。もうすぐ祝言のお時間になるかと思います」
「あ、ああ……では、行こう」
 ぎこちなく返事をし、自分は上座から立ち上がった。
 すると華夜も静かに立ち上がり、こちらに向かって一礼する。
「恙なく、花嫁としての責務を全ういたします」
 そう言って、彼女はにこりと微笑んだ。これから花嫁として華々しい儀式へと向かう幸せな女の“仮面“を貼り付けたかのような、不気味なほどの美しさだった。
 紘一はその笑顔に言い知れぬ寒気を覚えながら、彼女を伴って奥座敷を後にした。
 
 親族や家臣たちが居並ぶ祝宴の場において、華夜はまさに理想の花嫁そのものだった。
 御影家と五条家、双方の面目を立て、一分の隙もない優雅な立ち居振る舞いで杯を交わしていく。
「皆様、これからは御影の妻として、粉骨砕身、当主殿をお支えしていく所存です。どうぞ、末永くご指導くださいませ」
 その楚々とした言葉、夫を敬うように一歩引いた奥ゆかしさ。居並ぶ親族たちは『五条家から素晴らしい嫁をいただいた』と口々に称賛し、華夜の両親も誇らしげな顔をして満足そうな笑みを浮かべている。会場は絵に描いたような多幸感に包まれていた。
 暫くして、親族達に冷やかされながら賑やかな宴を二人で抜け出し、同衾のための部屋へと続く静まり返った渡り廊下を歩く。
「それでは旦那様、奥様。今宵はどうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。私は別室にて待機しておりますゆえ、何か不都合がありましたら、何なりとお申し付けください」
 部屋の前まで来たところで如月が口を開くと、連れ立っていた使用人たちと共に丁寧に礼をして、一斉に下がっていった。
 重い襖が閉められ、二人きりになった瞬間だった。
 華夜の顔から、つい先刻まで貼り付けていた笑みが、まるで破れ落ちた障子のように一瞬にして消え失せたのだ。そこには死人のような、無機質で冷徹な美貌だけが残されている。その表情に、紘一はぞわりと背筋が冷たくなるのを感じた。
「華夜。大丈夫か」
 ここまでずっと気を張っていて疲れてしまったのかもしれない。そう思って労う言葉をかけようとした自分の声を、彼女の冷ややかな一言が遮る。
「旦那様。貴方に一つ、お伝えしておきたいことがございます」
 華夜はゆっくりとこちらに向き直った。月明かりに照らされたその表情には、先ほどの宴会の席で見せた“幸せな花嫁“の面影など微塵もない。
「今回の婚姻は、あくまで家と家の契約によるものです。親族や家臣たちの目があるような場で、貴方を無下に拒絶し、御影の面目を潰すような愚行はいたしません。ですが、ここにはもう監視の目はございません。……これ以上、あの退屈な芝居を演じる必要もない」
「な……何を、言って――」
 彼女は長い袖の奥で、自らの指先を白くなるほど強く握りしめながら、淡々と言い放った。
「私は、貴方と心を通わせるような夫婦になるつもりは元よりございません。今夜はもちろん、この先も、貴方に心を許すことは決してありません。……形だけの妻として、ただこの屋敷の隅に置いていただければ、それで結構です。ですから──あまり気安く、私に触れないでいただけますか。不快ですので」
 突きつけられたのは、あまりにも明確な決別と、紘一の人格そのものを否定するような拒絶の言葉だった。
「っ……!」
 予期せぬ言葉の刃に、自分は言葉を失って息を呑んだ。
 だが、呆然とする自分を冷たく見下ろしたまま、華夜は白塗りの施された額にしなやかな指先を添え、わざとらしく、しかし完璧な動作で小さな溜息を吐いてみせた。
「道中の疲れにより、少々目眩がいたします。今宵は一人で休ませていただけますか。万が一にもお側で粗相をしては、御影家の名に傷をつけてしまいますから」
 ──嘘だ。
 退魔師としての並外れた感覚が、彼女の呼吸の乱れや気の巡りを瞬時に拾い上げる。熱があるわけでも、真に病に伏しているわけでもない。尤もらしく自分を遠ざけるために用意された確信犯的な言い訳であることは明白だった。
 不快だと言い放ち、体調不良を理由に夫との同衾を拒絶する。大家に嫁いできた花嫁としては最低の態度だろう。
 なのに、なぜか。彼女の放った言葉が、こちらを拒絶する怒りではなく、まるで刃を自分自身に突き立てているかのようにも思えて、紘一はそれ以上強く問い詰めることができなかった。
「……分かった。無理をさせてしまったな。今夜はゆっくり休んでくれ。如月には、俺からうまく伝えておくから」
 紘一の返事を聞くなり、華夜は自らの手で静かに襖を開けた。
 彼女は、このまま自分に心を閉ざしてここで生涯を終えるのだろうか。
 脳裏に浮かぶ、見たこともないはずの華夜の柔らかな微笑みに、紘一の胸は激しく締め付けられた。
(俺は、お前の笑顔が見たい――)
 紘一は僅かな望みをかけるように、部屋を出ようとする華夜を呼び止めた。
「華夜。お前は夫婦になるつもりはないと言ったが、俺は……少しずつでも、お前のことを知りたいと思っている」
「…………」
「だから、お前さえ良ければ、また明日話をしよう」
 華夜は黙ったまま、こちらを振り返ることなく暗闇に包まれた廊下へと静かに消えていった。静かに閉まった襖を見つめながら、紘一は行き場のない掌を強く握りしめる。
 初夜を拒まれたことへの困惑以上に、胸の奥でどくどくと脈打つ、この狂おしいほどの疼きは何なのだろうか。なぜこれほどまでに、彼女の後ろ姿が、自分の心を捉えて離さないのか。自分の身体が、自分のものではないようにさえ感じた。それでも己の脳が呼び起こす記憶が、全身に刻まれた感覚が、彼女を欲して叫んでいる。
 あれほど晴れていた空が嘘のように、ポツリポツリと降り出した雨の音が、独り残された部屋の中に物悲しく響いていた。長く息苦しい夜だった。
 
翌朝、紘一は雨上がりの湿り気を帯びた渡り廊下を進んでいた。右手に広がる庭園に目をやれば、白木蓮の梢の向こうに、雨の雫を湛えた銀木犀がひっそりと白い花を咲かせ始めているのが見えた。
 しっとりとした空気に薫る甘く清涼な香りに包まれていた紘一は、黄色い一輪の小さな花をギュッと抱えて陽だまりのような笑みを浮かべた華夜の姿を思い浮かべていた。
 何の記憶かは分からない。けれど先日、一人で街を出た時に通りがかった花屋の店先に並べられていた花を見た瞬間、その映像の中の彼女の笑顔がなぜか鮮明に焼きついて離れなかった。そして気づけば、その中の黄色いものを3本束ねた小さな花束を買って帰り、華夜のものとなる部屋に飾っておけと如月に命じていたのだ。あの一連の行動は、普段の自分からは考えられないものだ。実際、花束を渡した時の如月の驚いたような顔を見た瞬間、我に返って適当に言い訳を並べて逃げるように去ったのを覚えている。
(――この庭園の銀木犀も、見せてやりたい)
 それは、衝動にも近い思いつきだった。昨夜の婚礼の席であれほど冷酷に拒絶されたというのに、この甘美な花の香りを前にして真っ先に彼女を連想してしまう自分に、一瞬戸惑いすら覚える。だが、まるでそうすることが決まっていたかのように、ちょうど廊下を通りかかった華夜の姿を見つけるなり、紘一は静かに声をかけていた。
「華夜。庭の銀木犀が咲き始めた。良ければ少し見ていかないか。雨上がりは、香りが一段と際立つ」
 振り返った彼女の顔は、白磁のように美しい。その顔を瞳に映した瞬間、紘一の胸が妙に切なく、ぎゅっと締め付けられるような錯覚に陥った。こうして雨上がりの庭を二人で眺め、この甘い香りを静かに分かち合ったことが、ずっと昔にあったような──そんな、あり得もしない既視感に襲われる。
 だがそんな淡い幻想は、華夜の冷徹な一言によって無残に打ち砕かれた。
「興味ございません。景色を愛でるような心は、実家に置いてまいりましたので」
 華夜は歩みを止めず、視線すらこちらに向けることなく、ただ淡々とそう言い捨てた。
「! ……そうか。すまなかった」
 向けられた言葉の鋭さに、紘一は力無く目を伏せることしかできなかった。差し伸べようとした右手が、行き場を失って所在なげに空を切る。
 それでもなお、背中を向けて立ち去っていく彼女の姿が、どうしても気に掛かって仕方がなかった。

 すっかり陽も落ちた夕餉の刻。大広間には、箸の触れ合う音さえ躊躇われるほどの重苦しい沈黙が満ちていた。
 向かい合って座る華夜の膳に目をやれば、どれもほとんど手が付けられていない。昨日からまともな食事を摂っていないはずだ。よく見ると彼女の肌は痛々しいほどに青白く、その細い指先は微かに震えているように見えた。
 なぜ、これほどまでに頑なに心を閉ざしているのだろうか。
 そう思った瞬間、気づけば紘一の口からは、目の前の彼女を気遣う言葉が溢れ出ていた。
「華夜、大丈夫か。食事が口に合わないのなら、料理人に作り直させよう。何か食べたいものがあれば──」
「いえ。どうぞお構いなく。もう結構です、ご馳走様でした。失礼致します」
 華夜はピシャリと言い放つと、箸を置き、一度もこちらと目を合わせることなく席を立った。その様子に紘一は小さく息を呑んだ。
 ──おかしい、何もかも。自分自身も、彼女自身も。
 頭の記憶をどれほど手繰り寄せても、彼女と出会ったのは昨日の顔合わせが初めてのはずだ。政略結婚を嫌い、形ばかりの夫を拒絶する。それだけの話なら、これほど胸が引き裂かれるような痛みを覚えるはずがない。自分自身、元々乗り気な婚約ではなかったはずなのだから。
 しかし紘一の脳裏には、目の前で今にも壊れそうなほど強張っている小さな背中が、いつかの遠い記憶の中で、愛おしそうに振り返って自分だけに笑いかけてくれたような──そんな、あり得もしないはずの傲慢な錯覚がいつまでも消えてくれないのだ。それどころか、日を追うごとにその胸の疼きがどんどんと大きく、ジクジクと腫れ上がってくるのを感じていた。
 部屋を去ろうとする彼女の背中に向けて、紘一は引き留めるように声を絞り出す。
「待て、華夜」
「……なんでしょうか」
「お前は一体、何を隠しているんだ」
 華夜の肩が、びくりと跳ねた。その場に凍りついたように、彼女の足が止まる。
 自分は数歩後ろから、その華奢な後ろ姿をじっと見つめた。退魔師としての五感が、彼女の全身から発せられる尋常ならざる緊張と、悲痛なまでの拒絶の気配を克明に拾い上げてしまう。
「昨夜から、お前の態度はあまりにも不自然だ。お前がこれほどまでに頑なに心を閉ざし、俺を拒絶するのには、何か理由があるのではないのか」
 五条の家が、この小さな身体に何か過酷な命を強いているのだろうか。それとも、自分という存在そのものが、彼女の触れられたくない傷を抉っているのだろうか。
 もしそうなら、自分がその呪縛を叩き斬ってやりたい。ただ、それだけの想いだった。
「もしも五条の家がお前に何かを強いているのなら、あるいは俺がお前の忌避すべきものを何か抱えているのなら、話してくれないか。……一人で、何かと戦っているような顔をしないでくれ」
 投げかけた言葉に、華夜がゆっくりと振り返った。その瞳を見た瞬間、紘一は思わず息を呑む。
 そこにあったのは、昨日今日出会った男に向けるような単なる嫌悪の色ではない。どんな光をも一切撥ね退けるような、深すぎる絶望の闇――まるで、世界の終わりをたった一人で見つめているかのような目をしていた。
「……自惚れないでいただけますか、旦那様」
 薄紅の唇が、痛々しいほど歪な嘲笑の形に歪められる。
「五条家が、私に何かを強いている? 私が一人で、何かと戦っている? あっはははは! ……見当違いも甚だしい」
「な……」
「私が貴方を忌避しているのは、私の意思です! 私は、」
 華夜は一度、痛みを堪えるように大きく息を吸うと、こちらの目を真っ向から見据えて言い放った。
「貴方という人間が、心底、嫌いなのです。貴方のその、独り善がりな偽善の優しさ。それを見るだけで、虫酸が走るのです。理由など、それで十分ではありませんか?」
 脳を直接殴られたような衝撃に、紘一は言葉を失った。
 自分に向けられた、痛烈な悪意。だがそれ以上に自分を戦慄させたのは、そう吐き捨てるように語る彼女の瞳の奥が、今にも大粒の涙を溢れさせそうなほど、ぐちゃぐちゃに泣き叫んでいるように見えたことだ。嫌っていると言いながら、なぜ彼女は、そんなに悲しそうな顔をしているのだろうか。
「……そうか。……すまない、無粋なことを聞いた」
 本当は強く問い詰めたかった。だがこれ以上言葉を重ねれば、彼女の心が完全に壊れてしまう気がして、結局、ありきたりでちっぽけな謝罪の言葉しか出てこなかった。
 それでも背を向けて再び歩き出そうとする彼女を、どうしてもそのまま行かせることはできず、紘一はもう一度華夜の背に向けて言葉をかける。
「華夜。何か、俺が不手際をしたのなら言ってくれ。直せることなら、善処したい」
「直せることなど、何もございません。……ただ、御影という不吉な名に縛られるのが、不快なだけです。これ以上、私に関わらないでください」
 紘一の言葉も虚しく、華夜はピシャリと乱暴な音を立てて襖を閉ざしてしまう。それは、二人の間に二度と越えられぬ境界線を引かれたような、硬く重たい拒絶の音だった。