円環の花嫁 –お願いです、どうか私に触れないで–

 夕刻を回り、空がひと息に暗くなった。昼時の穏やかな秋晴れが嘘のように、どこからか流れ込んできた湿った黒い雲が、庭の木々を激しくざわめかせていた。解決の糸口を求めて、屋敷の者たちの目を必死に掻い潜り外へ出たものの、結局は何の収穫も得られていない。
(一雨来そうな空だわ……)
 そう直感した次の瞬間、大粒の雨が天を裂いて落ちてきた。ぽつり、と路面を濡らすような猶予さえなく、最初からすべてを叩きつけるような、容赦のない激しい夕立だった。
「……っ」
 華夜は濡れた着物の裾をひるがえし、思わず足を速める。ずぶ濡れになるのを避けようと、身を寄せられる軒先を求めて彷徨い──気づけば、迷い込んでいたのは広大な庭の最果て、あの不気味な“奥屋敷“の前だった。
 他の建物から疎まれるようにぽつんと距離を置かれた、一棟の寂れた佇まい。
 その古ぼけた軒の下へ滑り込んだ途端、雨脚はさらにその勢いを増していった。古い瓦屋根を激しく打つ鈍い音が、華夜の心臓の鼓動を急かすように鳴り続ける。
(どうしたら……。どうしたら、紘一さんを……あの三度目の死から救えるの……?)
 激しい雨音に紛れ込ませるようにして、胸の奥に澱んでいた弱音が唇から溢れ出す。考えれば考えるほど、運命という名の巨大な壁に跳ね返され、また同じ絶望の地点へと引き戻されてしまう。その終わりのない焦燥が、雨に冷え切った身体を内側からじわじわと蝕んでいくようだった。
 ──その時だった。
 突然、鼓膜をつんざくような激しい雷鳴が響いたかと思えば、次の瞬間、世界が奇妙なほどの「無音」に包まれたのだ。さっきまで轟々と降り注いでいたはずの雨の音も、狂ったように揺れていた木々のざわめきも、すべてが物理的に切り取られてしまったかのような、異様な静寂が肌を刺す。
(……え?)
 華夜は思わず息を止めた。その、耳が痛くなるほどの無音の世界の中で、新たな“音“が不気味に生まれ落ちるのを、彼女の五感は確かに捉えていた。
 ひた……。
 小さく、べっとりと湿った響きだった。それは冷たい廊下を這う足音のようにも聞こえたし、あるいは雨樋から溢れ出た不浄な雫が、同じ場所を執拗に叩く音のようにも思えた。正体は、何もわからない。ただ、その音だけがこの隔離された世界に明確に存在し、確実な意志を持って、こちらへと近づいてきている。
 ひた……、ひた……。
 間違いない。格子戸に閉ざされた鉄格子の向こう側──この禍々しい奥屋敷の中から聞こえてくる。本能が『見てはいけない、今すぐここから逃げろ』と最大級の警鐘を鳴らし、全身を粟立たせる。けれど、恐怖で完全に凍りついた身体は指一本動かすことすらできない。ただ、異様なほどに冴え渡ってしまった聴覚だけが、暗闇の奥から近づいてくる正体不明のソレを、じっと追いかけてしまっていた。
 ひた。
 小さな鉄格子を隔ててすぐ向こう側で、音が止まった。その刹那、唐突に訪れた沈黙の隙間を縫うように、かすかな、けれどひどく掠れた声が紛れ込んできた。
「……だめ……。……ふれては、……だめ……」
 風の唸りか、それとも雨の泣き声か。あまりに細く、形を持たない不吉なその響きに、華夜の全身に一気に総毛が立った。
 今のは、誰の声──?
「……あのこに……ふれては…………」
 言葉は最後まで続かず、どこまでが肉声で、どこからが雨音なのかも判然とせぬまま、闇の奥へと掻き消えた。
 気づけば、指先だけが氷のように冷え切っていた。視界がぐにゃりと奇妙に滲んでいき、華夜は思わず一歩、後ずさる。急激に鉛のような重さが身体を支配し、それとは裏腹に、内側から燃えるような熱がじわじわと滲み出していた。叩きつける雨の冷たさとは対照的に、額だけが妙に熱を帯び、思考が白い霧に包まれていく。
(触れては、だめ? あの子って、誰……?)
 追おうとしても、言葉の意味が指の隙間から滑り落ちていく。ただ、胸の奥底に、決して暴いてはならない禁忌の蓋を開けてしまったかのような、どろりとした不安だけが残った。
「奥様!!」
 突如、背後から悲鳴に近い鋭い声が響き、華夜は弾かれたように振り返る。いつの間にか、雨傘を差した如月がそこに立っていた。いつも冷静沈着な彼女が、今はまるでこの世のものではない幽霊でも目撃したかのように顔を蒼白にさせ、握りしめた傘の手元を小刻みに震わせている。
「何故、こんな所に……! いけません、奥様。すぐに、今すぐこちらへ!」
 如月は華夜の返事も待たず、その細い腕を乱暴にひっつかんだ。
「あ……っ」
 声を上げる間もなく、ずんずんと力任せに母屋の方へと引きずられていく。まるで、あの場に一秒でも長く留まれば、取り返しのつかない恐ろしい穢れに侵されてしまうとでも言いたげな、狂気的な必死さだった。
「ちょ、ちょっと待ってください、如月さん! 痛いです、っ」
 華夜の痛切な悲鳴に、如月はハッと我に返ったように足を止めた。掴んでいた手の力を緩めたものの、その指先はまだ不自然に震え、視線は華夜の背後に聳える奥屋敷の暗がりに釘付けになったままだ。
「も、申し訳ございません! 私としたことが、何という無礼を……。ですが、奥様。あそこへは、何があっても決して近づいてはならないのです」
 華夜は赤く充血した腕をさすりながら、必死に現実から目を背けようとする如月の視線を捕まえるように、一歩前へ踏み出した。
「何故、ですか? 先ほど、あの屋敷の中にいる何者かの声を聞きました。女性の声です。あちらには、誰がいらっしゃるのですか?」
「それは……口にしてはならぬ決まり事でございます。御影の家に古くから伝わる、厳格な――」
「この御影家の嫁となった私にさえも言えぬ決まり事とは何ですか!? 教えてください、如月さん!」
 華夜の強い声が、激しい雨音を切り裂いて如月に届く。
「ここへ嫁ぐ前、友人から不気味な噂を聞きました。『御影に嫁いだ者は長くは続かない』と。中には心を病んでしまった方もいるとか。この屋敷には、一体何があるのですか」
 如月の表情から、血の気が完全に引き、顔に刻まれた深い皺が恐怖によって歪んだ。彼女は華夜の濡れた肩を自身の羽織で隠すように強く覆い、まるで自分たちの会話を屋敷の壁に聞かせぬようにして、声を極限まで押し殺した。
「奥様……お願いでございます。それ以上、その口を動かしてはなりませぬ。あちらは、死んだはずのものが、死ねずに留まっている場所。お側に仕える私のような者の口からは、これ以上は……」
(死ねずに、留まっている?)
「旦那様でさえ、あそこへ近づくことだけは厳しく禁じられております。奥様、どうか今夜はもうお休みください。何も見なかった、何も聞かなかった。そう、心に鍵をおかけくださいませ。知ろうとすれば、奥様も『あの方』の毒に呑まれてしまいます」
 如月の言葉は、懇願を通り越して、逃れられぬ呪いの宣告のように響いた。
 自室へ押し込められるようにして戻された華夜を、如月はなおも執拗に世話を焼く。冷え切った身体を拭い、湯を運び、まるで華夜の肌に付着した“奥屋敷の空気“を根こそぎ洗い流そうとするかのような、執念深い手つきだった。
「さあ、もうこれで大丈夫でございます。すべて忘れて、お眠りください」
 バタン、と重い音を立てて襖が閉じられる。一人残された華夜は、その音を自分を外界から遮断する牢獄の響きのように感じた。
 華夜はもう一度、雨に煙る窓の外へ視線を向ける。あの屋敷で確かに聞いたか細い女の声が、呪詛のように華夜の耳の奥にこびりついて離れなかった。
雨風の音に紛れてかろうじて聞き取ることができたのは、『触れては』『ダメ』『あの子に』という三つの言葉。
(あの方は、誰なの? あの言葉は、一体どういう意味――)
 そこまで考えた瞬間、猛烈な悪寒が華夜を襲った。氷のような雨に打たれた冷たさと、奥屋敷から漏れ出た不吉な予兆、そして如月の怯えた眼差し。重なり合う恐怖が限界を迎え、彼女の意識は急速に混濁していく。華夜はそのまま、内側から燃え上がるような熱の闇へと、深く沈んでいった。

 三日目の朝、華夜は起き上がることさえできなかった。
 二晩にわたる不眠と、極限まで張り詰めた緊張。『彼を守りたい』という執念と、『彼を欺き続けている』という罪悪感の相克が、華夜の華奢な体を内側からじりじりと焼き尽くしていた。
(考えなきゃ。今日こそ、何か……解決の、手がかりを)
 朦朧とする意識の底で、華夜はなおも必死に思考の糸を繋ぎ止めようとする。だが、鉛のように重い体は指一本動かせない。皮肉なことに、初日に吐いた『眩暈がする』という偽りは、三日目にして言霊となって彼女の身に襲いかかっていた。
 昼が過ぎ、天頂にあった陽が少しずつ西へと向かっていく。部屋を包む影が長く、濃くなるにつれ、華夜の胸に渦巻く恐怖は増していく。
 ──その時、孤独な部屋の襖の奥から声が響いた。
「華夜、薬を持ってきた。……入るぞ」
 聞こえてきたのは、昨日よりもさらに険しさと硬さを増した、紘一の声だった。
 華夜が拒む間もなかった。紘一は三日間の遠慮を完全に捨て、ついに彼女の寝所へと足を踏み入れたのだ。
「……ぁ……」
 華夜は必死に声を絞り出そうとしたが、ひび割れ、焼けるような喉がそれを拒む。
 視界の端に、紘一の黒い衣が静かに揺れた。彼は枕元に膝をつくと、痛ましげに美貌の眉を寄せ、濡らした手拭いで華夜の顔の汗を優しく拭き取っていく。
「如月から様子を聞いていたが、ひどい顔色だな。……すまない、俺がお前をここまで追い詰めたか」
 汗を拭う布の感触はひんやりと、酷なほどに心地よかった。
 孤独な暗闇の中で呪いのような運命に耐え続けた華夜にとって、最早紘一という存在そのものが、破滅を招く毒だと分かっていても抗えない、唯一の救いだった。
「ひ……こういち、さん……」
 華夜の熱い瞳から、一筋の涙がはらりとこぼれ落ちる。
 嘘を吐いて、ごめんなさい。
 あなたを拒絶して、ごめんなさい。
 本当は、ずっと側にいたかった。あなたに、触れてほしかった。
 弱り切った彼女の心は、ついに理性を捨て、愛されたいという本能を選んでしまう。華夜は震える手を伸ばし、紘一の逞しい腕を、縋り付くようにして掴んだ。
「いかないで……。お側に、いてください……」
 それは、喉を焼かれた彼女の魂が上げた、剥き出しの心の悲鳴だった。
 紘一は一瞬、息を呑むようにして絶句した。そして、堰を切ったように溢れ出した新妻の孤独と涙に応えるように、優しく、どこまでも深い慈しみを込めて、華夜の濡れた頬を大きな掌で包み込んだ。
「……ああ、どこへも行かん。ずっとお前の側に居よう。だから、安心して眠れ」
 紘一の琥珀色の瞳が、熱を帯びて真っ直ぐに華夜を射抜く。
 その瞳の奥に確かな、そして揺るぎない愛が灯った──その瞬間だった。
 ──ヌルッ……。
 部屋を包んでいた看病の柔らかな空気の中に、黒く不吉な冷気が雪崩れ込んできた。
(嘘……そんな、どうして。だって今、まだ夜じゃ──)
 開け放たれた障子に落ちていた影が、狂ったように部屋中に広がり始める。黄金色に輝いていたはずの陽光は、一瞬にして、墨汁をぶちまけたような禍々しい漆黒の光へと反転した。まだ陽は出ている時間帯なのだ。それなのに、室内のすべての陰影が異常なほどに色濃く、鋭く伸び上がり、まるで意志を持つ生き物のように畳の上をのたうち回り始めた。
 三度目の絶望の到来を確信し、華夜の思考は真っ白に凍りつく。
 初夜を避け、部屋に引きこもり、あれほど必死に距離を置こうとした。彼を救うためなら、嘘つきと言われようが嫌われようが構わないと、そう心に誓ったはずだったのに。熱に浮かされ、ほんの一瞬、彼の優しさに魂を委ねてしまった代償が、これなのか──。
 逃げなければならない。けれど、高熱に焼き尽くされた身体は鉛のように重く、指先一つ動かすことさえ叶わなかった。
「華夜っ!!」
 紘一が鋭く叫ぶ。だが、今回の異形は、これまでの比ではないほどに迅速で、凶悪だった。パキパキパキ、と空間に目に見えない亀裂が入るような高周波の音が鳴り響き、耳障りな、地を這うような声が二人を嘲笑う。
『フレタ、フレタナ。サシダセ、ダイショウ』
(! 触れた、代償──)
 二度目の時よりも、はっきりと脳裏に響いた闇の言葉。華夜がその恐ろしい意味を咀嚼しようとした次の瞬間、二人が触れ合っていた境界線から、染み出すようにして急激に膨れ上がった闇が、無数の漆黒の刃となって華夜を目がけて一斉に降り注いだ。
「しまっ──」
 刀を抜く猶予すらもなかった。紘一は咄嗟に、横たわる華夜の身体の上へと覆い被さった。彼女を、その広い背中で完全に隠し去るように。迫り来るすべての凶刃から、ただの一突きさえも彼女に触れさせまいとするように──。
 そして。
 ゴリ、と。肉を引き裂いて骨を焼き砕く、重く鈍い最悪の音が華夜の耳元で響いた。
「っ、がは、あ、……っ!!」
 その声に弾かれるように目を開けた華夜は、自分を抱きしめるように覆い被さっている紘一の胸元から、真っ黒な刃が無残に突き出ているのを捉えた。
 紘一の胸元を、彼自身の影から生え出た巨大な漆黒の刃が、完全に貫通していた。
 部屋には依然として、黒い光が不気味に差し込んでいる。
 紘一は膝を激しく畳につき、口から鮮血をぶちまけながらも、自身の胸を貫く刃を恐るべき退魔の眼光で睨みつけた。
「……お前は、何者だ。我が家系に仇なす怪異が……ッ!!」
 咆哮と共に、彼は執念だけで床の間の刀へと手を伸ばし、鞘ごと引き抜いて闇の核心へと叩きつけた。爆発的な霊圧が室内に吹き荒れ、異形は『ギチ、ギチ、ギギ……』ときしんだ絶叫を上げながら、今度こそ完全に霧散し、光の反転は元へと戻る。
 静寂が戻り、夕方にも満たない健やかな陽の光が、何事もなかったかのように障子に影を落としていた。
「紘一さん、紘一さん!! あぁ……そんなっ……!!」
 その白日の下、怪異を退けた紘一の身体から急激に力が抜け、横へとなだれ込んでいく。彼の胸からはおびただしい量の鮮血が噴き出し、純白の布団を、華夜の小袖を、鮮烈な赤へと染め上げていく。
 華夜は狂ったように叫び、麻痺したような身体を必死に引きずって、隣に倒れた彼の身体を抱きとめた。
 二晩、彼を救うためだけに狂うような孤独と戦ってきた。それなのに、三度目もまた、自分の腕の中に、彼の焼けるような、止めどない命の温もりが溢れ出して止まらない。深く抉れた彼の胸口を、両手で強く押さえた。止血しようと焦れば焦るほど、指の隙間から温かい命が止めどなく滑り落ちていく。華夜の掌は、ただ絶望の色に染まっていくだけだった。
「……泣くな、……華夜」
 死の淵にあるというのに。彼は、自分の致命傷など最初から意識にないかのように、途切れ途切れの声で、華夜の涙をそっと拭おうと血に濡れた指を伸ばす。記憶はなくとも、その琥珀色の瞳にあるのは、愛する妻をようやく抱きしめられたこと、そしてその身を賭けて守り抜けたことへの、深い満足感だけだった。
「やっと……お前が、……呼んで、くれた……」
 熱に朦朧とした意識の中、堪らず溢れ出た想いが紡いだ彼の名前。その対価が、やはり彼の命だというのか。運命は、どれほど二人の愛を呪えば気が済むのか。
「お前を守れて、よかった……」
 添えられようとした手が、力なく畳へと落ちる。琥珀色の光がその瞳から完全に失われ、指先に残っていた確かな熱が、急速に温度を失っていく。まだ明るい室内に、紘一の最後の一息が白く消えていった。
 その冷徹な感触を最後に、白光に包まれ混濁していく意識の中で──ブツリ、と。
 華夜は自分の心が、完全に壊れる音を聞いた。