部屋に充満した白檀の香りが、鋭く鼻腔を掠めた。意識が重い闇の底から、徐々に、暴力的なまでの鮮明さを持って覚醒していく。視界が白光から戻った瞬間、華夜は鏡の中に座る“あの日の女”と相見えた。三度目の朝だった。
重く冷たい白無垢の衣と感情を一切塗りつぶした白塗りの化粧は、最早、晴れ姿などではない。死装束だ。二度、守れなかった男への供養でもするつもりか――そう自嘲した瞬間、耳元で母の甘く粘ついた声が聞こえてきた。
「ああ、華夜。なんて美しいんでしょう。貴女は今日、世界で一番幸せな女になるのよ」
その声が、ただただ不快だった。
世界で一番幸せな女だと? もうすでに、二度殺した。二度も、私は彼を守れなかった。
(……何がダメだったの。どうして、彼は死ななければならないの)
婚礼の日の初夜を回避し、部屋を変えれば、あの襲撃は回避できるのだと信じていた。だが結局、紘一が死ぬ運命だけは変えることができなかった。
(日にちを変えても、場所を変えても、妖魔は正確に私たちを嗅ぎつけた。何? 一体何が引き金になっているの?)
華夜は、血に濡れた記憶の欠片を必死に手繰り寄せる。
一度目は、初夜の床に並んだ夜。涙に濡れた華夜の頬を指先でぬぐい、頭を撫でられた時。
二度目は、初夜翌日の夜。二人で街へと繰り出した後、華夜の部屋で紘一が華夜の頬を包み込み、向けられた熱に心が満たされた時だった。
並べ合わせた二つの記憶の共通項が浮かび上がった瞬間、華夜は自分の考えの綻びに気づく。
(違う……あの怪異を引き寄せているのは、特定の部屋や時間じゃない。『夜』という結界の緩む刻限に、私たちが『触れ合うこと』だ)
肌を重ねることはおろか、一歩でもあの甘やかな距離に近づけば、あの狡猾な闇は、より凄惨な方法で彼の命を奪うだろう。
その仮説が導く結論はただ一つ――彼を救うためには、夜、もう絶対に指一本触れ合ってはならない。
そして同時にそれは、華夜にとって最も過酷な選択を強いられることを意味していた。
(どうにかして、夜に二人きりになるのを避けなければ。でも、心を閉ざし、頑なに触れ合いを拒み続ける私を、あの方はどう思うかしら。せっかく通い合わせたあの温かい心を、私から踏みにじるの? あの方に『不気味で、冷酷な女』だと、疎まれてしまうかもしれない……)
二度目のループで彼が向けてくれた、あの耳たぶを赤く染めた照れ隠しや、拳を握りしめて私を守ろうとしてくれたひたむきな優しさが、胸を抉るように締め付ける。
彼を救いたい。けれど、同時に彼に蔑まれたくない、嫌われたくないという、身勝手で卑小な未練が、華夜の心を激しく揺さぶっていた。
「まあ華夜! どうしたのです。顔色が優れませんよ。せっかくの良き日に――」
いかにも心配だというように大袈裟な声を出しながら、眉を下げた母の顔が覗き込んでくる。
その顔に、吐き気が込み上げる程の苛立ちを覚えた。
いつもなら、華夜は“人形としての完璧な微笑“を返し、母の望む言葉を紡いでいただろう。だが今の華夜の胸中には、あの日のガーベラの温もりと、それを無残に切り裂かれたことへの焼けるような絶望が、どす黒く溜まっていた。
「――顔色、ですか?」
華夜は鏡越しに母を射抜いた。その瞳には、かつての従順な光はなく、剥き出しの刃のような鋭さが宿っている。
「これほど厚く白粉を塗りたくっておきながら、肌の色など分かりますか。……そんなに完璧な花嫁でなければなりませんか。この、生贄のような姿が」
「……華夜……? 何を、何を言っているのです……」
母の顔が、驚愕に凍りついた。言葉に詰まり、信じられない異物を見るかのように娘を見つめる。その狼狽した反応を見て、華夜はハッと我に返った。心臓がうるさいほどに脈打ち、冷や汗が背中を伝う。
「……っ。申し訳、ありません……。わたくし、何を……」
華夜は急いで視線を伏せ、震える指先で膝の上の白無垢を握りしめた。
「婚礼を前に、少々……取り乱してしまったようです。……お許しください、お母様」
熱の引いた声で心にもない謝罪を口にすると、再び無機質な人形の顔を鏡の中に作り上げる。だがその胸の奥底では、凍てつくような決意と、震えるような恐怖が黒く渦巻いていた。
(取り乱してどうするの。ここで母を撥ね退けても、運命は一歩も動かないのに)
思いの丈をぶつける先などない。この終わりなき死の円環を反芻しているのは、世界でたった一人、自分だけなのだから。華夜は叫ぶ代わりに、奥歯を思い切り噛み締めた。
今度は、もっと周到に立ち回らなければ。けれど、紘一に拒絶され疎まれる恐怖に、今から心が潰れそうになる。
(嫌われたくない。けれど、絶対に死なせたくもない。どうすればいいの、紘一さん……私はあなたに、もう一度――)
答えの出ない問いを抱えたまま、華夜は静かに立ち上がった。
「……参りましょう、お母様。御影様のお屋敷へ」
紘一を死なせないためには、もう二度と、夜に触れ合うことは許されない。それでも、心のどこかで『もう一度彼に愛されたい』という傲慢な飢えを拭い捨てることができず、華夜は重く、深い息を吐いた。
***
御影の屋敷の門は、もはや華夜にとって地獄の入り口のようであった。
夕暮れの空は禍々しいほどに赤く焼け、まるでこれから流れる血の色を予報しているかのようだ。庭先に咲き急ぐ花々は、風に吹かれては無残に散り、死へと急ぐ命の儚さを華夜の心に突きつける。
そうして、見慣れた奥の間の襖の前に立つ。華夜が意を決して襖を開けると、そこには過去二回の記憶と同じく、威圧的なまでの美しさを湛えて“あの男“が座していた。だが不思議なことに、初めて見るはずの華夜を射抜く琥珀の瞳は、かつてないほどに波立ち、困惑の影を宿しているようにも見えた。三度目にして初めて抱いたその違和感に、華夜は妙な胸騒ぎを覚える。
「……五条、華夜だな」
低く、地に響くような声が静まり返った部屋に落ちる。
この顔合わせの瞬間に、紘一の口から華夜の名前が出たのは初めてだった。想定外の変化に華夜は一瞬動揺したが、平静を装って畳に手をつき、深く頭を下げた。視界に入る自分の指先が、石のように冷たく、小さく震えている。
(落ち着いて。まずは……まずは今夜をやり過ごさなきゃ。初夜を回避することは、前回出来ているんだから。なんとしてでも、あの『引き金』を引かせてはいけないのよ)
華夜の脳裏には、いまだに彼の最期の温もりがこびりついている。それを振り払うように、彼女は冷たい畳を強く指先で押さえた。
「面を上げろ」
その峻厳な言葉に従い、ゆっくりと顔を上げた瞬間――華夜は思わず息を呑んだ。
紘一が自らの眉間に指を当て、何か耐え難い頭痛か、あるいは溢れ出す濁流を必死に堰き止めようとするかのように、険しい顔をしていたからだ。
「……不可解なことだ。お前と会うのはこれが初めてのはずだが……なぜか、胸が騒ぐ」
紘一の独白に、華夜の心臓が早鐘を打つ。その言葉は、運命という名の鎖が軋みを上げた音のように聞こえた。
「お前のその顔を以前、どこかで見た気がして……いや、そんなはずはないのだ。申し訳ない……忘れてくれ」
紘一は混乱を隠しきれない様子で、華夜を射抜くように凝視した。
(紘一さん……あなた、もしかして覚えているの? 断片でも、私と一緒に過ごした時間を、魂が刻んでいるというの?)
だがここで彼の手を取ってしまえば、今夜、再び彼を死なせてしまう。込み上げる愛しさと残酷な再会への悲鳴を喉の奥に押し殺し、華夜は痛む胸を抑えて、用意していた“嘘”を絞り出した。
「こ、――御影様。恐れながら、申し上げます。わたくし、先程から眩暈が酷く、今にも倒れてしまいそうで……せっかくの婚礼の初夜ではございますが、今宵ばかりはお側を離れて独り、休ませてはいただけないでしょうか」
愛しい男の名を呼びかけてしまいそうになった顎を、華夜は必死に噛み殺す。
前回は紘一の『夫婦となる必要はない』という言葉を利用する形で申し出たが、今回はそれよりも先に、自ら拒絶を口にした。格下の家から嫁いできた身でありながら初夜を拒否するなど、本来なら屈辱以外の何物でもない。
だが、華夜には確信があった。理由はどうであれ、この男は、それを許すと。
それを分かっていながら、彼の優しさに付け込んで嘘を吐き続けることに対する贖罪か。あるいは彼を守るためとはいえ、愛する男に平然と嘘を吐いてのける自分の狡猾さに対する恐怖からか。乾いた喉から絞り出した懇願の声は、止まらない震えを孕んでいた。
華夜の言葉に紘一の眉がぴくりと動き、部屋には、凍りついたような沈黙がどこまでも深く流れていく。
「……確かに、顔色が悪く見えるな。祝言の儀と宴会の席はどうする」
「宴会の席までは、使命を全う致します。両家の儀式ですので……」
「そうか。だが、無理をするなよ。初夜については、如月に話をつけておく。宴会の席を立ったら、部屋でゆっくり休め」
「っ、……申し訳、ございません。ありがとうございます」
琥珀の瞳が、気遣わしげに揺れている。初夜を拒絶された男としての困惑と、無意識の傷みを奥底に滲ませながらも、紘一はどこまでも華夜を労ろうとしていた。その不器用な優しさが、華夜の罪悪感を鋭利な刃で抉る。彼が自分を気遣えば気遣うほど、華夜の吐く嘘は黒い毒となって、自分自身の心を蝕んでいくようだった。
夕闇が廊下の影を長く伸ばし、二人の間に取り返しのつかない境界線を引いていくのを、華夜はただ、滲む視界で見つめることしかできなかった。
***
祝言の儀を恙無く終え、賑やかな宴会の席を立ち、華夜は如月に連れられて自室へと向かっていた。遠ざかる喧騒と引き換えに、冷え切った廊下に二人の足音が静かに響く。もう何度も足を踏み入れているその部屋の襖が開いたところで、華夜はぴたりと足を止めた。
「奥様? どうかなさいましたか」
部屋の入り口で立ち止まったまま動かない華夜に、後ろへ控えていた如月が怪訝な声で尋ねた。
(なんだろう……何か、前回とは雰囲気が違う気がする)
違和感の正体を探して、暗がりのなかに視線を暫く彷徨わせていた華夜だったが、やがて、ある一点に留まった。それを視界に捉えた瞬間、全身が粟立つような感覚とともに、思わず息を呑む。
「……如月さん。これは?」
掠れた声で華夜が問うと、如月は少しだけ困惑したように微笑んで答えた。
「ああ。そちらは、旦那様のご指示で」
「御影様が……?」
「ええ。今まで、このようなものにあまり関心を示すようなお方ではなかったのですが……数日前、突然自ら買ってこられたのです。『これを飾って欲しい』と――」
独りの夜は、ひどく静かだった。華夜は布団に入ることもできず、文机の前に膝をついたまま、紘一が買ってきたというそれをぼんやりと見つめていた。
二輪のガーベラ。前回の結婚で、帝都の街を歩いた帰り道。花売りの少女から紘一が買い、華夜へと差し出してくれたものと違わぬ、鮮やかな黄色の花。
あの時、華夜は初めて知ったのだ。自分が良いと思ったものを、欲しいと願っても良いのだと。誰かから花を贈られるということが、こんなにも胸を温かくするのだと。自分の選んだものを『お前に似合う』と言われることが、こんなにもくすぐったく、嬉しいものなのだと。けれど今、目の前にある花は、あの時の幸福を思い出させると同時に、華夜の胸を鋭く抉っていた。
(……ねえ、どうして)
記憶など、残るはずがない。“この世界”の紘一は、華夜と帝都を歩いたことも、芝居小屋で並んで座ったことも、花を手渡してくれたことも知らないはずなのに。なのに彼は、あの時と同じ花を選んだ。――今回は何故か、二輪に増えているけれど。それはまるで、彼が繰り返してきた時間の数を、無意識に数え上げているかのようで、余計に怖かった。
如月に聞かされた紘一の言葉が、華夜の頭の中に反響する。
『これを飾って欲しい。この部屋には、この花が似合う気がした』
(どうして、そんなふうに……)
華夜はゆっくりと手を伸ばし、ガーベラの花弁の先にそっと触れた。柔らかかった。触れれば崩れてしまいそうなほど、繊細で頼りない。それでも、二つの黄色は鮮やかに凛とした生命力を放っている。まるで、あの男の優しさのようだと、華夜は思った。押しつけがましくなく、声高でもなく、けれど確かにそこにあって、否応なく胸の奥へ沁み込んでくる。
「……こんなの、ずるいよ」
思わず声が漏れた。誰に向けた非難だったのか、自分でも分からない。最愛の男か、呪われた運命か。それともこんな状況でさえ、花に触れるだけで彼の優しさに心を揺らしてしまう自分自身か。
華夜はその場に座り込んだまま、そっと花瓶を抱き寄せるようにして顔を伏せた。二度目の結婚で過ごした一日の情景が、次から次へと溢れてくる。
庭で見た、小雪を大きな手のひらに乗せて話しかけていた優しい声。
折れた枝に触れ、静かに花を咲かせた指先。
茶屋や芝居小屋で、柔らかな眼差しで自分を見つめていた琥珀の瞳。
同じ屋敷の、すぐ近くに彼はいる。けれど、いまそこにいるのは、私との記憶をすべて失った御影紘一だ。あの日の紘一はもう居ない。
(……会い、たい)
私の知っている、あの優しいあなたに、会いたい。
そんな願いが胸に浮かんだ瞬間、華夜ははっとして息を呑んだ。
――違う。今はできるだけ距離をおかねばならないのだ。
近づけば近づくほどに、彼に触れたい、触れられたいという気持ちが心を占めてしまう。何としてでも、御影紘一を守らなければ。そう頭で理解しているはずなのに、この花を見ているだけで、そんな決意などいとも容易く崩れてしまう。自分はすでに、彼に三度も、心を奪われかけている。
(ダメよ。ここで絆されたら、全部無駄になってしまうの)
否定の言葉を頭の中で繰り返しながら、華夜はきつく目を閉じる。
彼が死ぬ。そう思うたび、喉の奥が引き締められるように苦しかった。けれど同時に、彼に嫌われたくないという思いもまた、どうしても消えてはくれなかった。
(……いつまでもこんな嘘が罷り通るわけがない。でも、今夜一緒に過ごせば、またあの闇が来る。何がいけないの? 何をすれば、二人で朝を迎えられるの!?)
のうのうと嘘を吐いて初夜を拒む妻など、どう取り繕ってもまともではない。
ましてや彼は、人間の気の流れにも敏感な男だ。恐らく今回も、自分が吐いた浅はかな嘘など、最初から見抜いていたに違いない。それなのに紘一は怒ることなく、どこまでも華夜を気遣ってくれた。
それが嬉しい。嬉しいと、思ってしまう。そして同時に、どうしようもなく苦しかった。
答えの出ない問いが、華夜の中で渦を巻く。
「……嫌われたく、ないよ」
一人呟いた声は、花の香りの中に溶けるように小さかった。
こんな時でさえ、自分はまだそんなことを願っている。彼を救うことよりも、自分が彼にどう見られるかを気にしている。
なんて身勝手なのだろう。なんて浅ましいのだろう。
けれど、どれほど自分を責めても、その願いは消えてくれなかった。
華夜は花瓶を抱えたまま、布団にも入らず、夜が白むまでじっと座り続けた。眠ろうと目を閉じるたび瞼の裏に浮かぶのは、茜色に染まる街の中、花を手渡してくれたあの時の、愛しい男の微笑みだった。
やがて障子の隙間から、夜明けの光芒が差し込み始める。
――初夜の闇は、静かに明けた。
***
二日目の朝。障子の隙間から滑り込んできた乾いた秋の風に、文机の上の二輪のガーベラがどこか物悲しく揺れていた。華夜は結局、あれから布団に入ることもできないまま、冷たい床の上で部屋の隅に膝を抱えて座り込んでいた。
あまりに静かすぎる。五条の家から身一つで御影の家へと入ることになった華夜への、ささやかな気遣いだったのだろう。慣れない環境で息が詰まらないようにと、彼が華夜に用意してくれたこの部屋は、屋敷の中でも人通りの少ない奥まった場所にあった。しかし、一人で過ごすには広すぎるその空間と徹底された人の往来のなさが、今の華夜にとってはかえって孤独を突きつけるものになってしまっていた。
耳を澄ませても、廊下を行き交う使用人たちの足音も、遠くから漏れ聞こえるはずの話し声も、この部屋には一切届かない。まるで自分だけがこの巨大な御影の屋敷から切り離され、透明な檻に閉じ込められてしまったかのような、奇妙な孤立感がじわじわと肌を蝕んでいく。
そんな心の隙間を縫うように、静まり返った廊下の向こうから、微かな足音が響いた。華夜の身体が、びくりと跳ねる。待ちわびていたはずのその響きに、彼女の心臓は一瞬にして狂ったような早鐘を打ち始めた。
(まさか、紘一様?)
来てはいけない、彼を近づけてはいけないはずなのに。そう強く理性を律しているはずの頭とは裏腹に、無自覚な期待が胸の中で一気に膨れ上がっていく。襖一枚を隔てたすぐ向こう側で足音がぴたりと止まった瞬間、華夜は愛しい人の気配を求めて、縋るようにその白一色の境界線を見つめた。
しかし沈黙を破って届いたのは、聞き慣れた男のものではなく、老齢の落ち着いた女の声だった。
「奥様、失礼いたします。如月です。お部屋に入らせて頂きますね」
(……馬鹿ね、私。何を期待しているのよ)
声をかけられた瞬間、華夜の胸の奥はひどく冷ややかに凪いでいった。自分がこの奥まった部屋に引きこもっている限り、彼が自ら足を運ぶはずがないのだ。頭では痛いほど分かっているはずなのに、勝手に膨らませた期待に裏切られたような気分になっている自分に気づき、どうしようもない自嘲がこみ上げる。
静かに襖が開くと、如月は格下の家からやってきた不出来な新妻を咎めるでもなく、慈しむような、けれどどこかすべてを見透かしているかのような深い眼差しを華夜へと向けた。
「おはようございます。お体の具合はいかがでしょうか。何か、必要なものはございますか」
華夜は膝を抱えたまま、声を絞り出して応える。
「わざわざありがとうございます、如月さん。お気遣いなく。少し横になれば、すぐに良くなると思いますから……」
「左様でございますか。では、静かに休まれるのが一番ですね。何かございましたら、いつでもお呼びください」
如月はそれ以上詮索することはせず、穏やかに微笑んで、静かに襖を閉めた。けれど、去り際に彼女が見せた、何かを堪えるような、あるいは案じるような物言いたげな表情が、華夜の胸に小さな棘を残していく。
再び訪れた静寂は、先ほどよりもいっそう重苦しく部屋を満たしていった。
(やっぱり、こんな不出来な妻のところなんか、彼が来るわけがないのよね……)
格下の家から嫁いでおきながら無下に初夜を拒み、翌朝になってもこうして部屋に閉じこもっている女など、見限られて当然だ。これでいい、彼に嫌われさえすれば、望み通り安全な距離を置くことができる。そう自分に言い聞かせ、膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。けれど、頑なな理性とは裏腹に、華夜の瞳からは堪えきれない涙がぽつりと床へこぼれ落ちた。──その時だった。
トツ、トツ、と。
先ほど去っていった如月のものとは、明らかに種類が違う足音が、静まり返った廊下の奥から近づいてくるのに気がついた。
重くも軽くもない、けれど周囲の空気をピリリと引き締めるような、静謐な威圧感を湛えた静かな音。その足音は迷いなく真っ直ぐに廊下を進み、躊躇うことなく華夜の部屋の前でぴたりと止まった。
華夜は呼吸をすることすら忘れ、襖の奥に佇む足音の主にすべての五感を集中させる。
薄い襖一枚を隔てただけ。顔が見えずとも、その圧倒的な気配だけで、向こう側に佇む男の姿がはっきりと脳裏に浮かび上がっていた。
「華夜。加減は、どうだ」
紛れもない、紘一の声だった。低く、地に響くような重厚な響きの中に、隠しきれない懸念が不器用に滲んでいる。華夜は反射的に、襖の白一色の向こう側に揺れるであろう彼の影を視線で追った。直接耳元で囁かれたのではないかと錯覚するほど、その声は近く、そして酷なほどに温かい。
たったそれだけの不器用な呼びかけで、華夜の凍りついていた胸の奥は、嘘のようにじんわりと熱を帯びていくのだった。
(もしも今、この襖を開けてしまえば──)
一瞬、甘やかな誘惑のような思考が脳裏をよぎる。自分から手を伸ばしてこの境界線を取り払ってしまえば、瞬時に距離は消え、あの愛しい顔が見られる。その声も、もっと近くで聞くことができる。そのまま彼の手をとって、もう一度だけ、あのせつないほどの温もりに触れることができたなら。
(……だめ。そんなことをしたら、もう二度と、この気持ちを止められなくなってしまう)
爪が手のひらに深く食い込むほど、ぎゅっと拳を握りしめた。触れてもいないというのに、ただ襖越しに響く声だけで、こんなにも心が激しく揺さぶられてしまうのだ。もしこの衝動に身を任せ、この木枠に手をかけてしまったら、自分をかろうじて繋ぎ止めている何かが完全に壊れて、取り返しのつかない決壊を迎えてしまう。そんな確信めいた予感に、華夜の身体は小さく震えた。
こみ上げる涙と乱れる息を必死に喉の奥へ押し殺しながら、なんとか平静を装った声を絞り出す。
「お気遣い、ありがとうございます。昨夜よりは、幾分か良くなったように思います。ですが、まだ起き上がるには、眩暈が酷く……」
カラカラに乾いた喉から、またしても偽りの言葉が滑り落ちていく。彼を死の運命から救うための、“正義の嘘”のはずだった。それなのに、それを口にするたび、喉の奥に苦い砂を無理やり流し込まれるような、生々しい自己嫌悪が彼女の心を容赦なく抉っていく。
「そうか。お前のために、薬師に新しい煎じ薬を調合させた。滋養に良い生薬をふんだんに使わせたものだ。後で如月に届けさせる」
その言葉を聞いた瞬間、華夜は思わず目頭が熱くなるのを堪えきれなかった。
理由も明かさず、これほど不条理な拒絶を頑なに続けている新妻に対して、彼は怒るどころか、どこまでも優しく寄り添い、慈しもうとしてくれるのだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい、紘一さん……)
届くはずのない謝罪を胸の中で幾度も幾度も繰り返しながら、華夜はただ、薄い襖の向こう側に佇む気配に向けて、音もなく涙を流すことしかできなかった。
一回目、そして二回目。あの過酷な運命の中で、彼が華夜だけに注いでくれた不器用で真っ直ぐな真心の記憶が、今になって鮮烈な色彩を伴って蘇ってくる。
あの温もりを、あの眼差しを、偽りによって遠ざけている。
華夜は溢れそうになる痛切な想いを、かろうじて感謝の言葉へと変えて、震える唇を動かした。
「あ、ありがとうございます。せっかくお心遣いをいただいたのに、今日もお側に行けなくて申し訳ございません。あの私、本当に、その……」
罪悪感が一気に溢れ出し、言葉が支離滅裂に崩れていく。華夜のしどろもどろな態度は、彼にとって「自分に触れられることを激しく拒み、怯えている」ようにしか聞こえなかったのだろう。冷たい静寂が、襖を挟んだ二人の間に見えない壁のように重苦しくのしかかる。
やがて、紘一が自嘲気味に、重い息を吐き出すようにして呟いた。
「やはり、俺は嫌われているのか」
「え……?」
「五条の家から、半ば強引に連れてこられた身だ。退魔師の血を継ぎ、常に死の臭いを纏うこの俺を、不気味に思うのは当然だろう。……だが、なぜか……お前にだけは、そう思われたくないのだ」
その告白はあまりにも切実で、どこか子供のような剥き出しの孤独を孕んでいた。
「自分でも、どうかしていると思う。だがお前の顔を一度見ただけで、俺の心はどうしようもなく乱されてしまう」
その言葉が、華夜の胸を容赦なく貫いた。たとえ記憶を奪われても、彼の魂は華夜を『拒絶されたくない、唯一の相手』として深く刻み込んでいるのだ。
彼の中に、“あの日の紘一“が生きている。
その愛おしさに、華夜の理性を繋ぎ止めていた糸が、ぷつりと切れた。
「すまない。可笑しな男の戯言だ。忘れてくれ」
「そんな! 嫌いだなんて、そんなこと、ありません!」
紘一が立ち去ろうとする気配に突き動かされ、華夜は思わず床を蹴って襖へと駆け寄り、薄い紙越しに叫んでいた。もどかしさと熱情に耐えきれず、勢いよく襖に宛てがった両の掌が、微かに、けれど激しく震える。
「私、御影様を不気味だなんて、一度も思ったことはございません。むしろもっと、あなたを知りたいと、そう思って――」
叫んでから、華夜は一気に血の気が引いていくのを感じた。
(何を言っているの、私。そんな言葉、彼に期待を持たせてしまう。もっと近づきたいと、自ら境界線を踏み越えるようなものじゃない……!)
しかし、引き返すには遅すぎた。薄い襖のすぐ向こう側で、紘一が短く息を呑む気配が、生々しいほどの明瞭さで伝わってくる。
「……俺を、知りたい、だと?」
低く、どこか掠れた声が華夜の鼓動を跳ね上げる。
あわてて距離を取ろうと、華夜は震える唇で必死に言葉を重ねた。
「あ、あの、それは、もっと先の……っ。私のこの目眩が治まりましたら、その時に、どうか……」
言い訳を紡ぐ声が小さく萎んでいく。一度溢れ出してしまった熱量は、付け焼き刃の嘘ではもう覆い隠せなかった。
紘一はしばらくの間、深い沈黙に身を置いていた。静まり返った廊下で、彼の思考の揺らぎさえ聞こえてきそうな長い静寂。
やがて、凍りついていた空気を溶かすように、ふっと紘一の短い吐息が響いた。届いた彼の声からは先ほどまでの刺々しい孤独が綺麗に消え去り、驚くほど穏やかな、そして深く安堵した響きを帯びていた。
「──お前がそう望むなら、いくらでも話そう。この身のすべてを」
襖の向こうで、彼がそっとこちら側の気配に寄り添うように、木枠に身を寄せたのが分かった。
「だから今は、ただ養生することだけを考えろ。……待っているから」
静かに、けれど揺るぎない約束を置いて去っていく足音が遠のいた瞬間、華夜は緊張の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
彼に嫌われたくない。けれど、これ以上近づけば彼を死の運命へと導いてしまう。矛盾する二つの激しい感情が、華夜の胸を内側から無慈悲に引き裂こうとしていた。
(一生避けるなんて、そんなの無理だわ。私の心が、もう耐え切れない……)
冷たい畳に額を押し当て、華夜は必死に解決の糸口を探そうと爪を立てる。けれど、いくら狭い部屋の中で頭を絞っても、紘一を拒絶し続ける以外に、あの恐ろしい妖魔の襲撃を免れる術など思いつきもしなかった。
(自分の頭の中だけで考えていても、このままじゃ何も分からない。──動かなきゃ。屋敷のどこかに、あの“闇”の引き金になるような手掛かりが、何か残されているかもしれない)
このまま部屋に閉じこもっていれば、恐らく今日の犠牲は防げる。けれどそれは同時に、運命を何一つ変えられないまま、ただ停滞しているだけだ。
華夜は意を決して涙を拭い、部屋の襖を静かに、けれど確かな決意を込めて押し開いた。
しかし、廊下へ一歩踏み出した彼女を待ち受けていたのは、あまりにも絶妙なタイミングで佇んでいた、如月の姿だった。
「奥様? どこへ行かれるのですか。お薬を届けに参りましたが、ご体調は――」
如月の静かで鋭い眼差しに射すくめられ、華夜は思わず息を呑んだ。
動揺を隠し、引きつりそうになる頬を必死に抑えながら、なんとか平静を装った笑みを浮かべる。
「き、如月さん! すみません、驚かせてしまって。少しだけ目眩が落ち着いたので、少し外の空気を吸いたくて。あまりに部屋が静かでしたから、気晴らしに少しだけ、お庭の見える廊下を歩こうと思ったのです」
「左様でございましたか。ですが、病み上がりの御身で無理をされては、旦那様が心配されます。宜しければ、私が手を引いてご案内いたしますが」
「え!? そ、それは……! いえ、そこまでしていただくほどではありません! あの、本当に、一人でゆっくり歩きたいだけですので……どうかお気遣いなく」
返事をするのもそこそこに、華夜は如月の前をすり抜け、逃げるように廊下の奥へと歩き出した。
重く冷たい白無垢の衣と感情を一切塗りつぶした白塗りの化粧は、最早、晴れ姿などではない。死装束だ。二度、守れなかった男への供養でもするつもりか――そう自嘲した瞬間、耳元で母の甘く粘ついた声が聞こえてきた。
「ああ、華夜。なんて美しいんでしょう。貴女は今日、世界で一番幸せな女になるのよ」
その声が、ただただ不快だった。
世界で一番幸せな女だと? もうすでに、二度殺した。二度も、私は彼を守れなかった。
(……何がダメだったの。どうして、彼は死ななければならないの)
婚礼の日の初夜を回避し、部屋を変えれば、あの襲撃は回避できるのだと信じていた。だが結局、紘一が死ぬ運命だけは変えることができなかった。
(日にちを変えても、場所を変えても、妖魔は正確に私たちを嗅ぎつけた。何? 一体何が引き金になっているの?)
華夜は、血に濡れた記憶の欠片を必死に手繰り寄せる。
一度目は、初夜の床に並んだ夜。涙に濡れた華夜の頬を指先でぬぐい、頭を撫でられた時。
二度目は、初夜翌日の夜。二人で街へと繰り出した後、華夜の部屋で紘一が華夜の頬を包み込み、向けられた熱に心が満たされた時だった。
並べ合わせた二つの記憶の共通項が浮かび上がった瞬間、華夜は自分の考えの綻びに気づく。
(違う……あの怪異を引き寄せているのは、特定の部屋や時間じゃない。『夜』という結界の緩む刻限に、私たちが『触れ合うこと』だ)
肌を重ねることはおろか、一歩でもあの甘やかな距離に近づけば、あの狡猾な闇は、より凄惨な方法で彼の命を奪うだろう。
その仮説が導く結論はただ一つ――彼を救うためには、夜、もう絶対に指一本触れ合ってはならない。
そして同時にそれは、華夜にとって最も過酷な選択を強いられることを意味していた。
(どうにかして、夜に二人きりになるのを避けなければ。でも、心を閉ざし、頑なに触れ合いを拒み続ける私を、あの方はどう思うかしら。せっかく通い合わせたあの温かい心を、私から踏みにじるの? あの方に『不気味で、冷酷な女』だと、疎まれてしまうかもしれない……)
二度目のループで彼が向けてくれた、あの耳たぶを赤く染めた照れ隠しや、拳を握りしめて私を守ろうとしてくれたひたむきな優しさが、胸を抉るように締め付ける。
彼を救いたい。けれど、同時に彼に蔑まれたくない、嫌われたくないという、身勝手で卑小な未練が、華夜の心を激しく揺さぶっていた。
「まあ華夜! どうしたのです。顔色が優れませんよ。せっかくの良き日に――」
いかにも心配だというように大袈裟な声を出しながら、眉を下げた母の顔が覗き込んでくる。
その顔に、吐き気が込み上げる程の苛立ちを覚えた。
いつもなら、華夜は“人形としての完璧な微笑“を返し、母の望む言葉を紡いでいただろう。だが今の華夜の胸中には、あの日のガーベラの温もりと、それを無残に切り裂かれたことへの焼けるような絶望が、どす黒く溜まっていた。
「――顔色、ですか?」
華夜は鏡越しに母を射抜いた。その瞳には、かつての従順な光はなく、剥き出しの刃のような鋭さが宿っている。
「これほど厚く白粉を塗りたくっておきながら、肌の色など分かりますか。……そんなに完璧な花嫁でなければなりませんか。この、生贄のような姿が」
「……華夜……? 何を、何を言っているのです……」
母の顔が、驚愕に凍りついた。言葉に詰まり、信じられない異物を見るかのように娘を見つめる。その狼狽した反応を見て、華夜はハッと我に返った。心臓がうるさいほどに脈打ち、冷や汗が背中を伝う。
「……っ。申し訳、ありません……。わたくし、何を……」
華夜は急いで視線を伏せ、震える指先で膝の上の白無垢を握りしめた。
「婚礼を前に、少々……取り乱してしまったようです。……お許しください、お母様」
熱の引いた声で心にもない謝罪を口にすると、再び無機質な人形の顔を鏡の中に作り上げる。だがその胸の奥底では、凍てつくような決意と、震えるような恐怖が黒く渦巻いていた。
(取り乱してどうするの。ここで母を撥ね退けても、運命は一歩も動かないのに)
思いの丈をぶつける先などない。この終わりなき死の円環を反芻しているのは、世界でたった一人、自分だけなのだから。華夜は叫ぶ代わりに、奥歯を思い切り噛み締めた。
今度は、もっと周到に立ち回らなければ。けれど、紘一に拒絶され疎まれる恐怖に、今から心が潰れそうになる。
(嫌われたくない。けれど、絶対に死なせたくもない。どうすればいいの、紘一さん……私はあなたに、もう一度――)
答えの出ない問いを抱えたまま、華夜は静かに立ち上がった。
「……参りましょう、お母様。御影様のお屋敷へ」
紘一を死なせないためには、もう二度と、夜に触れ合うことは許されない。それでも、心のどこかで『もう一度彼に愛されたい』という傲慢な飢えを拭い捨てることができず、華夜は重く、深い息を吐いた。
***
御影の屋敷の門は、もはや華夜にとって地獄の入り口のようであった。
夕暮れの空は禍々しいほどに赤く焼け、まるでこれから流れる血の色を予報しているかのようだ。庭先に咲き急ぐ花々は、風に吹かれては無残に散り、死へと急ぐ命の儚さを華夜の心に突きつける。
そうして、見慣れた奥の間の襖の前に立つ。華夜が意を決して襖を開けると、そこには過去二回の記憶と同じく、威圧的なまでの美しさを湛えて“あの男“が座していた。だが不思議なことに、初めて見るはずの華夜を射抜く琥珀の瞳は、かつてないほどに波立ち、困惑の影を宿しているようにも見えた。三度目にして初めて抱いたその違和感に、華夜は妙な胸騒ぎを覚える。
「……五条、華夜だな」
低く、地に響くような声が静まり返った部屋に落ちる。
この顔合わせの瞬間に、紘一の口から華夜の名前が出たのは初めてだった。想定外の変化に華夜は一瞬動揺したが、平静を装って畳に手をつき、深く頭を下げた。視界に入る自分の指先が、石のように冷たく、小さく震えている。
(落ち着いて。まずは……まずは今夜をやり過ごさなきゃ。初夜を回避することは、前回出来ているんだから。なんとしてでも、あの『引き金』を引かせてはいけないのよ)
華夜の脳裏には、いまだに彼の最期の温もりがこびりついている。それを振り払うように、彼女は冷たい畳を強く指先で押さえた。
「面を上げろ」
その峻厳な言葉に従い、ゆっくりと顔を上げた瞬間――華夜は思わず息を呑んだ。
紘一が自らの眉間に指を当て、何か耐え難い頭痛か、あるいは溢れ出す濁流を必死に堰き止めようとするかのように、険しい顔をしていたからだ。
「……不可解なことだ。お前と会うのはこれが初めてのはずだが……なぜか、胸が騒ぐ」
紘一の独白に、華夜の心臓が早鐘を打つ。その言葉は、運命という名の鎖が軋みを上げた音のように聞こえた。
「お前のその顔を以前、どこかで見た気がして……いや、そんなはずはないのだ。申し訳ない……忘れてくれ」
紘一は混乱を隠しきれない様子で、華夜を射抜くように凝視した。
(紘一さん……あなた、もしかして覚えているの? 断片でも、私と一緒に過ごした時間を、魂が刻んでいるというの?)
だがここで彼の手を取ってしまえば、今夜、再び彼を死なせてしまう。込み上げる愛しさと残酷な再会への悲鳴を喉の奥に押し殺し、華夜は痛む胸を抑えて、用意していた“嘘”を絞り出した。
「こ、――御影様。恐れながら、申し上げます。わたくし、先程から眩暈が酷く、今にも倒れてしまいそうで……せっかくの婚礼の初夜ではございますが、今宵ばかりはお側を離れて独り、休ませてはいただけないでしょうか」
愛しい男の名を呼びかけてしまいそうになった顎を、華夜は必死に噛み殺す。
前回は紘一の『夫婦となる必要はない』という言葉を利用する形で申し出たが、今回はそれよりも先に、自ら拒絶を口にした。格下の家から嫁いできた身でありながら初夜を拒否するなど、本来なら屈辱以外の何物でもない。
だが、華夜には確信があった。理由はどうであれ、この男は、それを許すと。
それを分かっていながら、彼の優しさに付け込んで嘘を吐き続けることに対する贖罪か。あるいは彼を守るためとはいえ、愛する男に平然と嘘を吐いてのける自分の狡猾さに対する恐怖からか。乾いた喉から絞り出した懇願の声は、止まらない震えを孕んでいた。
華夜の言葉に紘一の眉がぴくりと動き、部屋には、凍りついたような沈黙がどこまでも深く流れていく。
「……確かに、顔色が悪く見えるな。祝言の儀と宴会の席はどうする」
「宴会の席までは、使命を全う致します。両家の儀式ですので……」
「そうか。だが、無理をするなよ。初夜については、如月に話をつけておく。宴会の席を立ったら、部屋でゆっくり休め」
「っ、……申し訳、ございません。ありがとうございます」
琥珀の瞳が、気遣わしげに揺れている。初夜を拒絶された男としての困惑と、無意識の傷みを奥底に滲ませながらも、紘一はどこまでも華夜を労ろうとしていた。その不器用な優しさが、華夜の罪悪感を鋭利な刃で抉る。彼が自分を気遣えば気遣うほど、華夜の吐く嘘は黒い毒となって、自分自身の心を蝕んでいくようだった。
夕闇が廊下の影を長く伸ばし、二人の間に取り返しのつかない境界線を引いていくのを、華夜はただ、滲む視界で見つめることしかできなかった。
***
祝言の儀を恙無く終え、賑やかな宴会の席を立ち、華夜は如月に連れられて自室へと向かっていた。遠ざかる喧騒と引き換えに、冷え切った廊下に二人の足音が静かに響く。もう何度も足を踏み入れているその部屋の襖が開いたところで、華夜はぴたりと足を止めた。
「奥様? どうかなさいましたか」
部屋の入り口で立ち止まったまま動かない華夜に、後ろへ控えていた如月が怪訝な声で尋ねた。
(なんだろう……何か、前回とは雰囲気が違う気がする)
違和感の正体を探して、暗がりのなかに視線を暫く彷徨わせていた華夜だったが、やがて、ある一点に留まった。それを視界に捉えた瞬間、全身が粟立つような感覚とともに、思わず息を呑む。
「……如月さん。これは?」
掠れた声で華夜が問うと、如月は少しだけ困惑したように微笑んで答えた。
「ああ。そちらは、旦那様のご指示で」
「御影様が……?」
「ええ。今まで、このようなものにあまり関心を示すようなお方ではなかったのですが……数日前、突然自ら買ってこられたのです。『これを飾って欲しい』と――」
独りの夜は、ひどく静かだった。華夜は布団に入ることもできず、文机の前に膝をついたまま、紘一が買ってきたというそれをぼんやりと見つめていた。
二輪のガーベラ。前回の結婚で、帝都の街を歩いた帰り道。花売りの少女から紘一が買い、華夜へと差し出してくれたものと違わぬ、鮮やかな黄色の花。
あの時、華夜は初めて知ったのだ。自分が良いと思ったものを、欲しいと願っても良いのだと。誰かから花を贈られるということが、こんなにも胸を温かくするのだと。自分の選んだものを『お前に似合う』と言われることが、こんなにもくすぐったく、嬉しいものなのだと。けれど今、目の前にある花は、あの時の幸福を思い出させると同時に、華夜の胸を鋭く抉っていた。
(……ねえ、どうして)
記憶など、残るはずがない。“この世界”の紘一は、華夜と帝都を歩いたことも、芝居小屋で並んで座ったことも、花を手渡してくれたことも知らないはずなのに。なのに彼は、あの時と同じ花を選んだ。――今回は何故か、二輪に増えているけれど。それはまるで、彼が繰り返してきた時間の数を、無意識に数え上げているかのようで、余計に怖かった。
如月に聞かされた紘一の言葉が、華夜の頭の中に反響する。
『これを飾って欲しい。この部屋には、この花が似合う気がした』
(どうして、そんなふうに……)
華夜はゆっくりと手を伸ばし、ガーベラの花弁の先にそっと触れた。柔らかかった。触れれば崩れてしまいそうなほど、繊細で頼りない。それでも、二つの黄色は鮮やかに凛とした生命力を放っている。まるで、あの男の優しさのようだと、華夜は思った。押しつけがましくなく、声高でもなく、けれど確かにそこにあって、否応なく胸の奥へ沁み込んでくる。
「……こんなの、ずるいよ」
思わず声が漏れた。誰に向けた非難だったのか、自分でも分からない。最愛の男か、呪われた運命か。それともこんな状況でさえ、花に触れるだけで彼の優しさに心を揺らしてしまう自分自身か。
華夜はその場に座り込んだまま、そっと花瓶を抱き寄せるようにして顔を伏せた。二度目の結婚で過ごした一日の情景が、次から次へと溢れてくる。
庭で見た、小雪を大きな手のひらに乗せて話しかけていた優しい声。
折れた枝に触れ、静かに花を咲かせた指先。
茶屋や芝居小屋で、柔らかな眼差しで自分を見つめていた琥珀の瞳。
同じ屋敷の、すぐ近くに彼はいる。けれど、いまそこにいるのは、私との記憶をすべて失った御影紘一だ。あの日の紘一はもう居ない。
(……会い、たい)
私の知っている、あの優しいあなたに、会いたい。
そんな願いが胸に浮かんだ瞬間、華夜ははっとして息を呑んだ。
――違う。今はできるだけ距離をおかねばならないのだ。
近づけば近づくほどに、彼に触れたい、触れられたいという気持ちが心を占めてしまう。何としてでも、御影紘一を守らなければ。そう頭で理解しているはずなのに、この花を見ているだけで、そんな決意などいとも容易く崩れてしまう。自分はすでに、彼に三度も、心を奪われかけている。
(ダメよ。ここで絆されたら、全部無駄になってしまうの)
否定の言葉を頭の中で繰り返しながら、華夜はきつく目を閉じる。
彼が死ぬ。そう思うたび、喉の奥が引き締められるように苦しかった。けれど同時に、彼に嫌われたくないという思いもまた、どうしても消えてはくれなかった。
(……いつまでもこんな嘘が罷り通るわけがない。でも、今夜一緒に過ごせば、またあの闇が来る。何がいけないの? 何をすれば、二人で朝を迎えられるの!?)
のうのうと嘘を吐いて初夜を拒む妻など、どう取り繕ってもまともではない。
ましてや彼は、人間の気の流れにも敏感な男だ。恐らく今回も、自分が吐いた浅はかな嘘など、最初から見抜いていたに違いない。それなのに紘一は怒ることなく、どこまでも華夜を気遣ってくれた。
それが嬉しい。嬉しいと、思ってしまう。そして同時に、どうしようもなく苦しかった。
答えの出ない問いが、華夜の中で渦を巻く。
「……嫌われたく、ないよ」
一人呟いた声は、花の香りの中に溶けるように小さかった。
こんな時でさえ、自分はまだそんなことを願っている。彼を救うことよりも、自分が彼にどう見られるかを気にしている。
なんて身勝手なのだろう。なんて浅ましいのだろう。
けれど、どれほど自分を責めても、その願いは消えてくれなかった。
華夜は花瓶を抱えたまま、布団にも入らず、夜が白むまでじっと座り続けた。眠ろうと目を閉じるたび瞼の裏に浮かぶのは、茜色に染まる街の中、花を手渡してくれたあの時の、愛しい男の微笑みだった。
やがて障子の隙間から、夜明けの光芒が差し込み始める。
――初夜の闇は、静かに明けた。
***
二日目の朝。障子の隙間から滑り込んできた乾いた秋の風に、文机の上の二輪のガーベラがどこか物悲しく揺れていた。華夜は結局、あれから布団に入ることもできないまま、冷たい床の上で部屋の隅に膝を抱えて座り込んでいた。
あまりに静かすぎる。五条の家から身一つで御影の家へと入ることになった華夜への、ささやかな気遣いだったのだろう。慣れない環境で息が詰まらないようにと、彼が華夜に用意してくれたこの部屋は、屋敷の中でも人通りの少ない奥まった場所にあった。しかし、一人で過ごすには広すぎるその空間と徹底された人の往来のなさが、今の華夜にとってはかえって孤独を突きつけるものになってしまっていた。
耳を澄ませても、廊下を行き交う使用人たちの足音も、遠くから漏れ聞こえるはずの話し声も、この部屋には一切届かない。まるで自分だけがこの巨大な御影の屋敷から切り離され、透明な檻に閉じ込められてしまったかのような、奇妙な孤立感がじわじわと肌を蝕んでいく。
そんな心の隙間を縫うように、静まり返った廊下の向こうから、微かな足音が響いた。華夜の身体が、びくりと跳ねる。待ちわびていたはずのその響きに、彼女の心臓は一瞬にして狂ったような早鐘を打ち始めた。
(まさか、紘一様?)
来てはいけない、彼を近づけてはいけないはずなのに。そう強く理性を律しているはずの頭とは裏腹に、無自覚な期待が胸の中で一気に膨れ上がっていく。襖一枚を隔てたすぐ向こう側で足音がぴたりと止まった瞬間、華夜は愛しい人の気配を求めて、縋るようにその白一色の境界線を見つめた。
しかし沈黙を破って届いたのは、聞き慣れた男のものではなく、老齢の落ち着いた女の声だった。
「奥様、失礼いたします。如月です。お部屋に入らせて頂きますね」
(……馬鹿ね、私。何を期待しているのよ)
声をかけられた瞬間、華夜の胸の奥はひどく冷ややかに凪いでいった。自分がこの奥まった部屋に引きこもっている限り、彼が自ら足を運ぶはずがないのだ。頭では痛いほど分かっているはずなのに、勝手に膨らませた期待に裏切られたような気分になっている自分に気づき、どうしようもない自嘲がこみ上げる。
静かに襖が開くと、如月は格下の家からやってきた不出来な新妻を咎めるでもなく、慈しむような、けれどどこかすべてを見透かしているかのような深い眼差しを華夜へと向けた。
「おはようございます。お体の具合はいかがでしょうか。何か、必要なものはございますか」
華夜は膝を抱えたまま、声を絞り出して応える。
「わざわざありがとうございます、如月さん。お気遣いなく。少し横になれば、すぐに良くなると思いますから……」
「左様でございますか。では、静かに休まれるのが一番ですね。何かございましたら、いつでもお呼びください」
如月はそれ以上詮索することはせず、穏やかに微笑んで、静かに襖を閉めた。けれど、去り際に彼女が見せた、何かを堪えるような、あるいは案じるような物言いたげな表情が、華夜の胸に小さな棘を残していく。
再び訪れた静寂は、先ほどよりもいっそう重苦しく部屋を満たしていった。
(やっぱり、こんな不出来な妻のところなんか、彼が来るわけがないのよね……)
格下の家から嫁いでおきながら無下に初夜を拒み、翌朝になってもこうして部屋に閉じこもっている女など、見限られて当然だ。これでいい、彼に嫌われさえすれば、望み通り安全な距離を置くことができる。そう自分に言い聞かせ、膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。けれど、頑なな理性とは裏腹に、華夜の瞳からは堪えきれない涙がぽつりと床へこぼれ落ちた。──その時だった。
トツ、トツ、と。
先ほど去っていった如月のものとは、明らかに種類が違う足音が、静まり返った廊下の奥から近づいてくるのに気がついた。
重くも軽くもない、けれど周囲の空気をピリリと引き締めるような、静謐な威圧感を湛えた静かな音。その足音は迷いなく真っ直ぐに廊下を進み、躊躇うことなく華夜の部屋の前でぴたりと止まった。
華夜は呼吸をすることすら忘れ、襖の奥に佇む足音の主にすべての五感を集中させる。
薄い襖一枚を隔てただけ。顔が見えずとも、その圧倒的な気配だけで、向こう側に佇む男の姿がはっきりと脳裏に浮かび上がっていた。
「華夜。加減は、どうだ」
紛れもない、紘一の声だった。低く、地に響くような重厚な響きの中に、隠しきれない懸念が不器用に滲んでいる。華夜は反射的に、襖の白一色の向こう側に揺れるであろう彼の影を視線で追った。直接耳元で囁かれたのではないかと錯覚するほど、その声は近く、そして酷なほどに温かい。
たったそれだけの不器用な呼びかけで、華夜の凍りついていた胸の奥は、嘘のようにじんわりと熱を帯びていくのだった。
(もしも今、この襖を開けてしまえば──)
一瞬、甘やかな誘惑のような思考が脳裏をよぎる。自分から手を伸ばしてこの境界線を取り払ってしまえば、瞬時に距離は消え、あの愛しい顔が見られる。その声も、もっと近くで聞くことができる。そのまま彼の手をとって、もう一度だけ、あのせつないほどの温もりに触れることができたなら。
(……だめ。そんなことをしたら、もう二度と、この気持ちを止められなくなってしまう)
爪が手のひらに深く食い込むほど、ぎゅっと拳を握りしめた。触れてもいないというのに、ただ襖越しに響く声だけで、こんなにも心が激しく揺さぶられてしまうのだ。もしこの衝動に身を任せ、この木枠に手をかけてしまったら、自分をかろうじて繋ぎ止めている何かが完全に壊れて、取り返しのつかない決壊を迎えてしまう。そんな確信めいた予感に、華夜の身体は小さく震えた。
こみ上げる涙と乱れる息を必死に喉の奥へ押し殺しながら、なんとか平静を装った声を絞り出す。
「お気遣い、ありがとうございます。昨夜よりは、幾分か良くなったように思います。ですが、まだ起き上がるには、眩暈が酷く……」
カラカラに乾いた喉から、またしても偽りの言葉が滑り落ちていく。彼を死の運命から救うための、“正義の嘘”のはずだった。それなのに、それを口にするたび、喉の奥に苦い砂を無理やり流し込まれるような、生々しい自己嫌悪が彼女の心を容赦なく抉っていく。
「そうか。お前のために、薬師に新しい煎じ薬を調合させた。滋養に良い生薬をふんだんに使わせたものだ。後で如月に届けさせる」
その言葉を聞いた瞬間、華夜は思わず目頭が熱くなるのを堪えきれなかった。
理由も明かさず、これほど不条理な拒絶を頑なに続けている新妻に対して、彼は怒るどころか、どこまでも優しく寄り添い、慈しもうとしてくれるのだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい、紘一さん……)
届くはずのない謝罪を胸の中で幾度も幾度も繰り返しながら、華夜はただ、薄い襖の向こう側に佇む気配に向けて、音もなく涙を流すことしかできなかった。
一回目、そして二回目。あの過酷な運命の中で、彼が華夜だけに注いでくれた不器用で真っ直ぐな真心の記憶が、今になって鮮烈な色彩を伴って蘇ってくる。
あの温もりを、あの眼差しを、偽りによって遠ざけている。
華夜は溢れそうになる痛切な想いを、かろうじて感謝の言葉へと変えて、震える唇を動かした。
「あ、ありがとうございます。せっかくお心遣いをいただいたのに、今日もお側に行けなくて申し訳ございません。あの私、本当に、その……」
罪悪感が一気に溢れ出し、言葉が支離滅裂に崩れていく。華夜のしどろもどろな態度は、彼にとって「自分に触れられることを激しく拒み、怯えている」ようにしか聞こえなかったのだろう。冷たい静寂が、襖を挟んだ二人の間に見えない壁のように重苦しくのしかかる。
やがて、紘一が自嘲気味に、重い息を吐き出すようにして呟いた。
「やはり、俺は嫌われているのか」
「え……?」
「五条の家から、半ば強引に連れてこられた身だ。退魔師の血を継ぎ、常に死の臭いを纏うこの俺を、不気味に思うのは当然だろう。……だが、なぜか……お前にだけは、そう思われたくないのだ」
その告白はあまりにも切実で、どこか子供のような剥き出しの孤独を孕んでいた。
「自分でも、どうかしていると思う。だがお前の顔を一度見ただけで、俺の心はどうしようもなく乱されてしまう」
その言葉が、華夜の胸を容赦なく貫いた。たとえ記憶を奪われても、彼の魂は華夜を『拒絶されたくない、唯一の相手』として深く刻み込んでいるのだ。
彼の中に、“あの日の紘一“が生きている。
その愛おしさに、華夜の理性を繋ぎ止めていた糸が、ぷつりと切れた。
「すまない。可笑しな男の戯言だ。忘れてくれ」
「そんな! 嫌いだなんて、そんなこと、ありません!」
紘一が立ち去ろうとする気配に突き動かされ、華夜は思わず床を蹴って襖へと駆け寄り、薄い紙越しに叫んでいた。もどかしさと熱情に耐えきれず、勢いよく襖に宛てがった両の掌が、微かに、けれど激しく震える。
「私、御影様を不気味だなんて、一度も思ったことはございません。むしろもっと、あなたを知りたいと、そう思って――」
叫んでから、華夜は一気に血の気が引いていくのを感じた。
(何を言っているの、私。そんな言葉、彼に期待を持たせてしまう。もっと近づきたいと、自ら境界線を踏み越えるようなものじゃない……!)
しかし、引き返すには遅すぎた。薄い襖のすぐ向こう側で、紘一が短く息を呑む気配が、生々しいほどの明瞭さで伝わってくる。
「……俺を、知りたい、だと?」
低く、どこか掠れた声が華夜の鼓動を跳ね上げる。
あわてて距離を取ろうと、華夜は震える唇で必死に言葉を重ねた。
「あ、あの、それは、もっと先の……っ。私のこの目眩が治まりましたら、その時に、どうか……」
言い訳を紡ぐ声が小さく萎んでいく。一度溢れ出してしまった熱量は、付け焼き刃の嘘ではもう覆い隠せなかった。
紘一はしばらくの間、深い沈黙に身を置いていた。静まり返った廊下で、彼の思考の揺らぎさえ聞こえてきそうな長い静寂。
やがて、凍りついていた空気を溶かすように、ふっと紘一の短い吐息が響いた。届いた彼の声からは先ほどまでの刺々しい孤独が綺麗に消え去り、驚くほど穏やかな、そして深く安堵した響きを帯びていた。
「──お前がそう望むなら、いくらでも話そう。この身のすべてを」
襖の向こうで、彼がそっとこちら側の気配に寄り添うように、木枠に身を寄せたのが分かった。
「だから今は、ただ養生することだけを考えろ。……待っているから」
静かに、けれど揺るぎない約束を置いて去っていく足音が遠のいた瞬間、華夜は緊張の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
彼に嫌われたくない。けれど、これ以上近づけば彼を死の運命へと導いてしまう。矛盾する二つの激しい感情が、華夜の胸を内側から無慈悲に引き裂こうとしていた。
(一生避けるなんて、そんなの無理だわ。私の心が、もう耐え切れない……)
冷たい畳に額を押し当て、華夜は必死に解決の糸口を探そうと爪を立てる。けれど、いくら狭い部屋の中で頭を絞っても、紘一を拒絶し続ける以外に、あの恐ろしい妖魔の襲撃を免れる術など思いつきもしなかった。
(自分の頭の中だけで考えていても、このままじゃ何も分からない。──動かなきゃ。屋敷のどこかに、あの“闇”の引き金になるような手掛かりが、何か残されているかもしれない)
このまま部屋に閉じこもっていれば、恐らく今日の犠牲は防げる。けれどそれは同時に、運命を何一つ変えられないまま、ただ停滞しているだけだ。
華夜は意を決して涙を拭い、部屋の襖を静かに、けれど確かな決意を込めて押し開いた。
しかし、廊下へ一歩踏み出した彼女を待ち受けていたのは、あまりにも絶妙なタイミングで佇んでいた、如月の姿だった。
「奥様? どこへ行かれるのですか。お薬を届けに参りましたが、ご体調は――」
如月の静かで鋭い眼差しに射すくめられ、華夜は思わず息を呑んだ。
動揺を隠し、引きつりそうになる頬を必死に抑えながら、なんとか平静を装った笑みを浮かべる。
「き、如月さん! すみません、驚かせてしまって。少しだけ目眩が落ち着いたので、少し外の空気を吸いたくて。あまりに部屋が静かでしたから、気晴らしに少しだけ、お庭の見える廊下を歩こうと思ったのです」
「左様でございましたか。ですが、病み上がりの御身で無理をされては、旦那様が心配されます。宜しければ、私が手を引いてご案内いたしますが」
「え!? そ、それは……! いえ、そこまでしていただくほどではありません! あの、本当に、一人でゆっくり歩きたいだけですので……どうかお気遣いなく」
返事をするのもそこそこに、華夜は如月の前をすり抜け、逃げるように廊下の奥へと歩き出した。
